肆
午後に月子さまがおいでになりました。使用人宿舎で繕いものをしていた私ですが、月子さまがお呼びだと同僚に言われて立ち上がりました。針は針山に刺しておいて、急ぎ足で応接間に参ります。もちろん、お借りしたハンカチは洗ってアイロンをかけた上で、いつでもポケットの中に入れており、すぐお返しできるようにしてありました。
応接間の扉をノックしますと「どうぞ」と月子さまの声がしました。
「失礼いたします」
月子さまはソファから立ち上がりました。
「みやさん。怪我はもう平気? わたしったら、あれからこのお屋敷に来ていないものだから、気になってしまって」
月子さまは私の首筋をじっと見ます。私の傷は小さなものでしたから、とっくに直って目立たなくなっておりましたが、月子さまの真剣な視線に晒されておりますと、何やらむずむずと落ち着かない心地になります。
「お医者様にも診ていただきましたが、たいして深いわけでもなく、痕も残らないそうです。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「そんな。いいのよ。畏まらないで」
月子さまは花が綻ぶような笑みを零します。
「スミさんから話を聞いていたのだけれど、自分の目で見て、安心したかったの。呼び出してしまってごめんなさいね」
ね、と押し付けるでもなく、少しだけ懇願を混じったような同意を求められるのです。
「いいえ。それぐらいでしたら、いくらでも呼び出していただいて構いません」
するっと言葉が出てまいりました。このついでとばかりにポケットに入れたものを差し出します。
「あの。以前にお借りしたハンカチをお返ししたくて。しっかり洗って、アイロンも当てました。ありがとうございました!」
「え? あれは返さなくてもいいのよ。貴女にあげたものだから」
月子さまは困った顔をされますが、私としてもこんなに素敵なレースのハンケチをいただくわけにもいきません。
「それなら……受け取るわ」
月子さまが私の差し出すハンケチに手を伸ばそうとして……手と手が触れました。
ぴくりと月子さまの指が震えたのが見えました。不思議に思い、視線を上げてみれば。
月子さまは――一瞬、眉間に皺を寄せられました。
「ありがとう、みやさん」
声で目が醒めた心地でした。
ハンケチを受け取った月子さまはいつものように微笑まれていて、あの影のある表情を微塵も感じさせません。
「みやさんは律儀なのね。みやさんらしいわ」
さきほどのお顔は気のせいだったのかしら、と疑問に思いつつ、佐恵子さんがつい先日、私に言ったことが思い出されます。私は月子さまの「お気に入り」なのだと。
……たしかにこの方は私によく笑顔を見せてくださいます。他の使用人の誰よりも、私はこの方の笑顔を知っている。そんなうぬぼれが頭をよぎるのです。
「不思議そうな顔をしないで。褒めているの。私、みやさんみたいな方を好ましいと思っているから」
月子さまは囁きに近いお声でこんなことをおっしゃってくださいます。私の頬が赤くなるのも仕方のないことです。儚げな姿をなさっていても、こんなに私を動揺させるお言葉をご存じだったとは知らなかったのです。
「どうしてそこまで気に入ってくださるのですか」
つい分を越えた問いを投げてしまいます。月子さまは不躾だとは一瞬たりとも思ってはおられない様子で、素直に思案なさったようでした。
「どうしてかしら」
とさりとソファに腰かけられました。見上げられる視線が、私を落ち着かなくさせます。優さまのものとは違い、威圧感というよりも、穢れなき好意を感じさせるからでしょうか。後ろ暗いところは何もないですが、恥ずかしさを覚えました。
「あなたって使用人のはずなのに、わたしと同じ側にいるような気がするの」
わたしと同じ、仕えられる側に。月子さまは白くて細い首をしきりに傾げられました。
「おかしいの。なぜこのようなことを思うのかしら」
この間、私は驚きのあまり、何も申せずにおりました。大変、恐れ多いです。恐れ多すぎて、目を瞠っていたものと思われます。挙句、頭が真っ白になってしまって、適当な相槌さえも打てません。このお屋敷に来て最初のころに戻ったかのように、ぼうっと立ち尽くすしかなかったのでした。
「あぁ、あのね、別に態度が偉そうだとか、そういうことではないのよ? 困らせるつもりではなかったのに。許して頂戴、みやさん」
恥じ入ったように頬を少しだけ染めて俯く、月子さまには敵いません。私が何かを言う前に、察してくださいました。
「いいえ。少し驚いたもので。気に障ることなどありましたらおっしゃってください。直しますので!」
こうなれば、するすると言葉が出てまいります。
私はそのまま、月子さまのお話し相手となっておりました。私は求められるがままにお屋敷での仕事のことを話し、月子さまはご自分で通っておいでの女学校のお話をしてくださいました。作法や、裁縫、家事、音楽。月子さまは女学校で合唱団に入られているとのことでした。
束の間、私はまるで自分も女学生になった気持ちで聞き入っておりました。女学校は私と縁のないものではありますが、月子さまの学友となった自分を想像するとわくわくするものがあります。
月子さまに引き留められるがままにお話をしていますと、優さまが顔をお見せになりました。その途端、月子さまが息を呑むほどに美しくなられました。蕾が花開くように、白い頬には朱が差してまいります。きゅっと唇を結んで、緊張しておられる様子も大変に可愛らしいのです。
月子さまは優さまに恋をされていらっしゃる。恋する乙女。なんて甘美な響きなのでしょう。
「優さま、お邪魔しております」
月子さまはそっと席を立って、頭を下げます。私はすでに部屋の隅に下がり、御用があればお伺いするつもりでおりました。
「来ていたのか」
優さまはかけていた眼鏡をわずらわしそうに背広の胸ポケットに入れながら月子さまへ話しかけられました。ただ仕事上のお付き合いのあるお知り合いの方と会っているような事務的な口調です。
「はい。近くを買い物していたものですから、こちらにもご挨拶をと思って」
「そうか。勝手にしていくといい」
「優さま……」
月子さまの瞳が悲しげに揺れました。しかし、優さまはそんな月子さまを見ておられません。
本当は薄々気づいておりました。このお二人はご婚約をされてはいても、お気持ちは通じ合ってはいない。月子さまの一方的な片思いなのです。
いいえ、それでも、好きな方と結婚できることは月子さまにとっては嬉しいことなのでしょう。政略結婚で意に染まぬ殿方と結婚するよりかは。
「お茶をお持ちいたします」
私は一介の使用人です。月子さまのお気持ちに寄りそうことはできても、優さまとの仲を取り持つことなどできるはずもありません。思いを隠すように、一礼します。
優さまが私の方を刺すような眼差しでご覧になっているのが、ちりちりとした肌の感覚でわかります。あの一件以来、ここまでお近くで接することがありませんでしたが、今更になって何か言いたいことでもおありになるのでしょうか。厭なことでないといいのですけれど。
拒絶がなかったのを幸いに、何かに追い立てられるかのように部屋の外に出ました。扉を閉めて、ほっと胸をなでおろします。
厨房へ行きますとスミさんがたまたまいらしたのでお茶のことを頼み、私は自分の仕事に戻りました。
もうそろそろマフラーが必要な時季に差し掛かっておりました。
風が首筋を撫でるたび、ひやっとして首を竦めます。髪先もなんだかちくちくするものですから落ち着きません。
切り落とされた髪は存外重いものでした。ふとした時に、その重みを懐かしく思い出すのです。
赤や黄色に染まっていく木々の下、私は他の使用人たちと庭掃除に勤しんでおりました。天蔵家の広大な庭は私たちが掃除しても管理が追いつきません。特に紅葉の時期になりますと、幾ら人手があっても足りないのです。旦那様方のお世話がないときというのは、大体において、この庭掃除に費やされるといっても過言ではないのです。
早々に色に染まりきって落ちてしまった葉をかき集め、ついでに夏の間に伸びてしまっていた雑草を抜いてしまいますと、庭のあちらこちらにこんもりとした小山がいくつもできます。
私は繁り過ぎた草をぷちりと手で抜いていました。抜いては近くに山をこさえて、落ちてきた葉は掃き清めます。こうした単純な作業は嫌いではありません。没頭しておりますと、何もつまらぬことは考えずに済むのです。皆は飽き飽きするものだと言っていましたが、父母の元で同じようなことをしたものだと思いますと、そこまで苦になるものでもないのです。要は典型的な田舎娘ですから、骨の髄まで田舎が染みついているというわけなのです。
しゃがみ込んだまま、上を見上げます。空は生憎に曇っていました。一雨来てしまいそうなほどに雲が近いのです。
案の定、しばらくすると頬に触れる冷たいものを感じます。庭掃除は中断となりそうです。立ち上がって、服の裾を払います。ぽたぽたと形容するよりも、ぼたぼたといっていいぐらいの雨粒が、私の体に降り注いできました。
私がいるのは庭でも奥の方です。周りは木々ばかりで使用人棟まではだいぶ長さがあります。ぐっしょり濡れてしまうわけにも参りませんので、広がったスカートの裾を摘まんで走り出します。
天蔵家の庭には、散策用に石畳の細々とした道がございます。自分の居場所を把握しきれないほどに広い庭でも、この道を辿っていけば、お屋敷にすぐに着くのです。
「何をしている」
私の足は束の間、止まりました。何かの手妻みたいでした。すぐ目の前に優さまがいらっしゃいます。上等な黒い蝙蝠傘をお差しになって。きっと、散策にいらしたのでしょう。
私の正面に優さまが立っていらっしゃる。私は慌てて、道を開けて礼をしました。
「これは失礼いたしました」
なんと、私は優さまが通られる道を塞いでしまっていたのです。これでは不機嫌そうなお声なのも、当然のことです。
優さまはそのまままっすぐと私の来た道に行かれるように見えました。毅然とした足音が耳に入り、伏せた目には、神経質に歩かれる黒い革靴が映ります。
足音は遠ざかっていくように思われました。事実、優さまは私の前をただ通り過ぎるだけだと信じていたのです。けれど、間違いなく優さまの足は躊躇いを残しながらも止まっておりました。
何かお申し付けがあるのではなかろうか、と身構えをしておりましたが、優さまは何もおしゃいません。
訝しく思って、そろそろと視線を上げますと、優さまがこちらを穴が開かんばかりに凝視なさっていました。眉をひそめて、大変に困った、といったご表情です。
「その短い髪……みやだな」
「はい。優さま。何なりとお申し付けください」
ああ、短い髪先からはすでに滴が垂れてしまいそうなほどに濡れてしまいました。早く帰りませんと、風邪をひいてしまうかもしれません。優さまのお返事を待っているつもりでも、どこか上の空になってしまいます。これではいけません。自分を叱咤して、しっかり地を踏みしめます。
ふいに体を冷やしていた雨が遮られました。頭上で雨が弾かれているのです。黒い傘が私に向かって傾けられていました。
「優さま」
みるみるうちに優さまのぱりっとした背広に雨が染み込んでいきました。信じられないような気持ちで、優さまのお顔を見上げます。
「行くぞ」
有無を言わせぬ口調でした。あまりに旦那様が使用人にするものと似ておりましたので、つい反射的に「はい」、と答えておりました。答えた後で、はっと口に手を当てます。
優さまは私のことなど微塵も見ておられませんでした。ただ、道の先をまっすぐ見据えていただけでした。
「優さま」
私が呼びかけても、何もおっしゃいません。行くぞ、とご命令されたのならば、従うしかありませんでしたので、優さまのお隣に並びます。
辺りには人っ子一人おりません。きっと皆早々に引き揚げたのでしょう。私一人気づくのが遅れてしまったようです。
「散歩をなさっていたのですか」
私は努めて明るい声を出しました。……そうしなければ、沈黙に耐えられなかったのです。
「そうだ」
そっけない口振りでしたが、今度は返事が返ってきました。これを機にもっとお話しできないものかと思います。
どうして、このようなことをなさってくださるのですか。そう言いかけて、私は口を閉じました。隣を歩かれる優さまの表情を知ってしまったからです。
張りつめておられるようでした。目を眇めて、唇は緩むことを知らぬようでした。話しかけることさえ許さぬ、といった迫力を宿していたのです。
私は再び黙り込むしかありませんでした。優さまを真似て、前だけを見ます。そうすれば、隣にいらっしゃる優さまの姿は見えなくなります。私より大きな気配は感じ取れますが、視界に映ることがありません。
もしかしたら、優さまは隣を見たくはないのかもしれない。人としての良心が咎めるから、傘に入れてくださっただけなのだ。私はいつしかそのように思うようになっていきました。
あっという間に、屋敷近くまで戻ってまいります。木々が開けたところまで出ますと、優さまは初めてまともに私の顔をご覧になられました。
「早く行け」
「はい」
私はまたもや反射的に返事をし、雨の中を駆け出しました。少し離れたところで、一つ思い出したことがあって、後ろを振り返ります。優さまはまだそこに立っておりました。
「優さま、ありがとうございました」
深々と一礼をします。顔を上げたとき、きっと私の表情はお世辞のためだけではなく、安堵のために微笑んでいたように思います。