参
首元の怪我はごく小さなものでございましたので、数日で瘡蓋が張り、あっという間に治りました。月子さまに貸していただいた白いハンケチは私の血で汚れてしまいましたので、できるだけ綺麗に汚れを抜いて洗いました。次に来られた時にお返ししようと思います。
その日、私には手紙が届いておりました。田舎にいる父と母、弟からの手紙です。とりとめのない近況が綴られるばかりの手紙ですが、懐かしい筆跡です。夏の藪入りに帰ったのに、もう顔を見たいような気持ちにさせられました。
「それなあに?」
年の近い同僚の佐恵子さんが開いたままの私の手紙を覗き込みました。いつの間にいたのでしょうか。部屋の扉を叩いた音が聞こえませんでしたが。
「ふふっ、手紙に夢中になっていたみたいだから、入らせてもらったの。またご家族からの手紙?」
「そうよ。でも佐恵子さん、覗きはいけないのよ」
ひらひらと手紙を頭上高くに上げます。こうなったら私よりも背丈が低い佐恵子さんには届きません。佐恵子さんの顔に不満の色が走りますが、不躾だと自分でもわかっているのでしょう、大人しく手を引っ込め、ベッドに座った私の隣に腰を落ち着けました。
「秘密ばかりはよくないわ。私は全部手紙を見せているのに、みやの方はちっとも見せないんだから」
「佐恵子さんは自分から見せてくるのでしょう。私はちっともお願いしたことないもの」
「なによ、私がはしたないってわけ?」
「そんなことは言ってないってば。わかるよ、かわいい妹たちを自慢したいんでしょ」
佐恵子さんには幼い小さな妹が二人いるのだそうです。三つと五つといえば、かわいい盛りです。佐恵子さんは二人の妹の様子を手紙で知るのが何よりの楽しみなのです。そして妹可愛さに、私にまで自慢してくるところが短所でもあります。
そうよ、と佐恵子さんはこくりと頷きました。
「意地が悪いわよ。そんな何でもないような顔をしているのに、紀絵と美江の話をすれば、会ったこともないのに楽しそうに聞いてくれるじゃない」
紀絵と美江というのが、佐恵子さんの妹の名です。
「私には妹がいないから微笑ましいのよ。いいなあって。慕ってくれるんでしょ」
「うん。かわいいよぉ、帰ったら『姉ちゃん、姉ちゃん』って寄ってきてくれるの。ころころしていてね、ほっぺがふっくらつやつやなのよね。泣いちゃうと手がつけられないけど」
佐恵子さんの顔がわかりやすくほころびます。妹の話に夢中になってくれたようなので、もう手紙のことをとやかく言われないでしょう。
私は手紙を見られたくありませんでした。家族の手紙はありがたいものですが、隠しておきたい秘密が書かれていることも往々にしてあるのです。たとえば、私を心配する文言に、過去の縁談の失敗を書かれていなかったか、とか。
郷里の風評を逃れて帝都にやってきた女。結婚直前になって相手に駆け落ちされた女。おおよそ私の評判はそんなものです。隠しておきたい過去を隠したままにおける今こそが、幸せなのだと思うべきなのでしょう。幸いにも仕事の方は必死になればついていけないこともありません。大きなお屋敷に戸惑うことも多々ありましたが、慣れつつあります。金井さんもスミさんもよくしてくださいます。これ以上の職場を求めてしまっては、罰が当たるものでしょう。
「そうそう、みや。あなた、ご家族に髪のことは書くつもりなの」
ふっと思い出したように佐恵子さんは話を振りました。まだ手紙のことは忘れてくれないようです。まだよ、と仕方なく答えました。
「次に帰省したときにでも話すわ。そのころまでには多少髪も伸びているだろうし、誤魔化せると思うの」
「そうねえ。いいんじゃない。親ぐらいの人たちってまだまだそういう、前衛的、っていうの? 女の短い髪型を嫌がるのよね。うちの母親なんかは泣きだすわよ、きっと。でも、いいと思うわよ、それ」
「それ?」
「髪よ、髪。私もみやとおそろいにしてみようかしら。うーん、でも私はみやと違って、思いきれない気もするのよねえ」
他人の部屋で自分の三つ編みをいじりながら悩む佐恵子さん。
「私だって、そう思いきれたものじゃないわよ。佐恵子さんと一緒なのは心強いけれどね」
苦笑いをしてみせ、手紙はエプロンのポケットへ突っ込みます。細々としたものを入れられる大きなポケットは、こういうときに便利です。
「佐恵子さん、そろそろ行きましょう」
「そうね。スミさんに叱られてしまうわ」
休憩時間はもう終わり。正面玄関のお掃除が待っています。
部屋を出て、掃除道具を取りに廊下を歩きます。
「みやって、賢いはずなのにどうしてか馬鹿みたいに思い切った行動をするわよね」
呆れ半分、感慨半分に佐恵子さんは嘆息をつきます。確かに思い返してみますと、佐恵子さんのいうことはおおむね同意してもよいのではないでしょうか。
「ううん。私、賢かった覚えなんてちっともないもの。きっとそうなのよ」
大真面目にそう言ったのですが、佐恵子さんはあっけにとられた顔をした後、くすくすと笑ってしまいました。まったく不思議でたまりません。
「佐恵子さんだって、人のこと言えないぐらいひどいじゃない。笑うなんて」
「だって可笑しいのだもの。変に都会に擦れていなくて純朴というか。人は良いのにちょっと変だよね」
物置に入った佐恵子さんは雑巾の入った桶を持ち上げました。
「でもみやと話すとほっとするのよねぇ。……田舎のおばあちゃん?」
「え、私ってそんなによぼよぼに見えるの? まだ若いのに」
すると佐恵子さんにアハハ、と声を上げて笑われました。
「月子さまもそういうところがお気に召したのよ」
「月子さまに?」
「そう。明らかに月子さまに気に入られているじゃない」
「そうだった?」
考えても、思い当たる節がありません。確かに月子さまは使用人の私にも親切にしてくださいますが、他の使用人に対してのものと大して変わらないように思うのです。
しかし、佐恵子さんはそうよぉ、と間延びした声で言うのです。
「月子さまってば、使用人の中だとあなたにばかり話しているじゃない。私とみやがいたら絶対にみやに話しかけているわよ」
「そうだけれど、それで気に入られているなんて」
思い過ごしではないの、と言いましたが。むっと佐恵子さんは不機嫌そうに唇を結び、その場で仁王立ちになりました。
「みやは無自覚なのがいけないわ。月子さまは次期天蔵家当主の妻になるお方よ。未来の奥方に気に入られるなんて、これ以上ないくらい出世の近道じゃない。スミさんみたいに信頼されて、使用人を束ねる立場になれるかもしれないわ」
言い方に棘のようなものを感じました。けれどこれは仕方ないことなのでしょう。佐恵子さんは仕事に対して私以上に意欲的なのです。将来はスミさんのようになるのが目標なのだと語ってくれたこともあります。
佐恵子さんは私が羨ましいのでしょう。私がはきはきした性格の佐恵子さんを羨ましく思うように。
「別に出世したいわけではないわ。私は働いて、お給金をもらって、実家に仕送りできれば十分すぎるから」
「みやはそうだろうけれど。私からしたらもどかしいわ。もっと欲張りに生きていきましょうよ」
「なら今度、しゅうくりいむを食べにいきましょうね。いつかお店で食べたいと思っていたの」
「みやの欲は小さいのねえ」
佐恵子さんとは話が尽きません。
掃除道具を持ち、少し庭を歩いて行けば、天蔵家本邸が見えてまいります。西洋建築の粋を凝らしたような白亜の建物が、正面を囲い込むようにでんと構えております。色つきの玻璃窓をおしげもなく費やして彩られるさまは、財閥として名高い天蔵家の屋敷にふさわしいものです。
私と佐恵子さんは玄関よりはるか手前にある勝手口から入っていきます。
本邸ともなりますと、入りました途端にぴりりとした緊張感が体中に伝わってまいります。赤い絨毯を踏みしめますのも、慎重にならざるを得ません。自然、話す声も辺りに響かぬようにひそひそと囁き声に近くなります。
「そうそう。優さまはあの事件以来、何かおっしゃっていたの」
私は首を横に振ります。
「ううん。特にお話しする機会もなかったから」
そもそも今まで優さまとまともにお言葉を交わしたことなどほとんどなかったのです。たとえ一度、二度と関わりを持ったとしても、それはもう過ぎ去ったもの。私がどんなにあがいたとて、その眼前で何をしようとも、あの方が気に留めるほどのものは私にはないのです。私たちは使用人ですから。……それを知っているのです。
「そう。まぁ、そんなものよね。元気出して。あの方たちは元々、そういうものだから。お声がけいただいたとしても何も期待してはいけないのよ」
わかった、と佐恵子さんは真剣な顔で言いました。なんだか、平生と違う口調であるような気がして、私は口を開けなくなりました。
話はそこで打ち止めになりました。正面玄関に至ります。二階へと通じる白い大理石の階段は手摺に精緻なつる草の装飾が施されております。その階段の両脇には、季節の美しい華が活けられた青磁の壺が二つ。ここは天蔵家の顔です。
私のように学もない者でも、この玄関には途方もない財をかけられていることがわかります。掛けてある絵一つにも、旦那様はこだわりを持っておられるのだとか。
掃除する使用人には、塵ひとつ、傷ひとつないように細心の注意を払うことが求められます。使用人として勤め始めた頃には正面玄関などにも近寄らせてももらえなかったものですが、こうやって掃除を許されるようになるとは、私も少しは使用人らしくなったということでしょうか。
水の入った桶を階段下に置き、雑巾を手に取ります。気合を入れるように、ゆっくりと息を吐き、佐恵子さんを振り返ります。
「さあ、やりましょうか」
佐恵子さんと二人、日課になりつつある掃除を今日も始めます。