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弐拾壱

 夕方になって、佐恵子さんと金井さんが戻ってまいりました。


「お二人共、お帰りなさい」


 ただいま、とふたりとも心底、休みを満喫していたようで、正月にふさわしく晴れ晴れとした顔でした。金井さんはいつもよりお顔が赤らんでおられるよう。お酒を嗜まれたのでしょうか。


「いやあ、久々に羽を伸ばしてしまったようだよ」


 金井さんは嬉しそうにそのようなことまでおっしゃります。横にいらしたスミさんがふうと大きなため息をつかれました。


「少々、飲んでおられるようですね。あまり得意ではないのですから、このあともまた飲むなどとはおっしゃらないでくださいね。この子たちも見ているのですよ」

「うん、わかっているさね。年に一度の楽しみは酒ばかりでなし、もっとやりようはあるものだよ」


 よっこらせ、と金井さんは近くにあった椅子に腰掛けて、


「すまないが、水を一杯もらえるかい」

「はい。では、私が」


 私の差し出すコップ一杯の水をごくごくと飲み干された金井さんは、ああ、新年だねえ、と感慨深げにおっしゃいます。


「そうですよ。数え年ではまた一歳、年を重ねてしまったものですよ。あまり冒険なさる年でもないのですから、旦那様にも無茶をなさらないよう、きっちり言い聞かせておいてくださいね」

「あの旦那様がそうそう止まるとも思えないがねえ。数十年来、幾度も止めようとしたけれども、結局は押し切られてきたわけだ、今年も無理じゃないか」


 スミさんはきりりと眉尻を上げます。


「そこを何とかするのが、金井さんのお仕事でしょう。今は優さまがいらっしゃるのです。旦那様も金井さんも余力がお有りでしょう」

「余力があるから、色々と企まれるのだよ」


 金井さんは襟巻きや手袋を外して、机の上に乗せます。

 私と佐恵子さんはことの推移を見守る他なく、じっと立ったまま、お二人の言い合いに耳を傾けていました。


「何もしないことがあの方にとって一番の苦痛なのだ。どんなに些細なことだって、面白そうと思えるものがあれば飛びつかれる。衆議院議員になられたのも、商売上の理由ばかりではなく、興味本位という理由が大部分を占めていたとおっしゃっていたほどだ、どんな素っ頓狂なことを命ぜられてもおかしくはない」


 困ったものだ、と金井さんはぼやいてみせますが、その顔は生気にあふれておりました。金井さんもまた、旦那様の振る舞いを楽しんでおられる。

 旦那様と金井さんはまこと、不思議な主従の絆で繋がれているものだと思います。


「屋敷のほうはどうだね」

「特に変わりはありませんでしたよ」


 優さまはどうだったね、と金井さんは私にも目を向けられます。


「はい。いつもどおりでいらっしゃいました」


 私の返事に金井さんは再び深く椅子に座り直しました。下へと視線を下げてみれば、いつもより幾分も行き疲れた老人そのもののような憂愁をたたえたさまとなりました。


「はたして、内心までそうかね。優さまの言動にはひやりとさせられなかったのかい」


 なあ、と顔をあげられましたとき、金井さんはから笑いとも取れるような表情を浮かべておりました。


「それは」


 私は言葉に詰まります。正直に申し上げるべきだと知っていたからでしょう。


「いや、答えを求めたわけではないんだがねえ」

「まあ、意地の悪いことを。酔っていますね」


 スミさんは顔を顰めてみせ、金井さんの飲み干したコップに再び水を満たします。


「ささ、冷たい水をもう一杯どうぞ。どうも口が軽くなっているようですから」

「それを言うスミさんは昔に戻ったみたいだがねえ」


 金井さんはまるでお酒を飲むかのようにコップを仰ぎます。ことん、と机にコップを置く音が響いたことに驚きました。


「昔、ですか。またおかしなことを言い出して」


 溜息とともに言葉を吐き出されます。

 佐恵子、あなたは先に戻っていてもいいですよ。棒立ちになって、何もできないでいた佐恵子さんにスミさんはそう促して、金井さんの向かい側の椅子に座ります。


「わかりました」


 佐恵子さんの返事とともに私もまた出ていこうとしましたが、


「みやは残っていなさい」


 そうスミさんがおっしゃったので、仕方なくその場に留まります。


「あなたも座っていいですよ」

「はい」


 落ち着かない心地になりながらも、近くの椅子に腰掛けます。

 同じ机にスミさん、金井さん、そして私がついたわけですが、私一人場違いであるようにしか思えませんでした。


「みや」


 改まったように自分の名前が呼ばれたとたん、思わず椅子から飛び上がりそうになりました。


「はい」


 目を伏せていても金井さんとスミさんの視線が向けられているのがわかります。普段ならば、大勢いる使用人のうちの一人でしかなかったというのに、今このときは間違いなく私を見つめていらっしゃる。そのことが、いたたまれなくなります。なぜなら、私には身に覚えがあるのですから。


「優さまがあなたを初詣にいかせまいとしたのですね。命令という形を作って」

「誰か一人ではなく、名前まで指定なさってしまったのだ、こちらとしても事情を聞きたくなるものだ。前々から優さまは君に特別に目をかけていたものだから、気になっていてね。君も思い当たる節があったようじゃないか」


 スミさんも金井さんも私に確認を促すような口調でした。ただ、スミさんはとうに事情を察していることでしょう。

 私は黙っているべきか、何か釈明をすべきなのか。いいえ、そもそも釈明するような危ういことなど何もなかったのです。

 だからまだ私はこのお二方に対して、恥じることなく見返すこともできました。


「はい。ですが、優さまが何をお考えになっているか、私にはとうてい見通せるものでもありませんので、合っているかは疑わしいものですけれども」


 そう前置きして、唇を湿らせながら、言葉を継ぎます。


「優さまは今年をお忙しい年になさるのだとおっしゃっていました。私も、忙しくなるのだそうです」

「なんだい、それは」


 訝しげに首をひねる金井さんはすでに訳知った顔のスミさんを伺います。


「みやはこう言いたいのですよ」


 スミさんが私の意を汲んで口を挟みます。


「優さまは、何か私たちには及びのつかないことをなさろうとしているのではないか、と。そしてそれはご自分とみやに関することではないかとこの子は心配しているのです」


 金井さんが私の顔をとっくりと眺めて、腕を組んで唸りました。


「うーん。この子と優さまがねえ。この子のどこに優さまが惚れてしまったのかね。いや、君がいい子であることはよく知っているところだが、あの優さまだからねえ」


 あの優さまだからねえ、とまたも繰り返してさらに渋柿を食ったような顔をなされます。


「あの方は旦那様以上に何をお考えになっているのかわからないからなあ」

「それはもう、金井さんはこの数十年来ずっと旦那様にお仕えしてきたからですよ。旦那様にしたって、十分にわからないお方です」


 そうかい。金井さんは髪に手をやります。


「だが、非常に困った事態になってしまったものだ。スミさん、どうするつもりなんだい」


 スミさんは首を横に振ります。顔に影が差しました。


「しばらくは様子をみようかと思っていました。みやも優さまも、そうそう道を踏み外すことはありえない、それこそふたりともきちんと良識を持ち合わせているものですから。時間が解決するものではありませんか」

「そうだねえ。このことはまだここにいる我々しか知らないことだからね、表沙汰にしないほうが何よりだ。特に荻野家に知られたからには」


 ちらと金井さんは私を見て、溜息とともにそらされます。


「みやを解雇しなければなるまい」


 私がもっとも恐れていることを、やはり金井さんは口にされたのです。私が金井さんの立場なら間違いなくそう言ったに違いありませんから。


「覚悟はとうにしています」


 私は視線を目の前の机に下げながら、唸るように言ってみせます。


「ただ、できることならば、ここで働き続けたいと切に願っています」


 沈黙の幕が三人の間に降りてきました。誰かが机の下の足をわずかに動かしたのでさえ、音となって耳に届きました。


「一つ、確認しておかなければなりませんね」


 そう口火を切ったのはスミさんでした。


「あなたは優さまをどう思っているのです」

「私、ですか」


 言われてみて初めて、私は何も考えていなかったことに気づいたのです。

 そう、優さまの気持ちは明らかでも、私自身の気持ちは何一つ表れたものはありません。いつも使用人という立場から優さまという方を見ていたものですから、考えないように、考えないように、と常に思考を止まらせてきたのです。


「私は、優さまを主にあたる方だとしか思っておりませんでした。私を拾ってくださり、この仕事につかせてくださったとてもありがたい方なんだと」


 そして月子さまと結婚される方だと。接し方に不安を抱えたこともありましたが、それは使用人としての己の危うさに対して警鐘を鳴らしていたにすぎません。

 はたして、私は空っぽだったのです。私は避けることしか考えていませんでした。けれど本当に道は一本しかないのかというと、わかりかねます。まるでぽっかりと開いた穴にはまりこんでしまったようで、前も後ろもわからず、登る足がかりさえ掴めないのです。

私と優さまの関係は恋というには歪な形を取っている。何も始まっていなかったのだと、胸を張っていいきれることの寂しさは決してこのお二方には見せるべきものではないでしょう。


「やましいことなど何もございませんでした。それは確かなことです」


 厚顔にも私はここに居残ろうとしています。私は、自分が浅ましいことを身を持って知っています。


「優さまの気の迷いは、ほんのいっときのこと。私のことなど、すぐに相手にもされなくなるはずです」


 かつては選ばれたいと思っていたこともありました。ですが、選ばれないこともあることも、今の私は知っていて、ほんのわずかな期待にもすがろうとは思えない。それほど、優さまと私は隔たっているのです。


「そうですか」


 スミさんが苦いものを飲み込もうとしているような顔をなされ、金井さんはどこか安心したように頷かれました。

 さて、私はいったいどのような顔をしていたのでしょう。あまり知りたくはありません。きっとそう、ろくでもないものに違いはないのでしょうから。



 どのようなお話だったの、と私が部屋に入るやいなや、佐恵子さんがにじりよっては、私の顔を覗き込みます。

 思わず口ごもった私の様子に気づいたのでしょう、眉を曇らせて緩慢にベッドの上に腰掛けます。


「聞いちゃいけなかったみたいね」

「ううん。大丈夫よ、たいしたことではないわ」


 私は椅子に座って、書物机に向かいます。机の上で開いたのはもちろん、かの本です。


「やっぱり優さまのことなのでしょう」


 佐恵子さんにはかなわないようです。それとも悟られるように振舞ってしまった私にも問題はあるかもしれませんが。


「久弥さんと一緒に初詣にいけなかったの、優さまがお命じになったのだそうね」

「ええ。久弥には申し訳なかったわ。暇をみて、謝りに行ってくるつもりよ。佐恵子さん、久弥に伝えてくださって、ありがとう」


 気にしなくていいわよ、と佐恵子さんは笑います。


「それにしてもいい弟さんよねえ。えらくみやのことを心配していたわ。姉が帝都でやっていけるのかってね。心配はもっともなことだけれどね」


 帝都は日々、多くの人びとが仕事を求め、あるいは勉学に励みにやってきます。人口は増え続けていることも確かです。人が大勢集まれば、危険なことも多くなり、重いものから軽いものまで犯罪が毎日、ひっきりなしにおきます。まだお屋敷をあまりでない私でさえ、用心深くもなるというものです。


「今でこそああだけれど、昔はもっと生意気で腕白だったの。落ち着いてきたのはこの数年ぐらいのものよ。心配してくれるのは嬉しいけれど」


 でも、顔を見たら、帰りたくもなります。どんなに苦い思いを閉じ込めてきたとしても、山に囲まれ、清流が流れる小さな集落こそが、私のふるさとなのですから。


「今でも故郷を恋しく思っているのだと実感しているところなの」


 忘れられず、断ち切れないものを、この胸に抱いていくのです。

 微笑みを向けますと、佐恵子さんは小さく頷きました。


「そうねえ。前は私もそう思っていたわ。でも私って現金だから、故郷に帰るって決まったら、まったく感じなくなってしまったわ」


 ふふ、と二人して笑い合います。年相応の少女のように。でも、佐恵子さんはいざしらず、こういったときの笑みは仮面を貼り付けたのと似て、嘘が混じっているのです。

 私と違って、佐恵子さんはいつだって故郷に気兼ねなく帰れるのです。


「ねえ、みや」


 佐恵子さんが真摯な表情を浮かべています。なあに、と返すと、ようやく本題を切り出しました。


「優さまはあなたに特別な好意を寄せているのかしら」


 佐恵子さんは意地悪ではないでしょうか。だって、まさか私が言いにくいことを尋ねてくるのです。


「佐恵子さん、私に言わせないで頂戴」

「ごめんなさい。でも、確かめずにはいられなかったの」


 たいして申し訳ないとは思っていないような顔で口先だけの言葉を言うと、ベッドに腰掛けて、足をぶらぶらとさせます。


「私は以前言ったわ。みやは帝都で幸せな結婚をするって。けれど、その相手は優さまであるはずがないわ。優さまは」


 佐恵子さんは不思議と私の顔を一瞥し、眉を曇らせました。


「将来なんて考えもつかないわ。奥様になれるわけでもなし、それこそ、妾と呼ばれてしまうような立場にいるわ。月子さまがいらっしゃるもの」

「ええ、月子さまこそ、このお屋敷の若奥様にふさわしいわ」

「みやはいい子よね」


 言葉の棘がこわばった体の表面を撫ぜていきます。佐恵子さんは不満そうに唇を尖らせていたのでした。


「頭の固い優等生さんよ。みんなが望むようにしか動かないのだわ」


 こうも言われてしまっては言い返したくもなりました。


「いいえ。私は、自分の意思で、動いているわ」


 思ったよりも強い語調となってしまいます。気づけば言葉が勝手に口から滑り出てきました。


「佐恵子さんは私にどうして欲しいの。反対したと思えば、貶してみたり」

「私はみやがどうしたいのか聞きたいの。私の考えを求めてはいけないわ」

「どうしたらいいのか、なんて知らないわ。私はやり過ごすだけのことよ」

「じゃあ、優さまのことはどうとも思っていないのね」

「わからないわ。考えてなかったもの」

「呆れたわ、そんなことあるはずがないじゃない」


 佐恵子さんが声高に断言します。


「今の時代、身分差はほとんど埋まっているの、私たちは誰とだって結婚できる。身分差があるご時世でさえ、身分差のある恋とかお芝居になっていたぐらい、有名なことだったのよ、ましてや昨今を考えれば、既婚で年が離れすぎているならいざ知らず、殿方としてみないほうがおかしいわよ」


 私は、おかしいのでしょうか。無謀な望みこそが身を滅ぼすのだということを、佐恵子さんも知っているはずでしょうに。

 私は自らを惜しんでいます。我が身がかわいいのです。だから、危ないことと知っていて飛び込むわけにはいきません。


「そういうものかもしれないわ」


 佐恵子さんの言葉に肯定を返します。「でも考えたくないの。それが私の出来る精一杯のことだから」

 優さま、スミさん、金井さん、佐恵子さん。多くの人が私に問いを突きつけてきます。どうして私にもっと時間を下さらないで、すぐに答えるようにいうのでしょう。

 佐恵子さんは最後に違うことなき、私の心のあり方をずばりと言い当てました。


「逃げているの」


 切り口が鋭くて、私は答えにつまりました。でも佐恵子さんの口調はそんな曖昧を許してくれないようでした。

 ぽろりと滑りでたのは私の本心でした。


「うん。どうしようもない深みにはまって抜け出せなくなってしまったみたい。だからじっとしているのだわ」

 嵐が過ぎるのを、私はひたすらに待っているのです。



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