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弐拾

 どうしても、と優さまがおっしゃったのですよ。

 私はスミさんが気の毒そうにその話を持ち出してこられるのをじっと聞いておりました。


「あそこまで熱心に請われてしまうと、私たちには何も言えませんね。ましてや、優さまのようにしっかりとお育ちあそばされた方の言う言葉ならば、と信用してしまいます」

「わかります」


 どうして、と疑問に思おうと、これまで築き上げた信頼があれば自然と甘くなってしまうもの。スミさんも押され負けてしまったようでした。

 スミさんの面差しに老いという名の影がさします。ふう、と張った頬から息が漏れたとき、人生の荒波を越えてきたあとに訪れる憂愁が忍び寄ってきて、ひたりとスミさんの背中に張り付いてしまったようでした。


「私も、もう年なのでしょうねえ。万事が万事、うまく対処することも難しくなったような気がするのですよ」

「そんな。まだまだお元気ではありませんか」

「気を張っているからですよ」


 スミさんは無意識にか、その腰をとんとんと叩かれます。村にいた数多くの老婆がそうせざるをえないように。


「一昔まえならば、あなたを即刻解雇するようにと旦那様に申し上げたことでしょう。あなたが優さまをどう思っているにしろ、これが一番波風の立たない方策だと判断したでしょうからね」

「はい。私がスミさんと同じ立場にいたならば、そうしたと思います」


 いざ己がそうなってしまったならば、すっぱりとやめることはできないものです。自分勝手と知っていても、私はこれほど安定した職業を手放せるとは思えませんでした。せめて、久弥が大学を卒業できるまでは。

 揺れ動く心を持て余していても、私は去ることはできないでいるのです。

 眉がひそめられていくのを私は自分でもわかっていました。


「本当に天蔵家のことを思っているのなら」


 ここで使用人になるのだと決意した日の、静かな気持ちの高揚を思い出せば、今と比べてなんという体たらくぶり。一人前になろうと背筋を伸ばして、堂々とやってきたつもりであったというはずなのに、いつのまに背を向けてしまったのでしょうか。


「こんなことには決してならなかったはずなのです」


 目指した姿は涙で滲んでいってしまいます。


「申し訳ございません、本当に申し訳ございませんでした」


 顔が熱っぽく火照っていきます。それでも私はその熱を押し止めようと耐えました。唇が戦慄わなないて、目の際に溜まっているものにも気づかないように努めたのです。


「誰もみやを責めません。あなたが一生懸命だったことは誰もが知っていることなのですから。優さまの前に出るときには、そんな顔をしないのですよ」


 スミさんが私の背中をさすってくださいます。

 ハンケチで涙を拭ったあと、スミさんは私に向かって温和にほほ笑みかけられます。


「さあ、もう大丈夫ですね。ああ、それと。私も初詣をしないので、お屋敷に残りますよ」

「そんな。せっかくの外出の機会ではないですか。こちらのことはお気になさらないでください」


 スミさんは私以上に滅多なことでお屋敷を離れないものですから、この際にゆっくり羽を伸ばしても許されるはずでしょう。私のためにふいにしてしまうのは申し訳なく思ってしまいます。それなのに、スミさんは何の屈託もない表情で、私の背中を押します。


「私がそうしたくて、そうするのですよ。今こそが肝要な時期なのですから、少しでも見届けなければならないでしょう」


 聞き逃せない言葉に私はお尋ねせずにはいられませんでした。


「肝要、と申しますと」

「これはただの勘なのですが」


 スミさんは躊躇されるように、目を伏せて、


「最近の優さまのご様子は、以前、軍医をやめられたときと似ているのですよ。まだ若いのに何十年も悩み続けてきた老人のような表情をなさって。社用以外での外出も増えました。何かお考えがあるのでしょうね」

「そうなのですか」


 私も、優さまの変化に気づかないわけがありませんでした。口には出されないけれど、何かを思いつめていらっしゃる。その悩みに私が含まれているかもしれないのです。


「思い当たるところは確かにあります。優さまらしくない言動が多い気がいたします」


 唐突に私との距離を詰めてこられようとした優さま。私と優さまとの間に結ばれようとした、ほのかな繋がり、いわば、淡い信頼の絆をたやすくちぎって、別の形に結わえようとなさっていたように感じました。――たとえば「恋」と名付けられるような形で。


「優さまにも私にも忙しい年となるのだと」


 体の芯から凍えて、素手で氷に触れたときのようにぶるりと震えました。屋内だというのに、得体の知れない寒気が体の端から這い上がってきそうになるのです。けれども、私は一向に身動きが取れないで、棒立ちになっているのです。


「月子さまとの婚礼のことだとも思いました。それでも、どのような意味で優さまがわざわざ私におっしゃったのかということを考えてみれば、恐ろしく思えてならないのです」

「そうね」


 スミさんは声をひそめられて、口にするのもはばかられるというご様子で、


「優さまと月子さまは心が通じ合う仲とは言えませんでしたからね。結婚すれば、多少なりとも夫婦の絆が生まれるものと思っていましたが」


 悲哀に満ちた視線が私に向けられます。

 やはり私はスミさんを悩ませることになってしまったのだと、こうしてみると実感せずにはいられません。あの日抱いた不安が現実のものとなるのがこうも早いとは思いませんでした。あの日謝った分では到底足りません。


「私が、妨げているのですね」

「そうではありませんよ。妨げているのは優さまご自身です。あの方がご自分で望まれて」


 スミさんは苦笑なさって、口に手を当てられます。


「あの方も、頑固ですからねえ。そういうところばかりが親子で似てしまって。若い頃の旦那様が舞い戻ってこられたかのようですよ」


 会社を起こされて、財閥の体を為すまでがむしゃらに働いていらした旦那様のご苦労は私などでは到底及びも付かないものでしょう。ですが昔の旦那様も今の旦那様とさして変わりがないように思えるのはどうしてでしょうか。

 旦那様と優さまは親子というにはあまりにも希薄な関係に思えてなりません。優さまがお仕事を手伝っている手前、旦那様は優さまをご自分づきの部下のように接されることが多いようです。差し向かいで食事を取られていても、二人にあるのは気を許しあった者同士が醸し出す、和気あいあいとした雰囲気ではなく、ぴりりと胡椒が効いた緊張が走っています。並ばれてみれば、顔立ちは、とくに目元などは似ているといっても差し支えないでしょうが、優さまの方が優しげな顔立ちをされています。


「何はともあれ、みやはしっかりとお勤めを果たすことですよ。優さまも、あなたに滅多なことはなさいませんでしょうし」

「わかりました」


 頭を下げますが、私につきつけられたように感じたのは、今後の身の振り方です。何も表に出てこなければ重畳、私も見知らぬふりをすればこの嵐をやり過ごせるでしょう。でも何か一つでも、現れてしまったら、ここはもう安住の地ではなくなるのです。一本の糸にかろうじて立っているような危うささえ感じました。

 ちょうど外出ができるためか、佐恵子さんが足取りも軽く通りがかったので、話はそれで打ち切られました。

 対して、元旦にも関わらず、あまり気分が浮かれないということに、私は心中でほうっと息を吐いたのでした。




「そういえば、本物のアリスについてまだ話していなかったか」


 勉強の時間でした。

 無我夢中で本の中身にくいついていた私に、ふと優さまはこのようなことをおっしゃいました。私の集中が切れていく頃合と見たようで、片手間に進めていた書類を手早くまとめて、眼鏡をかけられたまま本を覗き込まれます。


「順調に進められているようだな」


 あまり嬉しくなさそうなお声です。私は肩を竦めて、努めて優さまの気配に動揺していないように装いました。


「はい。優さまのおかげです」


 コツを掴んでしまえば、少しずつですが読み解くまでにかかる時間が短くなっていきました。

 もう物語は後半にさしかかり、アリスの前に芋虫が現れました。大きなきのこに乗って、大きなキセルから煙をふかしている絵のところです。


「でも、読めば読むほどわからなくなるのです」


 私の視線は本の上を滑っていきます。

 お前は誰なんだ。その芋虫は問いかけました。答えは簡単なように思うのですが、不思議なことにアリスはわからないというのです。


「絵をめくっていたときは文字さえ読めば、全部わかると思っていました」


 優さまはフン、と鼻を鳴らされます。


「傲慢だな」

「傲慢、なのでしょうか」


 優さまが断言なさる意味が分からず、私は首をかしげました。

 絨毯さえなければ、きっとかつかつという優さまの靴の音が響いたことでしょう。優さまの手が壁際の本の背表紙をなぞっていきます。優さまの持つ本棚には、医学書はもちろん、聞いただけでむず痒くなってしまうような哲学の本、外国の言葉で書かれた本や、巷で流行る本まで雑多です。ですが、何かの規則性でもあるかのように整然と並べられているのは優さまらしいのです。


「全部分かってしまえば、文学という学問は存在すらできなかったに違いない。同じテクストを読んでも、研究者によって無限の解釈が成立しうるのだ、お前ごとき者は文学という綿々と古代より続く叡智の回廊をかろうじて遠目で眺めているようなものだ」


 優さまは小難しいことをおっしゃる。厳しい言い方ですが、決して嘘をつかれない。それが優さまの誠実さというものでしょうか。


「文学とはかように難しいものなのですね。私にはやはり及びもつかないようです」


 感心しきって幾度も頷きますと、優さまは呆れたように嘆息なさいます。


「お前もよくもまあ前向きに取れるものだな」

「はあ。自分ではよくわかりませんけれども」


 なんとなしに、ちょっと顔を上げます。すると、優さまがじいっと私に見入っておられる

ことに気づいてしまい、気まずく感じてしまいます。


「だがしかし」


 優さまは静かに視線を逸らされました。


「この物語は、深く考えるほど馬鹿をみる。それこそ、現実をひっくり返したようなナンセンスな世界そのものだ」

「ナンセンス、とは?」

「秩序も何もない、ということだ。アリスの背丈が縮んだり、キセルを使う芋虫が言葉を話すこともそうだろう。つまり、この本の中で起きるのは、なんのとりとめのない愉快な馬鹿騒ぎそのものだ。我々読者は筆者が散りばめた言葉遊びを純粋に楽しむしかしようがない。掘り下げることこそ、それこそ、ナンセンスだ」


 優さまが肩をすくめます。

 私は一度開いた本に目を落としました。挿絵の芋虫はにやりと笑って、本の外にいる私にこう問いかけているような気がします。

 お前は誰だ。お前は自分のことを本当に知っているのか。

 言葉というものは時に真に迫って何かを突きつけてきます。言葉遊びのような楽しさもあれば、切っ先鋭い刃となって人を傷つけうるのです。

 それなのに、本の中の言葉を追ってしまうのは、そこに心浮き立つ自分の知らない光景が広がっているからでしょうか。知らない自分、あるいはまったくの別人となって、空想を遊ぶ。それもまた言葉遊びなのかもしれません。

 だとすれば、この本は実に理にかなったものでしょう。優さまも私も、純粋に楽しんでいるのですから。


「ああ、話を戻そう」


 優さまが思い出したようにこうおっしゃいます。


「この物語のアリスのモデルとなった、現実のアリス。これがその写真だ」


 本棚から抜き出した本から、挟み込んであった一枚の写真が机の上に置かれます。

 黒い髪、黒目がちの小さな女の子です。外国の人を間近で見たことはないのですが、目鼻立ちが私たちよりずっと深く、可愛らしく思われます。


「本物のアリスは黒髪だったのですね」


 挿絵では黒髪ではなく、もっと薄い色であるように想像していたのです。


「そうとも。このふたりのアリスは別人だ。だが、完全な別人ではない」


 優さまの瞳がきらきらと瞬いたようでした。生気が満ちていく、ということはこういうことなのでしょう。優さまはこの物語が好きなのだ、と私は今初めて知ったかのごとく納得しました。


「二人は背中合わせで硬貨の表と裏だ。現実にアリスという少女がいなければ、この物語はなかっただろうし、物語の少女がアリスでなければ、ここまで人々に読まれるものとはならなかったのかもしれない。おそらく作者の思い入れも違ってきただろう」

「ルイスさんという方が、このアリスという女の子のために贈り物をしたいと思わなければ、でしょうか」


表紙を一枚めくって出てくるのは、


「A Christmas Gift to Dear Child in memory of a SummerDay」


 私が思ったこと、まさにそのものを優さまは口にされました。


「ある夏の日に、数学者のドジスンは舟下りの最中、仲良しだったアリス・リデルにお話をせがまれた。これがこの本の原型だった」


 張りのあるお声が朗々として響きます。さらに本棚から一冊の本を取り出して、ぱらぱらと戯れにめくっていくのを私は目で追っていました。

 学校の先生の一挙手一投足に注目してしまうことと同じです。私は優さまの生徒になったような心地で耳を傾けます。


「ドジスンはルイス・キャロルという作家になった。アリスの物語は直筆の特別な一冊きりの本となって、彼女に送られた。この挿絵も彼が描いたものだ」

「では、まさか」


 この本はそうだというのでしょうか。信じられない気持ちでその本を手に取ります。このような貴重な本を直に触れてしまっていてもよいのでしょうか。そろりと机に本を下ろしました。


「そんなわけがないだろう。それは忠実な複製だ。本物は、彼女の手元でそれは大切に保管されている」


 そうですよね、と私は顔から火が出るように恥ずかしく思いながら、顔を伏せます。


「あの、彼女というのは」

「アリス・リデルだ。もっとも結婚してハーグリーブス夫人となっていると聞く」


 ふわりと心が浮き立つというのはこういうことなのでしょう。物語のアリスは現実のアリスとは違うというのに、まるで物語と現実が細い糸でつながっていて、その糸を手繰り寄せているようです。別の国というものは、私にとっては及びもつかないことに違いないので、物語の世界そのものという心地も致しますけれども。ただ、優さまがおっしゃると触れられないだけで本当にあるのだと、思ってしまうのです。


「はーぐ、す夫人ですか。まだ生きていらっしゃるのですね」


 ハーグリーブスだ、と優さまは苦笑なさいました。


「アリスはまだ生きているとも」

「どのような方なのか、お会いしてみたいものです」

「そうだな。彼女は英吉利イギリスに住んでいる。前はお会いする機会などなかったが、次回は会ってみたいものだ。お前も会ってみたいと思うか」

「それはもう」

 

私は勢いよく頷きました。


「考えるだけでわくわくしてきます」

「ならば、行くか」


 は、と私は思わず優さまの顔を不躾に眺めてしまいます。ですが、優さまは至極大真面目な様子で私に語りかけてくるのです。


「いつか、お前が望むなら、連れて行ってやる機会もあるだろうからな」


 若干の早口でまくしてた後、優さまは黙り込まれます。

 私はぐるぐると思い悩んだ挙句、そうっと口を開きます。


「もしも、一介の使用人である私にその機会が恵まれましたら」


 絶対などとは口が裂けても言えぬことです。遠まわしにこのような機会があるはずがないと決めてかかっているものですから、言えることです。

 私がいるのは小さな世界で、そこからとうてい出ることはないのです。


「優さま、続きをお願いいたします」


 親にせがむ子供のように、努めて明るい声を出します。ねえねえ、教えて、なんて。こうやって気を引けるのは、子供の特権ではないでしょうか。

 元旦とは思えぬほどの穏やかな一日がこうして過ぎていったのです。



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