弐
執事の金井さんと使用人頭のスミさんにこっぴどく叱られてしまいました。幾らなんでもむちゃくちゃです、と異口同音に言われ、金井さんには溜息を、スミさんには呆れた表情をされてしまいます。私はというと、呼び出された小部屋の隅で立ったまま体を縮こまらせておりました。
「天蔵家の方々のお役に立つのが使用人の仕事なのに、かえってご迷惑をかけるとは何事ですか! 月子さまなどは特に心臓がお悪くて、心に負担をかけてはならないという話なのですよ!」
「はい。申し訳ありません」
使用人たちの母のようなスミさんのおっしゃることはもっともなことです。ひたすら頭を下げるしかないのです。
この小部屋に来るまでにたまたますれ違った同僚たちがぎょっとした様子で私の方を二度見したことは今晩にでも夢に見ることでしょう。
「私どもは大事なご家族から娘さんを預かっているのですよ! それなのに、なんとまあ怪我までしてしまって……もう、ご家族には何とお詫びすればいいのか」
スミさんは旦那様の信頼厚き、しっかりとした女性です。元はとある武家のお生まれだと聞いています。そのせいか、仕事では厳しさもある一方、私のような田舎者にも丁寧に教えてくださる面倒見の良さもありました。そんなスミさんがうろたえているのが申し訳なくてたまらなくなりました。
「私は構いません。次、帰る時に都会風に切ったとだけ告げれば、特に何も言われないでしょうし……」
「スミさんが心配しているのはそういうことではないのだがねえ」
金井さんはハア、とまたも深いため息をつかれます。
「君は先ほどから自分で勝手にやったと言い張っているが、優さまが関わっていたのは明白だよ。優さまもご自身でおっしゃっておられた。君という子はつくづく莫迦な子だねえ」
「莫迦なのは知っています……。昔から弟の方が賢くて、姉さんは莫迦だ、莫迦だ、って散々言われてきましたし。なんかこう、他の方から見たら突拍子のないことを言ったり、してしまったりするところがあるって。……これも弟の言葉ですけど」
「優さまの前で髪を切る」。優さまから本を盗み読んだことへの罰を粛々と受けるだけならば、何も優さまの目の前で行う必要などなかったのです。しかし、私は結局、自分勝手に怒った挙句、優さまの前で切ってみせることで「当てつけた」。冷静になればそうとしか取れない行動をしてしまったのです。
「優さまに信用されていないことはわかっておりました。あの場でどんな言葉を連ねたところで、あの方には届かないのです。ならば、行動で示すしかないと思いました。髪のことは、優さまがおっしゃったのがきっかけですが、やったのは私です。軽率な行動でした」
優さまの呆然とした顔が浮かびます。髪のことさえも、あの方にとっては冗談だったのかもしれません。まさか本当にやるわけがないと侮っておられた。髪を切ったことであの方の意表をつくことはできたのでしょう。ただ、これからのことを考えると、絶望的な気分になりますが。
「……ま。あなたも褒められたものではありませんが、優さまにも良い薬となったことでしょう。あの方は女というものをぞんざいに扱いがちなのですよ。御幼少のころからちゃんと教育できなかったこのスミにも原因はあります」
「いやいや、優さまはそこまででも……」
「金井さん、旦那様を基準にしてはいけません」
スミさんがぴしゃりと言いますと、金井さんは閉口した様子でした。今、このお屋敷にお妾のような方はいらっしゃいませんが、旦那様も若い頃はいろいろとあったと漏れ聞いたことがあります。
スミさんは菩薩のようなお顔になられて、私へ向き直られました。
「女の命である髪と優さまの信頼、あなたは後者を取ったのですね」
「はい」
思いがけない優しい声音でした。
「やってしまったことは戻りません。ただ、あなたがこれからもここで働きたいということならば、優さまときちんとお話しして、誠心誠意、お詫びしなさい。優さまは難しいところもおありですが、賢い御方です。真心をわからぬ方ではありません」
「そうだね、そうするといい」
金井さんも頷かれ、話はしまいだということになりました。
折をみて、優さまをお探しします。月子さまはとうにお帰りになられましたので、優さまも今ならあまりお邪魔にならずにお話しできるはずでした。
陽が傾き、影が濃くなってきました。いつもならば夕食の配膳をお手伝いしなければならない時間帯ですが、スミさんからは免除のお許しをいただいておりました。とはいえ、夕食までにはお話ししたいのでお屋敷のあちこちを回ります。
一階の廊下、大きなガラス張りになっているところからふと外を眺めたとき、やっと見つけました。
優さまのお姿は、お屋敷の裏手に広がる庭にありました。植え込みの間に敷かれた石畳の道を歩いておられるようでした。しかし、お姿はすぐに大きな庭の木立の奥へ消えました。慌てて、後ろ姿を追いかけます。
もどかしい思いで勝手口から出て、石畳を辿りました。
お庭の一番奥、洋風の花壇前に優さまの後ろ姿がありました。しゃがみこんでおられます。今、花壇では秋桜が満開になっておりますので、それを眺めているのでしょうか。
おひとりの時間を楽しまれているのを、お声がけしていいものか迷いましたが。
優さま、とおそるおそる呼びますと。
「みやか」
「はい」
私の名前を呼ばれるのは初めてのことです。身を固くし、優さまのお言葉を待ちました。
「学問はどこで習った?」
「え? 私などは大したことなどありませんが……弟が読んでいる本などは少し。でも、全然、物覚えが悪いものですから弟のように丸暗記などはできないもので、よくからかわれて」
唐突なご質問でしたが、思い出すがままに答えます。優さまはずっと花壇の方を眺めておられました。たしかに秋桜は綺麗でした。ピンクの花がとても可憐です。ほっそりとした立ち姿で風に吹かれても柔らかにしなります。
「ふうん。たしかおまえは、初めて会った時も漢文の文句などをすらすら言って、私の気を惹いたんだったな」
「……あの時はなんとしてでも雇っていただきたくて、必死でしたから」
「あれからもうそろそろ一年経つか」
「はい。……優さま」
涼しい風が吹いた気がして、首筋が冷えてぶるり、と震えました。息がつまるような心地ですが、私は口火を切らなければなりませんでした。
「昼間は、大変なお目汚しをいたしました。申し訳ありませんでした!」
がばっと頭を下げます。
「今後、二度とこのような真似はいたしません。ですから……ですからっ、これからもお屋敷に置いてください。これまで以上に、誠心誠意、お仕えさせていただきます。優さまにも拾ってよかったと思っていただけるように!」
心臓がどきどきと跳ねてまいります。スミさんは大丈夫ですよ、と背中を押してくださったけれど、優さまから直接お言葉をいただいたわけではありませんし、不安で不安で。
優さまはただ、そうか、とおっしゃいました。そろそろと、頭を上げますと優さまは花壇から立ち上がるところでした。
「私も言いすぎてしまったようだ。おまえが手にとっていた本がよりによってあれだったから頭に血が上り、冷静な物言いができなかった。そのせいで、おまえは追い詰められて、ああなったのだろう。……おまえから仕事を奪う意味についてまったく考えていなかった。主としては褒められたものではなかったな」
優さまは一切こちらを向かれませんが、耳にしたのは思いがけないお言葉です。あの優さまが私を思いやってくださった! 使用人でも冷血漢の悪名高い優さまから、まさか!
目を丸くしたものの、慌てて首を振ります。
「いいえ! 元は私が悪かったのです。お屋敷の本に触れてしまったんですもの。貴重な御本を落としたり、汚したりしたら私などに弁償できるものではありませんし。……でも、優さまにも大事な御本だったのですね。嬉しいです」
「嬉しい?」
優さまが顔を顰めました。
「え、だって……あんなにたくさんある御本の中でたまたま優さまの大事な御本を引き当てるのは滅多にないことではありませんか。それに素敵な御本でした。絵しかわからなかったですが、恐れ多くも優さまと同じ本をめくれたんですもの。そのこと自体は悪いことですが、貴重な体験をさせていただきました。きっと一生忘れないと思います」
「一生、とはおおげさな物言いをする」
「本当にそうですもの。私のような者には習う機会などありませんから」
そんなことは、と言いかけた優さまですが、ふいに黙り込まれて何かを思索されているようでした。
「私とおまえでは常識が違うのだな」
「はあ……?」
「いや、いい。わかった。おまえはもう下がれ」
なにやら釈然としないものはありましたけれど、優さまはもう「やめさせる」とはおっしゃいませんでした。
「はい。ありがとうございました」
こうして私はお屋敷に勤めつづけられることになったのでした。