拾五
街にでたとはいえ、もう年末ですから、閉まっている店も多いです。それでも弟は帝都を歩きたいのだと、言い張ります。
「下見ってやつだよ。あと二年後には僕も帝大生になりたいからね、どんなものか知っておきたいんだ」
「それはいいけれど。お父さんとお母さんは何かおっしゃっていなかったの」
「何も。ただ無性に姉さんが心配だ、心配だって、日頃から口癖のように言っているよ。でもそうそう様子見に帝都に出るわけにもいかないだろうから、僕がいくことで安堵しているんじゃないかな」
穏やかな養父母の顔が脳裏に閃いて。無性に切なくなりました。
「もう随分と会っていないから、心配をかけているわね。せめて久弥に会えただけよかったわ。わざわざありがとう」
吐いた息は、温かければ温かいほど、ますます白くなっていきます。顔を冷気が刺すようです。手の先も、足の先もすっかり冷え切ってしまいました。歩き続けなければ、体の芯まで凍えてしまいそうでした。髪が短いぶん、さらに首筋にはいよる寒気が厳しいような気さえしてきます。
横を見れば、弟の息も白いのです。太い眉、高い鼻梁が目につきました。前会った時よりもずいぶんと細部は変わっていたことを発見すると、寂しさを感じずにはいられませんでした。一緒に育っていた「久弥」の面影はこの先どんどん失われていく気がして。
「寒いわね」
「うん」
ぽつりぽつりとたわいもない言葉を交わし、人通りの少ない道を選んで歩きます。目的地などありません。ただ、散歩して、歩く。久弥が望んだのはそういうことなのでしょう。
「姉さんは」
弟は歩幅が広くて、私は少しだけ急ぎ足でついていきます。そのような中、弟が躊躇いがちに口を開きます。ああ、本題に入るのだ、と私はそう察しをつけました。
「髪が本当に短くなったんだ」
弟はふうん、と私の髪先をすくいとります。切った時よりはすこしばかり伸びているはずです。それでも以前よりはずいぶんと短いのに違いありませんが。
「ええ。思い切って、ね。秋頃にばっさりと」
「さすがに驚いたなぁ。昨今断髪が流行っているじゃないか。姉さんも帝都の人になってしまったのかと思って。父さんや母さんもどうしようっておろおろしていたよ。二人共古い時代の人だからさ」
あまりにも朗らかにいうものですから、私はくすりと笑ってしまいます。
「そういうわけではないの。私を見ていればわかるでしょう。まだまだ野暮ったいものよ。この着物だって、村で着ていたものをそのまま着ているの」
「うん。姉さんはあまり変わっていないから安心して、父さん母さんにそのまま報告できるよ」
「ありのまま報告してちょうだい。元気でやっているって」
そうすれば、父も母も今ほどには心配しないでしょう。私は髪を切るときに起こった出来事を決して話すつもりなどありませんでした。両親もなかなか実家に帰らない私を心配してここに久弥をよこしたのでしょうから。
「そうするさ。仕事はどう」
「どうって。やりがいがあるわよ。それに労働条件はとてもいいわ。天蔵のお屋敷だもの」
弟は安堵したような、寂しそうな曖昧な表情をみせました。少なくとも、私がそう答えることを望んでいないことだけはわかりました。右目だけ歪に細くなるのです。不満に思っていることがあると、こういう癖が表に出てくるのです。私は懐かしくて、微笑ましく思いました。
「姉さん、なんだい。急にいやにやするだなんて」
久弥は私の顔をみては、呆れた声を出します。昔から変わらないんだなあ、なんていうのです。
「何よ」
「いやあ」
弟は頭をかいて、照れくさそうに笑崩れました。
「姉さん、考えていることはあまり口に出さないけれど、顔に出ちゃうときがあってさ。唐突に悲しそうにしたり、今みたいににやにやしてみたり。それなりにうちで苦労しているはずなのに、どこか浮世めいているんだ。やっぱり姉さんはお姫さんだなあ」
お姫さん、なんていかにも時代めいています。これほど私に似合わない言葉はないでしょう。言われて嫌な言葉ということでもないのですが、不釣合いすぎて体がむず痒くなりそうです。
「『お姫さん』は、私の母の代までよ。もう実は伴っていないわ」
風が通り過ぎ、季節は巡っていきます。「お姫さん」と呼ばれるのにふさわしかった人はもうこの世にいないのです。
「でも名は残っているさ。父さんも母さんも、姉さんをお姫さんと思っていることにかわりないよ」
名主の家系だった私の家の血筋をたどっていけば、どこかの城主にあたるのだそうです。その血筋から、当主は殿さん、私の家に生まれた女はお姫さんなどと村人から呼ばれたのだそう。もっとも私はその時代を知らないので、養父母からのまた聞きです。
「だから頑張って私を女学校に通わせたかったんでしょう。少しでも家柄にふさわしい旦那様を見つけるために。知っているわ。でもお父さんたちにも無理はさせられなかったし、結局、来た縁談もことごとくだめになったもの。久弥が昔から何度も言ってきたみたいに、私ってあんまり賢くなかったからね、うまく立ち回れなかったの」
「姉さんが悪いわけないだろ。ぜんぶがぜんぶ、先方の都合だ。姉さんや僕たちを見下して、好き放題していったんだ。姉さんは怒ったってよかったんだ」
「まあ、私の代わりに久弥が怒ってくれたからいいかなって」
「それは違うだろ!?」
久弥が突如、大声を出したものですから、びっくりしてしまいます。私の様子に気付いた久弥もはっとした顔。じわじわと頬のあたりに血が集まっていきました。
「だからさ……僕が言いたいのは、姉さんは自分を卑下しなくていいってことだよ」
「急におかしなことを言うのね。昔は久弥の方が私を馬鹿にしてきたじゃないの」
「……子どもだったんだよ、僕だって」
苦虫を噛み潰したような顔になる久弥。
「自分が周りのだれよりも勉学ができていたし、みんな褒めてくれたから調子に乗っていたんだよ。恥ずかしい子ども時代だよ、まったく!」
「あら、気づいたならひとつ大人になったんじゃない」
「そりゃあ、いろいろ知っていくよ。今まで見えていなかった周囲のこともね。……姉さんはこれでいいの。実際のところ、僕と姉さんは姉弟ではなくて従姉弟同士だし、本家筋は姉さんの方だ。僕を進学させるための費用を姉さんに援助してもらう義理はないのに」
「そんなことはないわよ。一緒に育ってきたんだし、血縁は多少遠いけれど、これからも姉弟なんだしね。久弥は勉強できるし、大学に行きたいんでしょう? そういう人はやっぱり進学すべきなのよ。将来はすごい人になって、世の中の人の役に立ってちょうだいね。応援しているわ」
久弥は黙り込みました。話さなくなると、昔の面影が少し薄れて、まったく見知らぬ男の人が隣にいるような気分でちょっぴり落ち着かなくなりました。
「……わかった。僕も恩を返す。姉さんがこのまま行かず後家になっても、僕が一生涯、面倒を見るから」
「ありがとう。できるだけ自分でがんばってみるけれど、どうしても難しくなったらお願いするわ」
弟が急に健気なことをいうものですから面食らいましたが、頼もしい言葉です。
「……まあ、だからさ、焦ってほかの男と結婚せずにいろよ。僕が大学を卒業するまで」
「結婚の予定はないから大丈夫よ。久弥の大学卒業までちゃんと仕送りはしてあげるから」
そういうことじゃないんだけれど、と久弥はもごもごと呟いております。
「僕が帝都で働くことになったら一緒に暮らすのもいいんじゃないかって、思ってさ」
「悪くないと思うけど、父さんと母さんは村から離れないんじゃない?」
「父さん母さんは村にいるだろ。関係ないじゃないか」
久弥は不思議そうな顔です。なにやらうまく噛み合っていない気が。
「僕は姉さんの面倒を見る、姉さんは僕のために料理や洗濯をする。完璧じゃないか」
「二人で暮らすの? あなたって、そんな私に懐いていた? 昔は本当に私のことが嫌いだったでしょう?」
「そんなことあるもんかっ!」
久弥は鼻をふくらませます。街行く人が驚いて振り返っているのが見えて、私は慌てて先を急がせました。
「そうだ、最近ね」
隣にいる久弥に近況を言おうと口を開きます。
「英吉利の言葉を習っているのよ。久弥とおんなじね」
「姉さんが英語を」
今度は久弥が目を丸くする番でした。
「天蔵家の使用人ってそんなことまでしていたのか」
「まさか」
と、私は笑って、優さまとのことを話しかけ、その口が止まります。細かい事情は話しにくいのでかいつまんで応えます。
「ちょっと事情があって、特別に許してくださったの」
久弥には優さまのことを話せなかったのです。私は話さなかっただけでしたが、秘密を守るために嘘をついてしまったかのような錯覚を覚えました。
「それよりも、久弥。いつまで帝都にいるの」
私は努めて明るい声を出します。
「うん、三日の夜に夜行列車に乗るよ。そのときにまた挨拶に来る」
久弥が下がってきた襟巻きを巻き直します。顔まですっぽりと埋まってしまいそうで、可笑しさに笑みがこみ上げてきます。
「せっかくだから、初詣くらいは一緒に行きましょう」
「それはいいけれどさ。使用人の人と行くと思っていたよ」
驚いたように言われてしまい、私はかえって訝しみました。
「帝都にいるのに誘わない方がおかしいわよ」
「う、うん、そうだったな。ごめん」
久弥はこりこりと頭をかきます。そして、私から目をそっと逸らし、風に吹き消されそうな小声で尋ねます。
「姉さん。あのさ。いま、好い人はいないよね」
いないわよ、と一息で言い切りました。
「働くだけで精一杯よ。それにお屋敷にこもりきりなのに、どうして知り合う機会があるというの」
実際には私の陥っている状況といったら、目を頑なに閉じてしまいたいくらいにひどいものです。三文小説みたいではありませんか。
私は学ぶことが好きです。異国の物語を原書そのままで読めることを知ってしまった私は、すでに優さまに依存してしまっているのです。あの方は一番言葉に通じていらっしゃる。だから仕方がないのだと、どこかへ連れていこうとしている優さまに手を引かれながら、みまいと顔を背けている状態なのです。
「久弥。私は働き続けるわ、天蔵家で。きっと久弥が大学を出てもしばらくは働くかもしれないわ。あまり家には帰れないと思う。ごめんね」
「姉さんはそうしたいのか」
弟は静かにそう言って、不思議そうに私の顔を眺めます。
「わかったよ。姉さんが帰りたくないのもわかるから。父さん母さんにも伝えておく」
真剣な話はそれがすべてでした。




