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拾弐

「しばし、お暇をいただきます。では、よいお年を」

「スミさん、来年もよろしくお願いいたします」


 ほかの使用人たちは代わる代わるスミさんと金井さんの元を挨拶に訪れていました。私たちとも一言二言交わしたあと、汽車に乗ってそれぞれの故郷に帰っていくのです

 これが天蔵家の年の瀬の光景でした。


「みや、あなたもたまには実家に帰った方がいいわよ。ここに来てから一度も帰ってないでしょ。親御さんも心配してるわね、きっと」


 使用人の宿舎の大部屋で裁縫をしていた佐恵子さんが顔を上げます。繕いものをしていた私は手を止めました。


「手紙はちゃんと出しているわ」

「手紙って言ってもねえ」


 わかっていないわね、と言わんばかりに佐恵子さんはため息をつきます。


「手紙っていうのは生きている証にはなるでしょうけれど、達者でやっている証にはならないわよ」


 故郷に帰ってもすこぶる居心地が悪いだけ。養父母にも嫌な思いをさせるばかり。もっと年降れば多少はよくなることを祈るしかないでしょう。

 ちくちくと私はエプロンドレスの破れた裾を縫っていました。最後は糸を切って終わりです。ぱちん、はい、終わり。


「私も、会いたいわ。でもね、故郷はやっぱり遠くで想っていた方が幸せなのかしらって」


 山々を駆け回り、薪を集め、田植えを手伝う。夜には天井裏のかいこ小屋をのぞく。川で網にかかった小魚の跳ねようや、路傍に生えた、小指の爪ほどの白い花のたゆみよう。かつては胸いっぱいに吸い込んだ、その空気の清らかさは今も心に色づいて離れません。そこにともにいた幼友達たちの姿も。


「悟っているわね」

「割り切ることにしたのよ」


 簡単に服を畳んで、立ち上がります。


「みや、ちょっと待ちなさい」


 書き物をしていたらしいスミさんが私を呼び止めます。


「あなたに手紙ですよ。先ほど届いていました」

「はい、ありがとうございます」


 裏に返せば、差出人の名は弟のものでした。つい先日に返事をしたばかりだというのに、少々早いのではないでしょうか。


「みや、開けてみてよ」


 佐恵子さんが私の肩ごしから覗き込もうとします。私は振り払うようにくるりと佐恵子さんを正面に捉えます。


「佐恵子さん、いい加減にあなたも覚えるべきよ」


 佐恵子さんの口が尖りかけて、自分で気づいたように引っ込めます。


「わかったわ。でも、気になるじゃない」


 あまりにも子供っぽく拗ねるものだから、私も少しだけほだされてしまいます。


「話せることだったら話すということで手を打って」


 ね、と佐恵子さんに微笑みかけて、手紙を広げます。


『姉さん、ご無沙汰しております。近頃めっきり冷えてまいりまして、初霜が降りました時には季節の流れを実感致します』


 弟の文字は相変わらず癖が強いようで、かくかくした印象を与えます。それを懐かしみながら先を進めていたのですが。


『……という次第でありまして、云々。これを機に、私も上京いたす所存です。滞在については心配無用。かの帝都の地で会えますのを楽しみにしております。

                               久弥』


 興味津々で私の言葉を待っている佐恵子さんを呆然と見つめます。


「佐恵子さん、どうしましょう」

「え、なに、なんなの。教えて」


 佐恵子さんが瞳に星を散らす勢いでぬっと迫ってきましたが、そんなことに構っていられません。

 足がどうも落ち着きませんでした。それは地につくことさえ惜しむらしく、浮き足立ってしまうのです。

 弟がやってきます。他でもない私に会うために。もう今からも心臓がどくんどくんと鼓動をうちます。私は慌てて部屋を飛び出しました。


「スミさん、少々ご相談があります」


 ご本を読んでいたスミさんが顔を上げて、目を細めました。




 凍るような手の冷たさに身震いを覚えます。洗濯板を片付けて、私は何気なく空を見上げました。青の色彩と、燦々と降り注ぐ陽の光にどこかほっとする己を感じます。

 今日よりは、天蔵家のお屋敷には優さまとごくわずかな使用人が残るのみです。使用人宿舎のみならず、お屋敷全体がどこか寂しげに佇んでいるように思えるのはそのせいでしょう。

 天蔵家の年末年始は当主不在のまま静かに過ぎていくのです。

 腕に抱えた洗濯物もいつもより少なくて。さっと洗濯棒に干して、早々に終えてしまいます。

 佐恵子さんは食堂の掃除をしているはずでした。明日は一日お休みをいただくのですから、今日のうちはできるだけたくさん働いておきましょう、と気合を入れなおします。

 お休み、といいますのも、なんとスミさんにご相談したすぐあとに電報が届きまして、弟が明後日に尋ねてくる旨がわかったからです。どうせなら、久々にゆっくりと過ごしたいとも考え、思い切ってお願いしたのです。

弟は養父母のようにこれからもずっと故郷にいるわけではありません。今は高等学校ですが、この先に大学へ進み、働くともなれば、遠く離れた地に行かないとも限らないのです。こうやって訪ねてきてくれるのもこれが最後なのかもしれません。この機会を逃すのはあまりにも惜しいのです。

 食堂に向かいましたところ、優さまにお会いします。人気も少ないお屋敷では、暖も取りにくいものがあります。顔の下半分まですっぽりと覆う襟巻きを身につけていても無理はありません。


「ちょうどいいところに来た。部屋に茶を持て」


 お声がすこしばかりくぐもって聞こえます。


「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」


 私はこう返事をします。優さまは頷かれて、部屋に引っ込まれます。本当にお茶を取りに行かれるために外に出てこられたようでした。


「お待たせいたしました」

「ああ」


 優さまは眼鏡をおかけになって、大きな机いっぱいに書類を広げていらっしゃいます。頬がかすかに色づいています。私の肌に触れる空気も温かく、お部屋の電気ストーブがよく効いているようでした。


「そこにおいておけ」


 優さまが指し示した、書類のない隙間に湯呑を置きます。優さまはこの間一度も顔を上げませんでした。このお仕事が、月子さまのお誘いを断った理由なのでしょうか。思い出したようにかりかりと万年筆が紙の上を滑ります。


「もう一つ、頼まれてくれ」


 ふと、優さまの眼鏡の奥の瞳が私を捉えます。一瞬、ぎくりと体を震わせました。密かに観察していたことに気づかれたのかと思ったのです。


「今日の新聞をもってこい」

「はい」


 新聞はまだ食堂に置いてあるはずでした。それを思い当たるにつけ、私の足は自然と早まります。なにせ、今日は人がいないのです。私もいつもより機敏に動くべきでしょう。


「こちらが本日の新聞になります」


 天蔵家で読まれる新聞は一紙や二紙ではききません。この帝都での主だった新聞社のものはすべてとっております。なので、もってくるにもそれなりの厚みがありました。とにかくかさばるのです。


「ああ」


 書き物の手をとめて、一頁一頁捲る音が部屋を満たします。真剣な面持ちをなさっていた優さまはすべての新聞に目を通して、こちらに押し返します。


「夕食はここでとることにする」

「かしこまりました」


 受け取りながら、私はこうお答えします。


「お前がもってこい」

「はい」


 なぜです、という言葉は喉の奥で飲み込みました。ぐっと堪えるところです。


「疑問に思っているだろうな」


 視線を机の上に戻されて、優さまは見透かしたようなことをおっしゃります。万年筆がためらいなく、端正な文字を生み出していく様を私はぼうっと眺めておりました。


「いえ、そのようなことはございません」

「はたしてそうだろうか」

 書きながら、優さまの唇は笑みを刻まれたのです。


「取り繕いきれていないぞ」


 ゆっくりと顔を向けられましたとき、私は優さまがそうなさったわけを悟りました。私がどのような反応をするのかを知りたかったのです。己の言動で狼狽する私の姿を。

 案の定、私は優さまの視線を受け止めきれず、そっとまぶたを閉じ、お辞儀をすることでやり過ごしました。

「失礼いたしました」

「失礼、とは思わんでいい。普通なら気づかないささいなほころびだ」


 お前の振る舞いは完璧だ、と優さまは常になく饒舌な調子でした。

 ただ私は思うのです。今の振る舞いが完璧でないからこそ、優さまに気づかれてしまうのではないでしょうか。もし、完璧だとして優さまが気づかれたということはこの方はよほど鋭いお方なのか、あるいは。

 なぜ優さまは気づかれたのですか、と私がお聞きしたら、この方はどのような返事をなさるのでしょう。私が思うような返事をくださるのでしょうか。


「以後、気をつけます」


 それでも私はぐっと堪えて、いつも通り当たり障りのないことを申し上げるのです。何も波風を立てぬようつつがなく。

 優さまは何もおっしゃらずただお茶を口になさいます。喉を潤して、一息つきます。優さまはまだ私に部屋を出て行くように申し付けられません。私はといえば、退出する機を逸してしまい、そのままぐずぐずと優さまのご様子を伺っています。


「貸した本のことだが」


 私は正面に座られている優さまの、眉間に皺のよっていない年相応の顔つきが徐々に変わっていくのを見ておりました。口元が緩められます。


「はい。実はまだ半分も進んでおりません」


 慎重にそう言います。優さまは湯呑を机の上におかれました。


「言葉がわからないか」

「はい。苦戦しております」


 お恥ずかしい話ですが、正直にお答えするしかありませんでした。優さまはさぞや愚かな女と思ったことでしょう。しかし、優さまは嘲ることもなく、終始静かに私の進み具合をお聞きになると、おもむろに引き出しから別の万年筆と紙、それと一冊の本を取り出されました。私がお借りしている「Alice」の主人公のお話しです。


「お前が持つものと同じ本だが、父の蔵書だ。したがってここから持ち出すことはかなわない」


 優さまは試すように私を御覧になると、本と万年筆と紙を一揃えにして、とん、と人差し指で指します。


「実は先日、この本を荻野の令嬢が借りたいと言ってきた」

「月子さまが」

「だが、貸せるのは私の蔵書のみ。それはお前が持っている」


 私はすべてを察して、慌てて頭を下げました。


「かしこまりました。すぐにお返し致します」


 月子さまがお読みになりたいものを私が持っているわけにはまいりませんでした。

優さまはよいのだ、とかぶせるようにおっしゃいます。


「これぐらいのもの、荻野侯爵家ではいくらでも手に入るし、どうせしばらくは別荘で過ごすだろう。今すぐ返そうとしばらく後で返そうと同じだ」

「恐れ入りますが……この調子では読破することは叶いません。それでしたら月子さまにお貸しした方が」


 優さまの人差し指がとんとんと机上の紙を叩きます。万年筆が身じろぎしました。


「この薮入りの間に読み終えろ」

「優さま」


 有無を言わさぬ勢いで優さまは断言なさったので私は声を上げました。


「私一人ではとてもできることではありません。英語に堪能なわけではないのです」

「助けを借りればいい」


 再び人差し指で紙を叩かれます。拒否権はないも同じでした。

 どうして優さまはこうも私に本を読ませようとしてくるのでしょう。


「わかりました。金井さんにお聞きしてまいります」


 背に腹は代えられません。私は意を決しました。旦那さまのいらっしゃらない今ならば、私に割いて下さる時間もあるかもしれません。足はすでに金井さんのお部屋へと向こうとしましたが、優さまの言葉で止められることとなります。


「やめておけ。やつは英語を使えるが、英吉利に行った私ほど堪能ではない」


 優さまはふいに立ち上がられます。目を丸くした私の傍を通り抜け、窓辺近くにあった丸机と木の椅子を、今まで作業をしていた大きな机の正面に持ってこられます。その正面に立っていた私はよくわからぬうちに後ろに二歩三歩と下がります。

 丸机におかれたのは先ほど引き出しから取り出された万年筆と紙、本です。椅子は優さまが座っていらした椅子のちょうど真ん前です。

 優さまはそこまですべて自分でなさると、そこから椅子を引いて私をみやります。


「座れ」


 おかしな予感がしたのはこの時でしょう。

 ただ、私は優さまの命令には従うしかありません。妙な心地で前に進み出て、その椅子に腰掛けます。椅子の背もたれに触れている優さまの気配に落ち着かなくなりました。


「始めたことはやり通せ」


 優さまは後ろから手を伸ばされて、本を開きます。よく見覚えのある絵のある頁が目に飛び込みます。


「何としてでもこの休み中に読み切るのだ」


 私はぎょっとして後ろを振り向きました。


「優さま」


 その瞳は私のものと交わることはありません。優さまはこうと決めたら押し通される。すでに意志は固まってしまったのです。

「もしやできないとは言うまいな。お前は天蔵の者だろう。その矜持にかけて成し遂げろ」


 私はそっと目を伏せて、前にある本を眺めます。赤い装丁ではなく、薄い冊子のようにも見えます。外見は違うけれど、中身は同じものです。

 読み通したい。それは私がかねてから願っていたことです。けれど、このようなことを決して期待していたわけではないのです。


「優さまは、私がこの本を読破できるとそう信じておられるのですね」

「今更だな」


 優さまは不可能なことを押し付けるようなことはなさいません。使用人に対する要求は非常に高く、気難しいお方ですが、それでいて能力を過信しないのです。失敗するだろうことは望まれずに、他の者に頼むか、自ら行います。

 戯れに頁を操る優さまの指が唐突に映ります。冬で乾燥し、がさがさした手で、指は長くてがっしりとされています。ところどころにまめが潰れた跡が残ります。旦那様の主治医をなさる前は軍医も経験されたことを想起させる働き者の指です。

 はっと天啓が閃いたのはその時でした。


――信じておられるのですね。

――今更だな。


 優さまは私を信じるとおっしゃいました。信頼を欲した私に、機会をくださったのです。応えなくては。そう思いました。差し出してくださるのなら、受け取ろう。それが今、私のすべきことでした。


「私、精一杯やらせていただきます」


 視線は優さまの指からそらさぬまま呟きます。優さまは聞き逃されることなく、手の動きを止めました。


「当たり前だ。やる気のない者に教える気など毛頭ないぞ」

「はい」


 腹を決め、私についた初めての英語教師に頭を下げました。


「優さま、どうかよろしくお願いいたします」

「よし。ではペンを持て」


 私は万年筆を持ちました。優さまの「授業」に耳を傾けながら、本と見比べ、ところどころ大事な話を書き写すという途方もない「仕事」が始まったのです。




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