壱
優さまには美しい婚約者がいらっしゃる。先日、耳にいたしましたときにはどんな方なのだろうと思ったものですが、相手があの月子さまということで、納得してしまいました。道理で最近、よく出入りされているのだと。
財閥天蔵家の長男の優さま。荻野侯爵家の次女の月子さま。優さまは帝国大学を出た秀才で、天蔵家の跡継ぎとしてこの上もない方ですし、月子さまはおしとやかでお優しい方です。華族のお嬢様でもありますし、女学校でも下級生に慕われているのだとか。お二人を並べてみれば、お内裏さまとお雛様のように完璧なお二人です。
唯一、心配なところを申し上げるならば月子さまの体調のことでしょうか。どうやらお身体が強くないようです。
天蔵のお屋敷にいらっしゃったときには時々お見かけするのですが、その体の細さや抜けるような色の白さには心もとなさを感じてしまいます。立ち姿は百合のよう。まるですぐに手折られてしまう薄幸の花を思わせます。それにとてもきれいな黒い髪をしてらっしゃって。あぁ、おきれいだ、と私も女ながらにうっとりと眺めてしまうのです。
月子さまの「みやさん」とお呼びになる声まで美しく、天女もかくやという清らかさがあるのです。
使用人にも気を遣い、決して無茶な要求をなさらない月子さま。私を呼び止める声も遠慮がちで、仕事中の私を困らせてはいけない、と思っていらっしゃるような方なのです。
この方と私は同じ年の頃であるせいか、しばしばお話する機会もございました。本来ならばお傍にいられないような庶民の私ですが、月子さまはきさくに声をかけてくださったのです。
ある春の日。月子さまは掃除中の私を呼び止められました。
「みやさん」
「はい。御用ですか、月子さま」
月子さまの微笑みに釣られるように私も微笑みます。憧れの月子さまにお声がけいただいたので、私はいつものように舞い上がっていたのです。
月子さまは少し遠慮がちにおっしゃいました。
「手が空いたら、でいいのだけれど。優さまを探してくださるかしら。わたし、まだこのお屋敷には不案内でしょう。あなたなら心当たりがあるかと思って」
「申し訳ありません。さきほど帰っていらっしゃったのは存じ上げておりますが、どこにいらっしゃるのかまでは……」
月子さまのお顔がみるみる曇るのを見て、私は慌てて申し上げます。
「優さまのお部屋を見て参りますよ。月子さまは客間でお待ちくださいませ」
「わかったわ。いつも頼ってしまってごめんなさいね」
「いえ。月子さまに頼っていただけるのは光栄ですよ」
「おおげさだわ」
月子さまが口元に手を当ててくすっと笑います。
「ありがとう、みやさん」
華奢な背中が客間に入られたのを認めると、私の足は優さまのお部屋に向きました。
天蔵家は明治、大正と経る間に名もなき庶民から大財閥に名を連ねた一家です。元は大阪のあたりで小さな商いをしていたようですが、今の旦那様、天蔵吉蔵の代となってからがめざましく、炭鉱、銀行、海運の分野で事業を起こした結果、そのことごとくで大成功を収めたのです。今ではどんな田舎に住む者も「あの天蔵家」と言えばなんとなく覚えのある顔をするほど、押しも押されぬ名家となりました。そんな新興の天蔵家と公家の流れを汲む華族の荻野家が、今回めでたく結びつき、婚儀を行うことと相成りました。
情報通の同僚、佐恵子さんが言うには、「やっぱり旦那様の財力を当てにしてらっしゃるのでしょうよ」とのことです。昨今は恋愛結婚という都会的な考え方もありますが、今も大多数の結婚は家同士の結びつきを重視するものでしょう。天蔵家と荻野家の縁組が結ばれたのも間違いなくそういった面が大きいものと思われます。
ただ、当事者同士の心持ちというのは政略とは別なのではないでしょうか。だって、優さまと話しておられる月子さまはとてもお幸せそうです。はにかむお顔の頬には紅を差したよう。恋する乙女なのです。私もあれほどかわいらしくなれたなら、家の縁談も三度破れることはなかったのかもしれませんね。
月子さまならば若奥様になられても、使用人に厳しく当たることはないでしょう。お二人が結婚されたら、美しい若夫婦のお姿を間近で拝見できるのです。恐れ多くも雲の上の方々のお傍近くに寄れるとは、使用人という職業の役得ではないでしょうか。辛いこともありますが、郷里を出て帝都に職を求めた決断は間違っていませんでした。
「優さま、いらっしゃいますか」
月子さまがお見えになったことを伝えようと優さまの部屋のドアを叩きましたが、返事がありません。こちらの部屋にいらっしゃらないようです。……ならば、あそこかしら。一つだけ、私にも居場所の心当たりがございました。
優さまの行き先として目星を付けたのは天蔵家の図書室です。お屋敷とつながる別棟にございます。
旦那様は大の古書愛好家として知られており、そのため図書室もたいそう立派なものなのだとお聞きしています。舶来の書物を含め、希少本の宝庫としてその筋の方々には名を知られているのだとか。もちろん、入って一年もたたない新参者には掃除のときでさえも立ち入ることを許されるわけもなく、私自身入るのは初めてでした。
しかし、今までここに何度か優さまが入っていったのを目撃したことがございます。優さまは帝国大学を出られていますし、きっと書物などにもお詳しいのでしょう。優さまがいらっしゃるのかもしれないのだから、探さないわけには参りません。月子さまがお待ちなのです。
真鍮のドアノブを回しますと、キイ、とかすかな音がいたしました。鍵はかかっていないようです。そっとドアを押して覗きます。
採光のための窓ガラスから午後の光が零れ出ているのが見え、古びた紙の匂いがいたしました。
壁一杯に取り付けられた洋風の本棚にはびっしりと本で埋め尽くされております。浅学な私には中身はおろか背表紙に書かれた文字さえ読めないものばかり。英吉利の文字なのでしょうか。
摩訶不思議なところです。はじめてこのお屋敷に入った時に感じた、別世界に入りこんだ心持ち、と言いましょうか。少しの恐れと遠慮、しかしそれ以上の――好奇心。
幼いころは高い木に上って、遠くを走る汽車に思いをはせる子どもでした。いつかあれに乗ってどこかへ行こうと思い、実際に乗りこんだのです。何の当てもないまま、それでもそうせずにはいられなくて。
図書室に入る機会はこれから先もそうないことでしょう。そのこともあってか、私はすぐに優さまの名を呼ぶのではなく――このひそやかなお部屋に踏み込み、いけないことをしてしまったのです。
本棚に並ぶ本。その中で一番ほっそりとした背表紙に人差し指をかけて、抜き取りました。
赤い色をした表紙。題名は読めません。おそらくみみずがのたくったような曲線が「それ」を示しているのでしょう。
震える指先で一頁、また一頁とめくるうち、私は夢中で読み耽ってしまったのです。文字は読めません。でも絵がありました。外国の方が出てきます。
女性が女の子に本を読み聞かせています。服装からすれば、欧羅巴が舞台なのでしょう。不思議なことに白い兎は洋装していて、二本足で立っています。女の子はそれについていって、別の国に行ってしまう。本は綺麗に装丁されているようですが、絵も文字もそのまま手書きで書いてあるようで、印刷されているものではありませんでした。滑稽ですが温かみのある線です。
最後の頁までめくり終わると名残惜しい気持ちで本を閉じます。
どんなお話しなのでしょうか。文字が読めたらもっと楽しめるのに。
けれど、私のような者には土台無理な話です。実家が裕福でもなく、無学で取柄のない女には一生縁のないもの。諦めるのが普通なのでしょう。しかし、胸の奥にぐずぐずとした気持ちがあるのもたしかで、気が付けば唇をかみしめておりました。
その時でした。本を持っていた親指あたりがふっと翳ったような気がして、右を見ます。
「あっ」
本を、取り落としそうになりました。驚きすぎて。全身から血の気が引きました。
本棚の端の方に寄りかかるようにして立っていたのは優さまでした。
仕立ての良いシャツに、ブラウンのズボンを履かれています。神経質そうな目に、銀縁眼鏡をかけています。この方はものすごく眼光の鋭い方で、この方に見られると、鷹に狙われた鼠になった気にさせられます。
優さまは私のところへ歩いてこられると、ひょいと本を抜き取りました。
「A Christmas Gift to Dear Child in memory of a SummerDay……訳すと、『夏の日の思い出を親愛なる子への生誕祭の贈り物に』、というところだな」
とても不機嫌な声です。不機嫌に違いありません。私は初対面からこの方を不機嫌にさせてばかりなのです。今もお屋敷の物を無断で触った不届き者を苛む目で私を見ていらっしゃるのです。首を竦めて縮こまる私に、優さまは言い放ちました。
「ちなみに我が家に存在する数多の書物の中でもかなり希少で今後価値が高くなるらしい。お前の給金では返しきれないだろう、残念だ」
ウッ、と呻き声が出そうになりました。私の行った蛮行は申し開きのしようがないのです。平謝りするしかないのです。
「も、申し訳ありません! お許しください!」
優さまは博学なお方です。帝大医学部を首席で卒業され、陸軍軍医として従軍、予備役になられたあとは独逸や英吉利で遊学されておりました。現在は医者として旦那様の主治医をなさっている傍ら、後継者としてそのお仕事のお手伝いをなさっておいでです。英吉利や独逸、仏蘭西などといった国のお言葉を自在に操れるのだとか。経験されてきたことが途方もなくて、私には雲居の方です。
そのような方ですから、私の行いは許しがたいことなのでしょう。秀麗なはずのお顔立ちがどんどんきつく……ああぁ。
「月子さまが優さまを訪ねてこられたのです。ですが、お部屋にいらっしゃらなかったようなので、こちらに参ったのですが」
言いながら己の言い訳がましさに言葉尻がしぼんで参ります。優さまが怖いです。
「ほう。探してくるよう言われて来たものの、御用よりも面白そうなものを見つけ、そちらにふらふらと釣られてしまったのか。他の使用人は主人のものを盗み読みなどしないだろう」
優さまは辛辣でした。容赦なく言葉で私を責め立ててくるのです。
「使用人として高い給金を支払っているならば、その価値に見合う労働が求められる。それができないのは莫迦か阿呆だ。その様子では解雇されても文句は言えまい」
「そ、それは……!」
解雇、という文言が私を慌てさせます。
「お願いです、それだけはご勘弁ください。他に行くところがないのです。どうかお屋敷にこのまま置かせてくださいませ!」
なんと浅はかなことをしてしまったのでしょうか。つい出来心でと申し上げるには、あまりにも本が魅力的で、見入ってしまったのです。
「ならば聞く。おまえが天蔵に来られたのはなぜだと思う」
「それは……優さまが拾ってくださったからです」
汽車で帝都に来たはいいものの、伝手がなかった私は働き口を探すため、百貨店の前に行ったのです。百貨店に出入りするのは華族や財閥などの名家の方々がきっと多いだろうと思ったからです。名家の方々ならば良い働き口も知っているはず、と冷や汗をかきつつ店の前を窺いました。
しばらく待って、百貨店から出て来た一番身なりのよさそうな紳士に声をかけました。それが優さまでした。無視しようとする優さまに、どうにかこうにか雇っていただけるように必死にお願いし、優さまは渋々、私に今の仕事を与えてくださったのです。
「あの時、気まぐれでおまえを雇ったのだ。たまたま人が足りていないとスミにぼやかれていたからな。この意味がわかるか」
「……はい」
この一年近く、一所懸命に仕事をしてきました。失敗もたくさんしましたが、みなさまの信頼を得られるように力の限り、尽くしてきたつもりです。
しかし、たった一度の失敗で積み上げた信頼を失うのも人生なのです。優さまからしてみれば、ご自分の顔に泥を塗られた心地なのでしょう。
「与えられた仕事ができぬ者を天蔵家に置くわけにはいかない」
「優さま、本当に申し訳ありませんでした。でも、私、ここで働いて仕送りをしなければならないのです。やめたくありません。せめて弟を大学に行かせてやりたいのです」
私の家は元々裕福な名主の家と聞きます。しかし、御一新以降は家運も傾き、父の代にはすでに跡形もないほどになっておりました。さらには父母も両方、私が物心つく前に亡くなり、人の好い叔父夫婦に引き取られたのです。義理の両親は私をどうにか女学校に入れたかったようですが、家計のこともわかっておりましたので諦めました。高等小学校を出てからはずっと働いています。せめて頭の良かった弟だけは良い学校を卒業させてやりたいと思い、働きながらずっと仕送りしていたのです。
「たかだか使用人一人とお思いでしょうが、私には死活に関わることなのです」
死に物狂いで訴えました。優さまは鉄のような御方ですが、それ以上に「解雇されたくない」という気持ちが強かったのです。
「はじめて図書室に入ったものですから、つい浮かれてしまっただけなのです。素敵な御本がたくさんあって、外国の言葉が私のような者にも読めましたらどんなに良いだろうと。もう二度といたしません。お許しいただけるのでしたら、私、どんなことでもいたします! ですから、どうか……!」
祈るような心地で優さまのお言葉を待ったのですが。
「お前に何かしてもらおうとか思わん。自分で大体できてしまうからな。……荷物をまとめておけ。すみには私から伝えておこう」
フン、と鼻を鳴らされ、優さまは本を片手に図書室をお出になられました。私は呆然と優さまの出ていかれた扉を見ていましたが、我に返ると慌てて背中を追いかけました。
「優さま、優さま。どうか先ほどの言葉お取り消しを!」
「お前もしつこいな。仕事なら他にもあるだろう」
仏頂面でそのようなことをおっしゃいますが、優さまのように見識にあふれた方ならともかく、私のような者にはそういうわけにも参りません。
この時代、女ができる仕事は限られております。バスガールなどという女性の職業が増えてきたのはほんの昨今のこと。女学校も満足に卒業できていない私のようなものには選べるほどの仕事がありませんでした。優さまにだってそんな事情はご存じのはずです。
私は俯いて足を止めました。
必死の思いも空しく、優さまはズンズン進んでいかれます。
こういうお方なのです。いえ、天蔵家の方々は皆さま、使用人を都合のよい人形としか思っておられない。命じたことは何でも聞き、拒否することを許されないのです。きっとそれは正しいことなのでしょうが……それでも、わずかでもいいから人形の気持ちを汲み取っていただきたいと願ってはいけないのでしょうか。
「優さま!」
除夜の鐘もかくやの大音声に、優さまもさすがに振り返りました。
「論語では『過ちて改めざる、是を過ちという』と申します! 二度と同じ過ちは犯しません!」
優さまが大きく目を見開きました。なんなら、少し口まで開けて。しかし、すぐにいつものお顔になると、ずんずんと私の前に立たれました。
「……ほう? 論語を引き合いに出すとは大きく出たものだな」
優さまの目に好奇の色が浮かびました。興味を引くことができたようです。
「だが易経ではこうあるぞ。『小さく懲らして大きく誡むるはこれ小人の福なり』。小さな悪でもしっかり罰することは、後々にはおまえのような者のためになるということだ」
「……いえ」
私は懸命に頭を働かせました。優さまに、己の価値を見せなければならないことはわかっていました。有用なことの証明。それを今、できなければ本当に荷物をまとめて今夜の汽車に乗らなければならなくなるでしょう。
「同じ易経に、『玉を琢かざれば器と成らず。人学ばざれば道を知らず』、『学ばざればその善きを知らず』という言葉もあります」
「おまえは『玉』なのか。手間をかければ光るのか」
「優さまご自身の目でお確かめくださいませ」
ふむ、と優さまは考えておられるようでした。永遠にも思える時間が過ぎた後、優さまはおっしゃいました。
「……貴を以て賎に下れば、大いに民を得るなり、か」
地位の高い者が地位の低い者に対し謙虚な態度で接すれば大いに下の者の心をとらえることができるという意味です。
ほっとしました。優さまは許してくださる。そう思ったのです。しかし。
「たしかに、追い出すのはやめにしてもよいかもしれん。だが罰は与えねばならん。今のおまえに価値がないのは明白だ。問おう。……おまえのような者に何を差し出せるというのだ」
笑みは笑みでもそれは私に対する侮蔑を込めているのでしょう、優さまのお言葉も嫌味が見え隠れするものでした。私は一歩引いてしまうのを抑えつつ、虚勢を張ってその場にとどまっていたのですが。
「たとえばおまえはわたしにその身を投げ出せまい」
どうだ、できないだろう、とおっしゃりたいような高圧的な視線に晒されます。本気でないことぐらいはわかります。優さまは使用人を毛嫌いしておられる方。使用人に不用意に触れられたくないからと、自室の掃除もご自分でなさっているほどです。
本気でおっしゃっているわけではないでしょうが、優さまがほのめかすものに、身震いするほどの嫌悪感を覚えずにはいられませんでした。
「わが身を差し出します、とそうお答えするべきなのかもしれませんが」
正しい答えではないのです。優さまが私を試すためにおっしゃったのであれば、そんな俗っぽい回答を求めているわけではないのです。
実際に我が身を投げ出したとしても優さまの頑なな心には届かないでしょう。……優さまが私に求めるもの、それは何?
「フン。つまらんな」
迷っているうちに、優さまは私に興味を失ったようです。投げやりな調子で適当にあしらおうとなさっているのがわかりました。ふとわたしの髪に目を付けます。
「ときに、おまえの髪は長いな。その髪を一思いに切ってしまえば、赦そうか」
三つ編みに編まれた私の髪は結っても腰ほどまで伸びた長いものです。子供のころからずっと伸ばし続け、昔は夜毎、母に梳られていたこともございました。人にほめられることも多く、自慢の黒髪でした。だからこそ優さまの目に付いたのでしょう。
覚悟を決め、深くお辞儀をしました。
「畏まりました。お待ちください」
は、と優さまは目を丸くされるのを横目に、私は近くの部屋から裁ちばさみを持ってまいりました。急繕いでも後で毛先を整えればいいのですから、これで大丈夫でしょう。
「本気でやるのか」
「はい」
優さまはなおも疑っておられる様子です。
流石に刃先を三つ編みに近づけたときは、手が震えてしまいました。ぎゅっと目をつぶって、一思いに切ってしまいます。
ざくり、と小気味のいい音がしました。手の中に二つの髪の束が残ります。
頭が軽くなり、首にちくちくとしたものが当たります。さらりと指の腹で撫でていけば、それは残った毛先の感触でした。もう戻れないと思うと、急に背筋が寒くなりました。まだ手に残る髪の束を改めてみて実感してしまったら、私は泣いてしまうかもしれませんでした。それでも最後の勇気を絞って、俯いた顔を上げて、優さまを見ます。
「これで、お許しいただけますか。私にできる精一杯の誠意です」
もう私には蚊の鳴くような小さな声しか出てまいりません。目が熱くなっていくのを懸命に押しとどめようと目に力を入れました。
優さまは眉根を寄せるやため息をつかれました。馬鹿なことをしたと思っておいでなのでしょう。ええ、そのとおりです。
「女は髪を大事にするものだろう。愚か者め」
「髪はまた伸びますから。それよりも優さまに信頼していただくことの方が大事だと思ったのです」
「信頼だと?」
なぜか優さまは呆然と目を見開かれました。おかしなことを言ったつもりもないのですが。
「はい。優さまに信じていただきたいと思いました。同じ間違いは犯しません。次間違えた時こそなんなりとご処分くださいませ。これが私なりの覚悟の仕方です。……あの、よろしければこの髪も証として持っていかれますか」
「そんな気色悪いものを持っていくわけがないだろうが!」
たしかに優さまからしたらよくわからない覚悟の証として、使用人の切った髪をもらったとしても扱いに困るのは間違いないのですが。自慢の髪を「気色悪い」と評されたことにはさすがに落ち込みました。
「な、おい……」
優さまが珍しく焦ったような声で話しかけられようとした時、廊下の向こうから、
「みやさん? 何かあったのですか?」
月子さまがこちらへ歩いて参りました。
「優さままで。いったい……?」
その視線が、短くなった私の髪、裁ちばさみ、かつて三つ編みだった髪の束と、優さまの間を行きつ巡りすると、袂を口元に押し付けたまま立ちすくんでしまわれました。
微笑みを貼り付けて、何のこともないように月子さまへ頭を下げます。
「申し訳ございません、お騒がせいたしました。すぐに片付けてまいりますから……」
そんなことはよいのです、と月子さまは我に返られたようで、
「首から少し血が出ているわ。可哀想に」
衿から白いハンケチを取り出し、私の首に当ててくださりました。月子さまからふわっと花のような香りが漂い、酔ったような心地になります。
しばらく押さえてらしてね、という月子さまのお言葉で目が醒めました。心配そうな白いお顔が目の前にあります。
「いったい、なにがあったのです? 急に髪を切ってしまうだなんて、よほどのことがあったのではありませんか」
モダンガアルなる断髪の先進的な女性が出てきたのもつい先ごろのことです。髪は長い方が普通ですし、私自身さえ切ろうと思ったこともございませんでした。そう、「よほどのこと」と言われるのも当然のことで、なにやら人の道から外れてしまったような気さえしてきました。もう戻れない、決定的な「何か」を犯してしてしまったのではないかと……。
「何も……何もございませんでした」
白々しい嘘だと自分でも思いましたので、月子さまはなおさらのことでしょう。それでもぎこちない笑みで言葉を連ねます。
「髪が重くなってまいりましたので、思い切って最近流行りの髪型にしようとしたら失敗してしまったのですが、たまたま優さまが居合わせてしまいまして。驚かせてしまって申し訳ありません」
「みやさん……? 本当なの……?」
「はい」
月子さまはなおも言いたげにしていらっしゃいました。しかし、私の方は一刻も早くその場を立ち去ってしまいたかったのです。情けない話ですが、自分自身でしてしまったことに恐れおののいていたために、何を言われたところで冷静でいられる自信がないのでした。
「失礼いたします」
クルリと背を向け、その場を立ち去ることしか出来なかったのです。