表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

乱刃羽燐の日常

乱刃羽燐の迷察

作者: 倉舞真夏


 それは、じめじめとした梅雨も終わりを迎え、気の早い夏の日差しがジリジリと肌を灼きつける七月初めのある日曜日のことだった。


「ただいまー」


 午後一時四十分。

 立ち並んでいる住宅のうちのひとつ、さほど変わり栄えのしない一軒家の二階建ての玄関ドアを開けるなり、誰とはなしに呼び掛ける。今日はくこ姉の仕事が休みなので、おそらく家にいるハズだ。


「さ、羽燐(うりん)。入った、入った」


 ぼくは連れ立ってやって来たれもん色の髪の親友に、家へ上がるよう促した。


「お言葉に甘えて。お邪魔します」


 言って、履いていたローファーを脱ぎ、綺麗に揃える。

 美少女のイデアとでもいうべき整った顔立ちに色白の肌、特徴的なスカイブルーの瞳。鮮やかなれもん色の髪の毛は瞳と同じく水色のりぼんでポニーテールに束ねている。休日だというのに例によって例の如く裾出しワイシャツに女子制服のスカートを着用し、今日は通学用のスクールバッグの代わりにハードカバーが二冊も入ればいっぱいになってしまいそうなサイズのワンポイントの付いた手提げバッグを持っていた。

 乱れているんだか律儀なんだか、いまいちよくわからない格好だ。


「むぐの家に来るのも久しぶりだからちょっと緊張するかも」

「何をいまさら。勝手知ったる他人の家、自分の部屋だと思ってくつろげば良いよ」

「それは……さすがに」


 羽燐が申し訳なさそうに苦笑う。

 色白の頬をわずかながらに上気させているような気もするが、この暑いのに汗ひとつ掻いていないのは驚嘆に値する。肉付きが薄く線の細い羽燐のことだ、栄養不足で体温調節機能がきちんと働いていないんじゃないか、とついつい余計な心配をしてしまう。

 ちなみに“むぐ”というのは彼女がぼくに付けた仇名である。ぼくの名前、紅月(くづき)(りつ)の「葎」という字が「むぐら」と読めるからだ。


「くこ姉、ただいま」


 通り掛けにリビングに顔を出すと、わが姉――紅月(くこ)はテーブルの上で何やら熱心に工作中だった。ノリとハサミと厚紙を机いっぱいに広げて格闘している。


「あら、葎。おかえりなさい。――と」


 顔を上げたくこ姉の視線がぼくの後ろに留まる。一瞬後、ぱっと表情を明るくした。


「羽燐ちゃん。久しぶりね」

「ご無沙汰してます、お姉さん」


 ぺこんと大きく腰を折り、羽燐が九十度の角度で深々とお辞儀する。何もそこまで畏まらなくても。


「最近はどう、学校楽しい?」

「お陰様で毎日すごく充実しています」

「それは何よりね」

「はい」


 屈託のない笑みを浮かべ答える羽燐に、くこ姉は満足げに口元を綻ばせる。思えば、羽燐がここまで純真無垢に笑顔を向ける相手というのも珍しいかもしれない。

良くも悪くも大人びている。――それが乱刃(みだれば)羽燐という少女なのだ。


「羽燐、お茶を淹れてくから先上がっててよ。ぼくの部屋、わかるでしょ?」

「階段昇っていちばん手前、だよね」

「そ」


 段上を見上げ、羽燐が確認する。いまさら言うまでもないことか。


「一応注意しとくけど、勝手に部屋の中を漁らないように」

「あたしを何だと思ってるの。仮にも探偵部の部長がそんな泥棒みたいなことしないって」

「わかっているならそれで良し」


 羽燐は一年生にして探偵部なる部活動を立ち上げ、その部長を務めている。部員数一名のひとり部活動ではあるのだが、それでも思春期の悩める高校生諸君には意外と需要があるらしく、親友のぼくもときたまその業務を手伝ったりもする。

 事件の記録を文字に起こして小説風の報告書を綴ったり、まぁそんな感じだ。


「せっかく家にまで来てむぐの新たな一面を知るチャンスをふいにするのは、ちょっと勿体ないけどね」


 ふふ、とからかうように付け加える。これだから予め釘を刺したのだ。探偵活動における情報収集とスパイ行為は紙一重である。

 特別マズいものを散らかした覚えはないけれど、本当に大丈夫だろうか。


「それじゃあ、お姉さん。失礼します」

「葎の部屋じゃ休まらないかと思うけど、思う存分ゆっくりしてってね」

「ありがとうございます」


 再度大きく頭を下げて、羽燐は階段の上へと消えていく。


「羽燐ちゃん、良い娘ね」


 後ろ姿を見送りながらくこ姉がぽつりと呟いた。


「当然。何せぼくの自慢の親友だからね」

「親友、ね」


 含みを持たせるように反芻し、くこ姉はハサミを握って自分の作業に戻った。何を言うわけでもないが、確実に何かが込められていた。

 ぼくは頭を切り替えてキッチンに向かい、食器棚に並ぶグラスを適当に見繕って氷を入れると、冷蔵庫からボトルを取り出して麦茶を注ぐ。


「ところで、さっきから何作ってるの?」


 グラスをお盆の上に載せる傍ら、先ほどから気になっていたことを訊ねてみる。美容師の仕事で使うものだろうか。


「ん、これ? ペーパークラフト」


 全然違った。


「ペーパークラフト! 二十七歳の独身女子が貴重な休日にひとり悲しくペーパークラフト!!」


 わが姉ながら涙を禁じ得ない。小学生の夏休みじゃないんだから。


「うるさいわね。余計なお世話よ。いまに完成するから見てなさい、ただのペーパークラフトじゃないんだから。なんとこれ一冊でオーストラリアに生息する主たる有袋類がすべて揃うという――」

「いや、そんなに熱心に売り込まれても全然惹かれないんですけど!」


 クラフト部分を切り離してべろんべろんになった本体冊子を見せつけ、熱弁するくこ姉。

 よく見れば、テーブル上には既に三匹もこさえ、目下四匹目に取り掛かっているところだった。昼食を終えて出掛けたときには影も形もなかったのに、いったいいつの間に。

 生き物好きはほぼ確実に動物カメラマンである父さんの影響だ。それについてはぼくも他人のことを言えないが。

――ていうか、どうしてそんな自慢げな笑みなの!? どこに飾るつもりだよ、それ。


「邪魔してごめん、ぼくはもう去るよ」


 淋しき姉の姿に心の汗(つまるところ涙である)を拭い、麦茶を載せたお盆を携えてぼくはリビングを出た。


「あ、葎の部屋からハサミ借りてるからー」


 階段を昇るぼくの背中に思い出したかのようにくこ姉が声を投げ掛ける。


「はいはい、どうぞ。ご自由に」


 まったく、いつまで経っても子供っぽいんだから。普段からこういう姉を見ているせいか、大人の女性というものにいまいち魅力を感じないぼくだった。




「お待たせ、羽燐」


 階段上がっていちばん手前――。広さにして六畳のカーペット張り、ベランダ付きのその部屋が、ぼくのささやかな城だった。

 自室に入ると、どこから見つけたのか羽燐は座布団の上に足を崩して座っていた。ちゃっかりぼくのぶんまで用意してある。

 これじゃあどちらがホストだかわからない。


「勝手に使っちゃってごめんね」

「そういう気の付くところは女の子だよね。ぼくだったら直に床に座っちゃうよ」


 麦茶の入ったグラスを差し出すと、羽燐はありがと、と小さく笑って受け取った。


「ベッドに腰掛けても良かったんだけど、汚れた身体で勝手に乗るのもアレだから」


 ちら、とぼくのベッドに目を向ける。真っ白に洗濯されたシーツがぴんと整えられ、辺りには塵ひとつ落ちていない。


「汚れた、って。ただ外を歩いてきただけで大袈裟な。汗のひとつも掻いてなかったろうに」

「んーん、やっぱりシャワーを浴びてからじゃないと――」

「本当に何する気!?」


 ギリギリなネタはやめて貰いたい。仮にもひとつの部屋に男女ふたりきりなのだ。青少年の教育上宜しくない。百歩譲って男のぼくから仕掛けるならまだしも、女の子の方からそういう行為に走るのは――いや、そういう問題じゃないし。

 羽燐は親友だ。ハナからそういう対象ではない。


「というか、いきなり暴走しすぎだろ」

「えへへ、むぐの部屋が久々だったものだから、ちょっと浮かれちゃって」


 雪のように白い頬をほうっと染め、羽燐は面目なさそうにはにかんでみせる。

ううむ、男女七歳にして席を同じゅうせず、とはよく言ったものだけど、これでは落ち着いて『本題』もままならない。


「羽燐、頼むから当初の目的を見失わないでくれよ」

「わかってるわかってる。物理の宿題のお手伝いでしょ?」

「よろしくお願いします」


 そうなのだ。

 本日、羽燐を家に招いたのは他でもなくそのためだった。提出はまだ少し先ではあるが、期末テストを前にこんなに大量の課題を出されては、試験勉強もままならない。成績優秀な羽燐が手伝ってくれれば百人力である。

 なんでも早め早めに終わらせておこうという、勤勉学生の殊勝な心掛けなのだ。まあこの際、ピンチヒッターを頼んだことについては目を瞑るとして。


「さて、むぐ。愉しいお喋り時間のためにも苦行は先に終わらせないとね」


 羽燐が手提げの中から麻地のペンケースを用意する。実務的なシンプルさが実に彼女らしい。

 ぼくも折り畳み式の白テーブルを引っ張ってきて、負けじと教科書と問題集をその上に広げた。負けじ、も何も協力して貰う時点で既に負けているのだが。

 じーっ。

 早速、席について取り掛かろうとしたところで、妙な気配に勘付いた。


「ん? どうしたの、むぐ」


 正面に座る羽燐が不思議そうに小首を傾げ、れもん色のポニーテールを揺らす。


「視線を感じる」

「あたし、そんなに熱心にむぐのこと見てた?」

「ううん、羽燐じゃない」


 ましてやくこ姉のそれでもない。感じ取った気配は部屋の外、もっといえば窓ガラスの向こう――家の外からのものだった。

 ぼくはすくと立ち上がり、窓の外を覗く。ベランダには何もない。サボテンの植木鉢とベランダ用のサンダルが置いてあるだけだ。

 問題の視線はそのさらに先、隣の家のベランダの奥から注がれていた。

 窓の鍵を開け、サンダルも履かずに外に出る。羽燐も黙ってその様子を見守っている。

 手すりから身を乗り出し相手に見えるよう大きく腕を振ると、五秒と経たずに彼女は姿を現した。 


「るうつ、こっちを覗いてるのはバレバレだよ」


 一メートルと離れずわが家のベランダと隣接している隣家の住人に、欄干越しに呼び掛けた。


「なんだ、気付かれちゃったか」


 対岸に姿を見せたのは、ぼくと同年代の女の子だった。

 こげ茶っぽいショートの前髪をヘアピンで留め、シャツにデニムのショートパンツを履いた彼女は、バツが悪そうに頭を掻く。

 羽燐のように目を見張るほど端正なわけではないけれど、ナチュラルに愛らしい顔つきは充分に魅力的だ。

 瀬更沂(せさらぎ)るうつ。隣の家に住むぼくの幼馴染みである。


「葎が綺麗な女の子を連れ込んでイチャイチャしてるもんだから、ちょっと気になっちゃって」


 あははは、と申し訳なさを微塵も感じさせない物言いをする。


「それが覗きの正当な理由になるとでも?」

「そこはほら、お互い様的な」

「ぼくがいつるうつの部屋を覗いたよ!?」


 冗句は冗句でもあまり笑えない冗談だ。それこそ変質者の一歩手前じゃん。心象が悪すぎる。


「むぐ、そちらは――」


 ぼくの左肩にちょこんと両手を載せ、背後から窺うよう羽燐が覗き込む。


「むぐ?」

「ああ、ぼくのこと。愛称みたいなもんだから気にしないで」

「ふうん」


 るうつが人差し指を下唇に当てて納得する。それから改めて、羽燐の方へと向き直った。


「はじめまして、瀬更沂るうつです。葎とは小さい頃からご近所さんやってます」

「あたしは乱刃羽燐。むぐとは同じ学校で、仲良くさせて貰ってます」


 青い瞳を細めて応じる羽燐。同年代の女の子同士の挨拶としては他人行儀すぎる気もするが、幼い頃からひとりでいることが多く“友人馴れ”していない羽燐にとっては、これが普通の距離感なのだ。

 誰とでも分け隔てなく接する反面、どんな相手とも一定以上に深い付き合いを持とうとしない。最近は思うところあるようで除々に変わりつつあるみたいだけれど、それでも一度染み付いた性質はそう簡単には抜け落ちない。

 親友としてぼくができることは、そんな彼女を見守ってやることくらいだ。


「えっと、羽燐さんて確か探偵の?」

「あたしも。瀬更沂さんのことはむぐから聞いています」

「へえ、葎が。私のことを」


 意外、というふうにるうつがぼくを見る。こういうとき、ここぞとばかりにからかったりしてこないのが彼女の美徳である。


「それはそれとして」


 るうつが履いていたサンダルを唐突に脱いで手に持つと、剥き出しの右足をぐっと欄干に掛ける。ショートパンツ姿なので伸縮する太股につい目を奪われてしまう。

――と、そのまま勢いをつけてこちら側のベランダへと跳び移ってきた。

 大して距離がないとはいえ無茶すぎる。


「住居不法侵入反対――って、無視か!」


 真っ当な抗議をぶつけるぼくの横をするりとすり抜け、るうつはその後ろに立っていた羽燐の手を握る。


「肌、真っ白! キメ細かい! 身体ほっそーい!!」

「あ、ありがとう」


 キスでもしそうな近さまで身を寄せてまじまじと観察するるうつに、さすがの羽燐も困惑していた。他人とある程度の距離を保って生きている羽燐だからこそ、こうした一気に懐に飛び込むような真似をしてくる相手には弱いのだ。

 これは案外、良い出逢いだったかもしれない。


「へえ、変わった髪色。地毛、だよね」

「うん。生まれつき」

「キレー! さらさらだー。このりぼんも凄く似合ってる」


 不躾にも他人様の髪を撫で、梳き、ポニーテールを触りながら感想を述べる。羽燐はというと完全にるうつのペースに呑まれ、きょとんとしたまま突っ立っていた。ほんのりと頬に赤みが差している。

 見兼ねてぼくは、るうつを羽燐から引っぺがす。


「ストップ、そこまで。うちの親友をあまり困らせないでくれる?」

「まったく葎は過保護なんだから」

「色々あるの、こっちには」


 不満げな顔をするるうつを強引に言いくるめる。

 生まれもってのれもん色の髪は、羽燐にとって自慢であると同時にコンプレックスでもあった。人とは違う髪の色、瞳の色は否が応にも周囲の目を引き、ときに疎まれることさえあった。

 羽燐が一年生にして探偵部なる部活動を立ち上げたのにも、「自分の存在が誰かに必要とされるものでありたい」という切なる願いが少なからず込められている。

 だから、羽燐の髪色についてはるうつが思っている以上にデリケートな問題なのだ。


「ううん。褒めてくれて嬉しかった。全然迷惑なんかじゃないよ」

「……羽燐さん」


 羽燐がにこりと微笑み、るうつの左手を自分の両手で優しく包み込む。

 こういうところを見ると、るうつの言うとおりぼくは親友を心配するあまり、少し過保護になりすぎているのではないかと思う。

 互いのためにも、もっと放任主義でないとならないのかもしれない。


「感動したっ」


 どこぞの元首相のようなことを言う。


「さ、羽燐さん。あっちで私とお話しよ。ちょうどお茶も用意してあるし」


 確かに、おあつらえ向きにさっきまでぼくたちがノートを広げていたテーブル上には水滴を浮かべた麦茶のグラスがふたつ置かれているけれど――。


「いや、あれはぼくのだし!」

「大丈夫、私はいまさら間接キスとか気にしないから」

「そういう問題!? ていうか、人の家に勝手に入るなよ!」

「じゃあ、羽燐さんを私の部屋に連れてっても良い?」

「それはダメ」


 宿題やらなきゃいけないし。


「なら、決まり。どうせ見られて困るようなものが置いてるわけでもなし。女の子の友だちが多いわりに葎って枯れてるもんねぇ」

「大きなお世話だ」

「男ならつべこべ言わずにドンと構えなきゃ」


羽燐の細い手を引き、部屋の中へと誘うるうつ。

 うう、なんか勢いで押し切られてしまった。昔のるうつはもっと愛嬌があって、こんなに横暴じゃなかったと思うんだけどな……。 

 羽燐は戸惑い混じりにぼくを見るが、その表情はなんだかんだで楽しそうだった。

 まあ、羽燐がそれで良いなら、特に異を唱えるつもりはないけどさ。麦茶のグラスくらいもうひとつやふたつ用意してやるさ。

 溜め息をひとつ吐き、女子ふたりに続いて窓の桟を跨いで室内へ戻る。

 そこで、ぼくは異常に気付いたのだった。


「葎」

「むぐ」


 先に部屋へと戻ったるうつと羽燐が未だ指先を繋いだまま呆然と立ち尽くし、こちらを振り向いたかと思うと、神妙な面持ちでぼくの名前を呼ぶ。

……な、何? そんな真顔で言われても困るんですけど。


「あったかもしれない」


 足下に昏い瞳を落とし、ぽつりとるうつが呟いた。

ぼくもその視線の先に目を向ける。そんな――いったいこれは、どういうことだというのだろう。

 カーペット地の床の上。それはちょうど、ベッドの下からはみ出すようにそのパッケージを覗かせていた。


「羽燐、よく状況が理解できないんだけど、いったい何を見つけたのかぼくに教えて貰えるかな」


 問い掛けると、羽燐はあからさまにぼくの視線を避けた。無言の時間が過ぎる。


「葎、これは女の子を家に呼ぶときにいちばんやっちゃいけないパターンだよ……」


 お姫様を守るナイトが如く羽燐の肩を抱き、るうつが茫然自失気味な視線をこちらへ寄越す。


「まさか本当にあるとは思ってなかったよ」


 るうつは失望の念と同じくらいの驚きを込めた調子で、死刑宣告にも等しいひと言を発したのだった。


「――見られて(、、、、)困るようなもの(、、、、、、、)、が」




 かち、かち、かち――。

 静寂の中で唯一、目覚まし時計の秒針だけが無慈悲に時を刻んでいる。

 夏の暑さ以上に淀んだ重苦しい空気が滞留する中、部屋にいる人間は誰ひとり口を開こうとせず、ただ黙って時が過ぎるのを待ち続けているかのようだった。


「これはどういうことなのか、しっかり説明して頂きましょうか」


 問題の物証を人差し指でとんとん叩き、正面に構えるくこ姉がぼくに言う。

 ぼくが宿題に勤しんでいた(より正確には勤しむ予定だった)白テーブルは遥か片隅に追いやられ、羽燐、るうつ、くこ姉、そしてぼくの四人――部屋の中にいる全員が全員、座布団の上に正座している様は、一種異様な空気を醸していた。


「どうもこうも、知らないんだから説明のしようがないじゃないか」

「あくまでシラを切るつもりなのね」


 そういうわけではないのだが、いまのこの状況では何を言っても無駄だった。汚らわしいのはぼくであり、彼女たち女性陣は大正義なのだ。

 ぼくは逃れようのない事実として突き付けられている件の証拠物件へと視線を落とす。

トールケースのパッケージには、ぴちぴちの白ブラウスとタイトスカートの中にはちきれんばかりに熟した肉体を押し込めて、艶然とした微笑を浮かべている女性がふたり。ひとりは黒縁の眼鏡を掛け、もう片方は口元にあるホクロが蠱惑的だった。共に年齢にして二十代後半から三十手前くらいだろうか。

 これすなわち。


「『恋愛シリーズ PART.1 女教師 (レン)(アイ) 放課後の奴隷授業』」


 ジャケットに書かれたタイトルをるうつが抑揚なく読み上げる。

 つまりこれは。認めたくはないけれど、ある意味では思春期男子の部屋にこれ以上なくそぐいもそぐった、いかがわしい類のDVDソフトであった。

 ぼくのベッドの下から顔を覗かせていたそれ(、、)をるうつが発見したのがおよそ二十分前。

そこからるうつが悲鳴混じりに階下にいたくこ姉に報告し、てんやわんやとした結果がこの状況である。

 家族会議。公開処刑。魔女裁判。そして何より辱め。目下、いまこの瞬間この家にいるすべての人間によって断罪の儀式が行われている最中であった。


「こういうものに興味を持つな、とは言わないわよ。けど、女の子に見つかるようなところに放置するのはちょっとマナー知らずなんじゃない?」


 くこ姉がいつになく真剣な顔で言う。普段があんなだけに、余計に堪えるものがある。


「お父さんたちがいない間はわたしが葎の教育に責任を持たなきゃなんだから、見つけてしまった以上はしっかりと指導させて貰うわ」


 動物カメラマンの父さんは海外を飛び回ることが多く、滅多に帰ってこない。最近では育児の手もある程度離れたこともあり、母さんも行動を供にしている。

 そんなわけでわが紅月家は現在、ぼくとくこ姉のふたり暮らしなのだ――って、こんなどうでも良い設定を開示しているシチュエーションじゃなかった。


「でも、むぐも男の子なんだね。ちょっと安心した」

「羽燐さん、マイペースだね……」


 掌を合わせてにっこりとする羽燐に、るうつが呆れ半分苦笑する。

 不徳なブツの発見は確かに物議を醸したが、受け取り方の深刻度合いが人それぞれだったのは、ぼくにとっても幸いといえるだろう。

――しかし。しかし、である。

 ぼくは内心、首を傾げざるを得なかった。この事態は根本からして不可解なのだ。どう考えてもこんなことが起こるハズはなかった。

 それは別にぼくの隠し方が甘かったとか、くこ姉の言うようにあくまでシラを切り通して責任逃れを図ろうとしているだとか、そんな次元で語っているわけではない。


「羽燐、るうつ、くこ姉。信じてくれ、ぼくは本当に知らないんだ!」


 本当にこんなもの、冗談抜きでいままで見たことも(、、、、、、、、、)聞いたこともない(、、、、、、、、)。いま目の前にあるこのDVDは、明らかにぼくの持ち物ではなかった。

 それが何故かぼくのベッドの下から現れ、こうして部屋の主を窮状へと追い込んでいる。まったくもって意味がわからない。理解不能な状況だ。


「知らないわけないでしょう、それじゃあこれは何だって言うのよ。どうしてあんたの部屋から出てきたの?」

「それはぼくの方こそ訊きたいよ!」

「往生際が悪いわね。さっさと認めて楽になりなさい」


 くこ姉がぼくの両頬をぐにぃと引っ張った。たてたてよこよこまるかいてちょん。

 完全にぼくがクロだと決めて掛かっている。世の中の冤罪はこうやって作られていくのか。ぼくは現代社会の抱える闇について思いを巡らせた。

 日常の謎と見せ掛けてまさかの社会派ミステリだったとは。


「ああもう、いったいどうしたら信じて貰えるのさ!?」

「うわ、逆ギレた」


 るうつが余計なコメントを差し挟む。


「くだらないことを言ってる暇があったら、幼馴染みの窮状をなんとかしてよ!」

「私、逆ギレしながら助けを求める人、初めて見た」


 呆気にとられて開けた口を左手で隠しながら言う。

 悪気はないんだろうけど、るうつにはこういうズレたところがある。

 くこ姉は聞く耳を持たず、るうつはアテにならない。となれば頼みの綱は羽燐しかいない。羽燐ならばきっと、ぼくの無罪を証明してくれるハズだ。


「往生際が悪いわよ、葎」

「羽燐ー」


 冷徹に言い放つ姉の追求を無視し、ここまで大人しく成り行きを見守っていた親友に訴える。羽燐はスカイブルーの瞳をいつもよりも色濃くして、こくんとひとつ頷いた。


「むぐの主張が本当か否か。それじゃあ、最初から検証してみようか」

 ギリシャ彫刻のように美しい人差し指をすらりと立てて、羽燐は一同を見回した。




「さて、まずはこのDVD――」

「『女教師 恋&愛 放課後の奴隷授業』」


 羽燐の台詞に応じてるうつが再度、そのタイトルを暗唱する。


「読み上げなくていいから」


 突っ込みを入れるぼくにくこ姉から鋭い眼光が放たれる。完全に疑われている。


「もう一度確認するけど、このDVDはむぐのものじゃないんだよね?」

「うん。そこは信用してくれて構わない」

「容疑者のくせに態度が大きいわね」


 発言の度にちくちく刺してくるの、止して頂けます?


「ここでこのDVDの出どころを考えてみると、大きくふたつに分けられます。すなわち――」

「葎の所持品か、そうでないか、だよね?」


 るうつが羽燐の言葉を継ぐ。


「瀬更沂さんの言うとおり」

「ありがとう」

「仮にこのDVDがもともとむぐの持ち物だった場合、元からこの部屋にあったことになる。反対に、そうでなかった場合――つまり、所有者がむぐ以外の誰かだったパターンだね――は問題の物件は外から持ち込まれたことになる」


 それはそうだ。ぼくたちは羽燐の説明に頷いた。ここまでの論理展開におかしな点はない。


「これがむぐの物だとしたら話はそこまでなので、措いといて。あたしたちが考えなくちゃいけないのは、仮に外から持ち込まれたとしたら、どういう状況が想定できるか、ということなの」

「――状況」


 頭の中を整理するかのように、ゆっくりとるうつが繰り返す。


「そういえば葎、昨日は飯島君が遊びに来たとか言ってなかった?」

「それだっ」


 くこ姉の思わぬ援護に思わず手を叩いて指を差す。

 飯島というのはぼくの級友でいわゆる悪友だ。昨日は珍しくやつがうちに来てだらだらと無為な時間を過ごしたのだった。

 言うまでもなく飯島は男である。件のDVDをわが部屋に持ち込んだ可能性は大いにある。むしろ可能性しか感じない。無限の可能性が秘められているといって良い。


「早速、確かめてみよう」


 立ち上がって机の上から自分の携帯電話を取り上げる。親指を動かし、電話帳から飯島の名前を見つけ出す。


「スピーカーにするのを忘れずにね」

「そこまで厳密!?」

「口裏合わせの可能性は排除しないと」


 追求の手をまるで緩めようとはしない姉だった。

 コール音に耳を傾ける。猛吹雪の中、暖をとるためおしくらまんじゅうするペンギンののように、三人が電話口に身を寄せる。羽燐の高校生にしては薄すぎる体躯、るうつのほど良くやわらかでしなやかな身体、くこ姉の年なりに成熟した弾力――それらすべてがぼくの上にしな垂れ掛かってくる。

 女の子に密着されて嬉しいだなんてのは戯れ言で、ただただ単純に重くて暑くて息苦しい。


『はい、飯島』


 数秒の呼び出しの末、聴き馴れた声が応答する。


「あ、ぼく。紅月だけど」

『なんだ、紅月から電話掛けてくるなんて珍しいじゃん』

「それがちょっと火急の事態で」

『また面倒ごと抱え込んでるのか。懲りないねぇ』

「いや、まあそんなところかな」


 話の流れに任せて適当に誤魔化した。

 口が裂けても、青少年に有害な映像ソフトを巡って目下女子たちに糾弾されている最中とは言えない。情けなさすぎる。


『で、用件は?』

「『女教師 恋&愛 放課後の奴隷授業』」


 ぼくはつとめて平静を装って、そのタイトルを口にした。羽燐たちが横で息を殺す。


『――はい? ど、どれぇ? 何言ってんだ、おまえ』

「いや、知らないなら良いんだ。いまのことは忘れてくれ」

『はぁ? 紅月、おまえ大丈夫か?』

「だいじだいじ。ちょっと気の迷いがあっただけだから」

『暑さで頭でもやられたんじゃないか』

「いや、うん。たぶんそうなんだ。それじゃあ、また。ばいばい」

『おい――』


 通話口の向こうから止める声を無視して強制的に会話を終わらせる。後にはツーツーという不通音が聴こえるだけだった。

 ぼくは三人をしっしっと追い払い、再度座布団に直る。彼女たちも四つん這いだったり立ち上がったりと、各自のペースでのろのろと元いた場所へ戻っていった。


「シロだね」

「シロかな」

「シロっぽいわね」


 女子たちは揃ってそう判断したようだった。

 件の題名を告げたとき、飯島は半ば気の抜けたような反応だった。電話越しの感触からして、飯島は例のDVDについて何も知らない可能性が極めて高い。

 まあ、嬉々としてその良さを語られても色々と困るのだが、現状その事実はばくの旗色をより悪くしたに過ぎなかった。


「どうやら飯島君が持ち込んだ説は却下みたいだね」

「本当に残念ね」


 羽燐が残念そうに首を振る。くこ姉に至っては殆ど嫌味も同然な台詞だった。


「待て待て、それだけでぼくを犯人と決めつけるのは尚早だろ」

「うん。この際だから徹底的に精査しないとね」

「さっすが羽燐! 愛してる!」

「調子が良いんだから」


 ぼくの軽口に羽燐は嘆息する。


「むぐ、昨日飯島君が帰ったのは何時頃だった?」

「だいたい六時くらいじゃなかったかな」

「お姉さんが帰宅したのは?」

「昨日は八時すぎだったと思う。ねえ、くこ姉」

「そうね。確かそんなところだったわ」


 くこ姉がぼくの証言に同意する。


「じゃあ、その間に外に出たり来客があったりはした?」

「ううん。飯島を見送って、それからちょっとゆっくりしてから夕飯を作って――誰も来てはいないし、出掛けてもいないよ」


 わが紅月は現在ふたり暮らしなので、夕飯の支度は交替制なのだ。これでもぼくはひととおりの調理はできる。


「ではお姉さんに訊きます。昨日、帰宅してから今日のいままで、どこかに外出しましたか?」

「してないわ。ずっと家にいた」

「来客は?」

「午前に宅配便が来たくらいだけど家には上げてない――って、もしやあの荷物の中にDVDが!?」

「いや、お中元のそうめんでお昼に食べたじゃん」

「あ、そうだった」


 素で驚いているから始末に負えない。ぼくを悪者に仕立て上げる前に、しっかり考えて発言しようよ……。

 羽燐は目を閉じ、うんうんと黙考する。


「むぐの家はご両親が外国住まいなので帰ってきてはいない。これを要するに――昨日、飯島君が帰って以降、紅月宅は常に誰かの監視の目がある一種の密室状況にあったというわけだね」

「み、密室――」


 大仰な響きにるうつが瞳を大きくする。日常生活ではまず聞かない言葉だ、ムリもない。

 というか、短編小説には盛りすぎかと思った両親設定はここで活きてくるのね。


「でも密室って言ったって、誰もが出入りできないわけじゃないだろ。そりゃあ、玄関を通る正攻法なルートは難しいにしても、さっきるうつがやったみたいにベランダからぼくの部屋に侵入することだってできる」

「わ、私を疑ってるの? あんなビデオ持ってるわけないよ!」


 るうつが顔を赤くして狼狽する。そりゃあね、女子高生があんなDVDを隠し持っているのがバレたら、男子のそれよりよほど恥ずかしい。ぼくなら羞恥心で死ねる。


「羽燐さぁん」


 涙声で羽燐にすがりつくるうつ。そんな新しい友人の頭を、羽燐は優しく撫でてやる。


「安心して、瀬更沂さん。瀬更沂さんは犯人じゃないから」

「どういうこと、羽燐?」

「むぐは出掛けるとき、きちんと戸締まりしてたでしょ。よく思い出して。あたしたちが物理の宿題に取り掛かろうとしたとき、むぐは視線を感じてベランダに出た。そのとき、確かに窓の鍵を開けたハズだよ」

「そういえば、そうだった……」

「内側から掛かった窓の鍵を外側から開ける――。それこそミステリ小説に出てくる針と糸のトリックでも使えば決して不可能でもないかもしれないけど、そのためには予めむぐの部屋に入って準備する必要がある。そして、密室状態にあった紅月家に入り込んでまで入念な侵入工作――或いは脱出した後に鍵を下ろす工作でも良いけれど――を施すなんて、どう考えても本末転倒だよ。もっと直接的に、ガラスを割って鍵を開けたような形跡も勿論なかったしね」

「でも羽燐、何もそんな面倒掛けなくても、ついさっきベランダからぼくの部屋へ入った瞬間に、気付かれないようにブツを滑り込ませれば良いんじゃないか? いわゆる早業殺人の要領で」


 密室と思わせておいて、実は扉を開けた瞬間に第一発見者が殺害に及んでいたというパターンは、ミステリ小説においてそう珍しいものでもない。


「それも無理。だって、るうつさんとあたしはずっと手を繋いでる状態にあったんだから」

「あ」

 言われてみればそうだった。るうつが羽燐の手をとって、そのまま手を引いてぼくの部屋へと導いたのだ。そしてDVDを見つけた瞬間、確かにふたりは手を繋いだままだった。


「ということはつまり――?」

「瀬更沂さんに犯行は不可能」


 なるほど。反論の余地はない。

 しかし、ぼく以上に感心しているのはるうつとくこ姉だった。


「羽燐さん、すごい」

「探偵部ってネコ探しが専門なわけじゃないのね」


 あはは、と羽燐は照れ隠しに笑ってみせる。

 いや、くこ姉。何が悲しくてわざわざ部活動を立ち上げてまでネコ探しをしなくちゃならならないのさ。その気持ちはわからなくもないけども!


「さて。次はお姉さんに質問です」

「何かしら、羽燐ちゃん」


 言われてくこ姉が居住まいを正す。先ほどの推理を聴いて少なからず心持ちが変わったらしい。


「先ほど下のテーブルで作っていた有袋類のペーパークラフト、何体目まで出来てますか?」

「完成品が三体、いま作っているのが四体目よ。羽燐ちゃん、有袋類ってわかるの?」

「はい。ハリモグラとか可愛いですよね」

「そうそう! ハリモグラはカモノハシと並んで子供を卵で産む珍しい哺乳類で――」

「ハリモグラトークは良いから、先に進んでくれる?」

「何よ、容疑者のくせに」


 気持ち良く語っているところに水を差され、気分を害したらしい。辛辣な言葉を浴びせられた。仮にも可愛い弟にこの仕打ちとは。


「ごめんね、むぐ。話を戻そうか。お姉さん、あのペーパークラフト、一体あたりの所要時間はどのくらいでしょうか? たぶん本の方に書いてあると思うのですが――」

「ちょっと待っててね、持ってくる」


 言うが早いか席を立って部屋を出る。しばらくすると切り取られた冊子を携え、くこ姉が戻ってきた。

 座布団の上に座し、該当するページをめくってゆく。


「カンガルー40分、ウォンバット25分、タスマニアデビル35分、いま作ってるカモノハシは――」


 子供向けのものと異なり、かなり細部に拘った本格派のペーパークラフトだけあって、思った以上に時間が掛かる。それだけに完成品はとても紙を切り貼りしただけとは信じ難い、クオリティの高いものに仕上がるのだ。


「これを作り始めたのは、むぐがあたしを迎えに出た後ですよね?」

「そうね。葎が出ていったのは十二時半で、そこから葎の部屋でハサミを借りて黙々と」

「合計所要時間一時間四十分か。ぼくたちが家に着いたのが一時四十分だったことを考えるとかなりのハイペースみたいだけど」


 あくまで目安とはいえ三十分以上縮めた計算だ。


「そこはほら、ハサミを扱うのは本業だもの」

「ですね」


 右手でチョキを作って小さく動かすくこ姉に羽燐が同意する。

 さすがは美容師。そのくらいはお手のものというわけか。


「要するに羽燐さん、お姉ちゃんにパッケージを仕込む時間的余裕はあまりなかったってこと?」

「そういうこと。リビングを通り掛かったときに随分と凝ったクラフトを作ってたから、もしやと思って確かめさせて貰ったんだけど、やっぱりそうだったみたい」

「へぇあ」


 にこりと羽燐が引き結ぶ。思わずるうつが変な声を出す。一応、感心しているらしい。

 そんなところから目を付けていたのか。凄まじい観察眼と洞察力だ。

 けれど、だからといってくこ姉にまったく時間がなかったかというとそうでもないのだ。


「でもさ羽燐、ぼくの部屋に行って帰るくらいのこと、そうは時間を取らないでしょ。ましてやくこ姉はハサミを借りるために一度この部屋に入ってるわけだし、そのタイミングでビデオを置いていった可能性だって否めないわけじゃん。羽燐の言ってることは、ただの推測で確率を高めているにすぎないんじゃないの?」

「この段階ではそうかもね」

「この段階?」


 これ以上があるとでも言うのだろうか。


「ところでお姉さんがむぐの部屋からハサミを持っていったとき、ベッドの下からそのDVDは覗いてましたか?」


 羽燐が再度、質問する。くこ姉は左の親指の腹と人差し指で皺の寄った眉間を押さえ、思い出そうと努力する。


「いえ、なかった。言われてみればなかったわ。一度ハサミを床の上に落として、屈んで拾おうとしたからよく覚えてる」

「そういう重要な情報を秘匿するのやめてくれる?」

「いまのいままで忘れてたのよ」

「ありがとうございます。これでむぐが出掛けたときはまだ、件のDVDがベッド下になかったことがわかりました」


 まるで最初から知っていたかのように、淡々と言葉を紡ぐ。

――って、ちょっと待った。


「それじゃあ、さっきの飯島への電話は完全に意味なしitじゃん。何せ、昨日の時点ではぼくの部屋にそれはなかったのだから」

「それは違うよ、むぐ。いまの確認はあくまで床の上にあったかどうかで、その持ち主が誰であるかとは無関係だもん」


 ううん? 何かどんどん悪い方向に外堀が埋められていく気がするのだけど。勘繰りすぎだろうか。


「でも羽燐さん、いまのお姉ちゃんの発言だけじゃ本当に本当のことを言ってるかどうかはわからないんじゃないかな。極論、お姉ちゃんが嘘を吐いてる可能性もあるわけだし」

「るうちゃんはわたしのこと疑ってるの?」

「全然っ、そういうんじゃなくて――」


 あせあせと弁解するるうつ。とはいえ、くこ姉も心底そう感じて訊ねたわけではない。ただ思ったことを口にしただけだ。

 このふたりは下手をするとぼくとくこ姉以上に仲の良い、姉妹も同然の関係なのだ。


「厳密性の問題だよね」


 発言の意図を汲み取り羽燐が言う。るうつはこくりと首肯した。


「そこで補強材料」


 羽燐は人差し指をぴんと立てる。


「あたしが部屋に入ったときもベッド下にDVDは転がってなかった。勿論、むぐも承知してるよね」

「え?」

「ほら、むぐとシャワーの話をしたとき、ベッドの方を見たけど何の異状も見られなかったでしょ」

「そういや、そうだった」


 納得するぼくだったが、るうつとくこ姉は別の意味でこちらを畏れるように眺めている。


「しゃ、しゃわーの話!?」

「確かにベッドって言ったわよね?」


 うわ、これ完全に誤解を招くパターンだ。いや、文脈的にはさほど間違いではないんだけど、あれはあくまでも羽燐流の冗談だったわけで。

 とりあえず、こほんと大きく咳払いしておいた。話を続けろ、という羽燐への暗号だ。


「お姉さんにDVDを持ち込む機会がなかったことはないにしろ、あたちしたちがむぐの部屋にやってきた時点ではまだそれはなかったし、その後は知ってのとおり、騒動が起きるまでお姉さんの出入りはない。つまり、お姉さんも犯人ではあり得ない」

「あれ、羽燐さんと葎が部屋に入った段階であの位置にDVDが置かれてなかったってことは――」


 その言葉に羽燐はうん、と頷いた。

 この流れは宜しくない。だって、羽燐の言説に従うなら――。


「考えられるシナリオはこうだね。むぐはあたしを部屋に招いた後で、いかがわしいビデオソフトを放置していたことを思い出す。幸いにして、あたしはまだその事実に気付いていないらしい。だったらあたしの目を盗んで隠すしかない。そうはいっても引き出しを開けるような真似は目立ちすぎる。となると対応策として真っ先に浮かぶのは――」

「羽燐さんの目を盗んで、ベッドの下にでも隠してしまえば良い」


 るうつが決定的ともいえる結論を口にした。羽燐は黙って首を縦に振る。


「やっぱり葎、あんただったのね」


 三人揃って、しらっとした目つきでぼくを見つめる。まるで、往生際悪くもこざかしい言い逃れを試みた挙句、まんまとそれを看過されてしまった憐れな少年を軽蔑するかのようだ。


「むぐ、こういう結論が出ちゃった以上、残念だけど認めざるを得ないんじゃないかな」

「そうよ、とっとと本当のことを白状なさい」


 くこ姉の右腕が手早くぼくの首に回され、後ろからがっちりと極められる。必死にタップして何とか難を逃れることができた。 

 これじゃあ、ぼくの罪は重くなるばかりだ。こんなハズはない。だってぼくは本当にやっていないのに。

 世のミステリ小説の中には信頼できない語り手というテーマがあるけれど、ぼくの語りはそれじゃない。語り部の名誉に懸けて、地の文に嘘は書いていない。

 だとすれば間違っているのは羽燐の方だが――彼女が間違えるなんて、そんなことがあるのだろうか。

 兎にも角にも絶対的ピンチであることだけは確かだった。

――と。

 るうつが何やら神妙な面持ちで考えて込んでいた。


「本当にそうなのかな」


 そのひと言に周囲の時間がぴたりと止まる。それほどまでに予期せぬひと言だった。

 それはつまり、尤もらしく思えた羽燐の推理を真っ向から否定するものであり、ぼくに掛けられた嫌疑を晴らしてくれるかもしれない救いの手でもあった。

 しかしそれ以上に、るうつがぼくのことをそこまで信じていてくれることに素直に感激していた。


「るうちゃん、どういうこと?」


 くこ姉が訊ねる。

 だって、とるうつはそこで言葉を切る。短い静寂の中、ぼくらは固唾を呑んで続きを待つ。


「葎、年上の女の人に(、、、、、、、)興味ない(、、、、)じゃん(、、、)




「は、い?」


 思わず間の抜けた声で訊き返してしまった。

 さぞやスマートな論理で切り返してくれるものと信じていたので、よもやそんな台詞が待っているとは思いもしなかった。

 まさかこの期に及んで異性の趣味を暴露されるとは。これはこれで相当な辱めだった。


「そなの?」


 ぱちくりと瞼を瞬かせ、くこ姉がぼくに問う。


「ま、まあ」

「へえ、知らなかった。前々からロリコンの気はあるとは思ってたけど――」

「人聞きの悪いこと言わないでくれる!?」


 近頃は色々と厳しいのだ。

 それはそれとして、である。そりゃあ確かに、昔のるうつの方が可愛げがあったとは述べたけど、ロリコン呼ばわりは行きすぎだ。誇張表現にもほどがある。


「横暴でわがままな実姉にさんざん振り回されてきたせいで、大人の女の人に興味が持てなくなったんだって」

「なんですって!」

「そこまで非道いこと言ってないし!」


 怒髪天を突いたくこ姉へすかさずフォローを入れる。なんてことを言い出すんだ、この幼馴染みは。

 羽燐のようにぼくをからかっているふうでもなく、ごくごく普通になんとなく喋っているのが余計に手に負えない。

 だが、しかし――一理ある。というか、ずばりそのとおりだった。


「良い? 葎は年上の女性に興味がない。なのに出てきたビデオは女教師もの――これっておかしくない? 女教師ものなんて年上女性崇拝主義の権化みたいなものじゃん。葎の好みのタイプから最も外れた位置にある作品を、どうして葎が好んで持ってるの?」


 厳密にいえば。いわゆるこの手のソフトの出演者はだいたいにおいて未成年ではないので、高校生のぼくらからすれば確実に年齢が上なのは仕方ないにしろ、それでももし仮に――もし仮に、こういったDVDを隠し持つとするのなら、選択肢として敢えての女教師ものは選ばない。

 るうつの言うように、“女教師”なんて最も記号化された大人の女性像のひとつだからだ。

 羽燐を見やると、自身の推理が覆されたことについてそれほど頓着している様子もなく、静かにるうつの語るに任せていた。


「だから言ったろ、ぼくは無実なんだってば」

「ごめんごめん」


 るうつが面目なさそうに舌を出す。ほんとに反省してるのかなぁ。いまいち疑わしい。


「で、これが葎のものじゃないとすると、結局どういうことになるわけ?」


 頭の上に『?』を浮かべてくこ姉が訊いてきた。それについてはぼくにも考えがあった。

 羽燐とるうつ、ふたりの推理を聞くうちに自然と閃いたことがある。これまで聞くに徹していたが、そろそろ手番を交代しても良い頃かもしれない。


「まず、ここまでの状況をまとめよう。昨夕以降、ぼくたちを除いてこの家を出入りした者はおらず、尚且つ今昼以降はくこ姉がリビングに張っていたため、ぼくの部屋は一種の密室状態にあった。それ以前にDVDが持ち込まれた形跡はない」


 一同を見回すと、皆の頷きが返ってきた。


「また、部屋への侵入手段としてはドアを開けて入る以外にベランダを伝って隣の家――瀬更沂家のるうつの部屋から跳び移る方法もあるが、窓の鍵が掛かっていたのでこれも不可能。るうつが窓から部屋に入った際には羽燐と手を繋いだ状態だったため、早業的に問題のDVDを仕込むこともできなかった。よって、るうつはシロである」


 るうつがほっと胸を撫で下ろす。ぼくはくこ姉に視線を移す。


「片やくこ姉はというと、ぼくの外出後一時間十分の間に所要時間およそ一時間四十分ぶんのペーパークラフトを作り終えており、時間的にさほど余裕があったとは言い難い。加えて、ぼくと羽燐が戻ってから話の流れでベッドに目をやるもそこにはまだ何もなく、次にくこ姉が入室したのは事件発生以降だった。これによりくこ姉がぼくの外出時にブツを残していった可能性は極めて低いと言わざるを得ない。またくこ姉の話では、ぼくと羽燐が部屋に戻ってくる前に一度ハサミを取りにぼくの部屋に入ったが、やはりDVDのパッケージは見掛けていないという」


 ここでぼくは再び、一拍置いた。


「一方、発見されたビデオはいわゆる“女教師もの”であり、これは完全にぼくの好みの範疇外なことから、それがぼく――紅月葎の持ち物であることも疑わしい」


 さて、である。ここからが本番だ。


「羽燐が先ほど披露した件のDVD=ぼくの持ち物説は非常に合理的に思えるが、最後の最後――るうつの疑問によってケチが付いてしまった。これについて何か言いたいことは?」

「ごめん、って謝っておいた方が良い?」

「それには及ばないよ。いまとなっては、ぼくにはすべての見当が付いてるから」

「聞かせてほしいな、むぐの推理を」


 るうつのブルーの瞳が深い色へと変わる。色白の頬とれもん色の髪も相俟って、まるでフランス人形のように美しい。


「簡単なことだよ。羽燐は一見極めて尤もらしい推理を披露したけれど、本当の穴はそこにあったんだ」

「穴?」


 ぼくの説明を楽しそうに聴く羽燐の右で、るうつがはてと小首を傾げる。先ほどまでのやりとりを思い出しているのかもしれない。


「そう、穴だ。羽燐の推理は途中までは完璧だった。でも、そこにはもうひとつ検証すべきだった重大な可能性が省かれてしまっている」

「何よ、それ」

「くこ姉、良い? 容疑者候補は(、、、、、、)他にもいた(、、、、、)んだ。その人物はDVDのパッケージを持ってくるのにちょうどなサイズの手提げを携えてこの家を訪れ、ぼくがるうつの視線に気付いて窓を開け、室内に背を向けた瞬間を狙ってそのDVDをベッドの下に置いた。さも、ぼくが隠し忘れたかのように。ずっと部屋にいたんだから、密室も何もない。最初からぼくの目を盗んで早業殺人の要領で(、、、、、、、、)犯行を済ませるつもりだったんだ」

「葎、それって」

「まさか――」


 状況から見て入室時になかったこの『恋&愛』をあそこに置けたのは、どう考えたってそのタイミングしかないのだ。

 るうつとくこ姉は同時に、左右から隣に座る人物へと視線を向ける。彼女は四つの瞳にちょうど挟まる形となり――薄い唇の端に微笑を浮かべ、ポニーテールを束ねる青いりぼんの先を左の人差し指にくるりと巻き付けた。


「探偵が犯人だったら、そりゃあ推理も間違うよね」

「ただの誤導だよ」


 羽燐は。

 乱刃羽燐はにっこりと目を細め。正解――と、満足そうにそう言った。




「羽燐ちゃんが犯人――」

「羽燐さん、こんなのが趣味だったの!?」


 二者二様の反応を見せるわが姉と幼馴染み。こういうときでもるうつのリアクションはどこかズレている。


「あたしの趣味じゃないよ」


 羽燐は笑いながら首を振る。

 それはそうだろう。羽燐がこんなビデオを好んで見ていたら、どん引きどころの話じゃない。それこそ家族会議ならぬ親友会議が必要だ。


「じゃあ何で――」


 心底不可思議そうに、るうつが新しい友人に対して質問をぶつける。


「むぐが枯れてるから」


 ああ、とふたりから同情と納得が半々の嘆息が洩れる。質問者のるうつと、言うまでもなくくこ姉だった。

 そういえばそんなことをるうつもさっき言っていた。

 周りに常に可愛い女の子がいるのに、まったく靡く素振りを見せない。

 鳴かぬなら、鳴かせてみせよう何とやら。歴史の教科書に載っていたかの有名な一説が頭の中に蘇る。

 いつも誘惑混じりのくだらない冗談でぼくをからかう羽燐が、ちょっと強硬手段に出てみた結果。

――結局、そういうことだったのだ。


「あれ、でもあそこまで色々わかる羽燐さんなら、葎が女教師ものなんかに興味を持たないことくらい承知だったんじゃ? なんだってわざわざ――」


 ふと気付いたようにるうつが訊ねる。


「それはね」


 羽燐はそっとるうつに耳打ちした。るうつのショートにした髪が、羽燐の吐息に吹かれてさらりと揺れた。

 それもぼくにはわかっていた。羽燐は直接的に女の子を意識させるために例のものを用意したり誘惑まがいのくだらない冗談を言ったりしたが、それによってぼくの心が「件のモデル」に絶対に動かされないための保険として、敢えて好みのタイプから遠ざけるチョイスをしたのだ。

 どこで手に入れたんだか、わざわざ女の子が買うのに相応しくないDVDまで用意して何でそんな日和ったことをと思わなくもないが、愛憎入り交じりというか諸刃の剣というか。相反する感情がそこにはあったのだろう。


「愛が重いなぁ」


 理由を聴かされたるうつは羽燐の横顔を眺めて苦笑しつつ、その流れでぼくにも視線を這わせると、ひとりそう呟くのだった。

 この日この後、見事なまでに宿題が片付かなかったことは改めて記すまでもない。


                                         〈fin.〉


企画競作作品なのにシリーズものですみません……。

他の作品を読んだ方はお気づきかもですが、この「乱刃羽燐の日常」はランダム時系列だったりします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  にんまりできるオチに好感が持てました。 [一言]  シリーズでやるなら、別途「登場人物(&設定)紹介」の作成を奨めます。  その方がすっきり読みやすくなると思いますので。
[良い点] 見事にミスリードされて、ポアロなどでよくある、 『一番疑われなかった人物が犯人』がうまくできていたと思います。思春期の人の心に深く入り込む話題であるのも良い点であると思います。ハーレムもの…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ