寝室にて
そっと目を開ける。
夜明け前独特の蒼白い光の向こうに見えるのは、ある男。
たった15センチほどの距離に、世にも麗しい貴人の顔がある。
黄金の髪と透き通るような白い肌、長ったらしい金の睫。今は眠っていて見えないが、その瞳は海深くの新緑を思わせる翠色だと知っている。全く男にしておくにはもったいない顔だ。
だが、顔だけだ。そう、顔だけ。こいつが性格が最悪でドSで外面だけ良くて、さらにとんでもなく粘着質だということを、大声で叫びたい。
そして問い質したい。
何故こいつが、一国の王子をやっているのかと。
目の前の金が、「ん…」とか妙に色っぽい声を出しながら更に距離を詰めてくるので、ぎゃっと慌てて寝転んだ態勢のまま後ずさる。いやーベッドが広くてほんとによかった!
私さ、耐えられないんだよね。上半身裸の男が横にいる状態に!
しかも無許可だよ無許可!ありえない…!!
首をふんぬっと持ち上げて部屋の中央にある「この世界」の時計代わりの水盤を確認する。決行には後少し時間があるらしく、暇な私は今日で見納めになるであろう目の前の人物をまじまじと観察することに専念した。本当に目の保養になる男だ。
王太子なんていう「場所」にいるくせに、妙に馴れ馴れしくて、勝手に私の部屋に入り浸るようになって。いつの間にか寝ている私の隣に勝手に潜り込んで来るサイテーなやつだ。おかげでどれだけ迷惑を被ったことか…。陰口に始まり服を破かれ、階段の上から突き飛ばされ…ああ、毒を盛られたこともあったな。
思わず遠い目になる私。
やめてー私はこんな変人王子とは全く縁のない、一般市民なんですー
―だから、逃げる。ケジメをつけるために。
私はもうすぐ「還る」。これ以上、関わっては駄目だ。この人に。
さあ、この不思議で変な夢から覚める時間だ。
ゆっくりゆっくり、数ミリずつ、本当にイライラしながら私の服の端を掴んでいる男の指を外す。いつ起きるかと心臓がばくばくしているが、幸いなことにその瞼はぴくりとも動かない。
私はどうにかふかふかな巨大ベッドからずり落ちると、そっと隣室に入る。そこは書斎になっていて、品のいい机の上にはちょうど子どもが入れるほどの窓があった。極力音を立てないように最低限の着替えを済ませると、戸棚に隠しておいた斜め掛けの鞄を肩に下げ、窓に手をかける。
ひゅうううと、風のうなり声の向こうに見えるのはこの国の王都。昇りかけの朝日に照らされて光る赤煉瓦造りの家々は、泣きたいほど綺麗だった。そう、そもそも私がこの「世界」に来たのは、この景色に一目ぼれしたからでもあるのだ。それなのに、このバカ王子は……!!
よいしょ、と足も窓枠に乗せ、外を確認する。人気は全くない。幸い、こちらの灯り代わりである松明すらも遠くにぼんやりと見えるだけだ。王太子がいる部屋の周りにしては不用心過ぎるだろうと最初は思ったが、今は好都合だ。
ふと、一瞬だけ後ろを振り返り、壁の向こうでまた寝ているだろうやつに今まで言えなかった言葉を伝える。あくまでささやくように。はい。小市民ですから。
「――じゃあね。バカでドSで根性悪のフレデリック王太子サマ」
あーすっきりした、とそのまま窓枠の下にあるテラスに優雅に飛び降りる――が、これが思ったより高かった。思わずバランスを崩し、尻餅をついてしまう。
「うぎゃっ」
変な声が出てしまい、慌てて口を押える。しゃがみ込み辺りを見回すが、聞こえるのは微かな葉擦れの音だけで、誰にも気づかれた様子はなかった。
「助かった…」
私はそのまま、以前から何度も練った脱走ルートに従って足を進めるべく、暗闇の中目の前の茂みに体ごと突っ込んだ。
そう。数分前まで私がいたベッドの上で、「彼」が凶悪な笑みを見せていることを知らずに。
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「くっ、くくく……」
散々な悪態をついて出て行った女に、笑いが込み上げる。その一方、窓枠から落ちたようだが怪我は無かっただろうか、と心配する自分はもう末期だと思う。
異世界からの留学生を歓迎する式典で、私が初めて興味を持った、髪も瞳も闇の色をした女。そしてその感情は、4か月経った今でも強まるばかりで。
「私が逃がす訳ないだろう、アカネ」
至上の地位にあっても、分かり易すぎる程の好意を示しても、一向に自分に堕ちてくれない異世界の女。そんな存在が面白くて、愛しくて。
「手放すのは今回だけだ。君が誰のものか、今度こそはっきり分からせてあげよう」
すでに失われた隣のぬくもりに手を伸ばし、もう一度目を閉じた。