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ツバメのマークはもう描けない

作者: 岩槻大介

 俺の勤めている会社は社員が13人しかいない。

 小さなオフィスビルのワンフロアで13人が細々と働いている。

 正反対とも言える大きな会社が、白旗を上げて国や政治家たちに助けを乞うている。

 幸せは決して目には見えない。

 幸せ者と、そうじゃない者がいるだけだ。


 俺は幼い頃、ツバメという鳥に妙な親近感を抱いていた。婆ちゃんがこしらえてくれる、広告を裏にして綴じただけの落書き帳に描く絵の中でも、空を飛んでいるのはいつも決まってツバメだった。雀でも鳩でも、ましてウルトラセブンでもなく。

 そう。あの頃俺は、ツバメの姿を明確に描けたのだ。

 勿論それには理由がある。


 俺の親父は小心者の東北人だ。

「マモルくんのパパってすげぇでっかいカイシャでおしごとしてるんだって。かっこいいよなぁ」

「そうか。恰好いいな」

 お袋と喧嘩をすると、親父はいつも俺を道連れにして車で家を飛び出した。

 行く先はたいてい国道沿いのバッティングセンターだ。そして散々バットを振り回し、帰る頃には喧嘩をしていたことさえ忘れたような満足顔になっていた。

「ねぇ、とうちゃんがはたらいているカイシャって、でかいの?」

「あぁ、でかいぞ」

 帰り道、ハンドルを握りながら親父は得意気に顎を持ち上げた。

「マモルくんのパパにまけないくらい?」

「きっと負けない」

「ほんと?」

「ほんとさ」

「どれくらい?」

「どれくらい、って…」

「だから、うーんと、うーんと、でっかいビルとかになってる?」

「ビルなんかじゃ収まりきんないな」

「えーっ、どうゆーこと? もしかしてとうちゃん、ビルからはみだしちゃってんの?」

「違うよ。あ、ほらダイスケ、あすこにガソリンスタンド見えるだろ」

 車はいつしか赤信号の下に停車していた。

 俺は親父の指差した方向を見た。

「うん、見える」

「あれが父ちゃんの会社だ」

「えー、なんだよ、ビルじゃないじゃん。なにもはみだしてないし」

「バーカ。あれが日本にいっぱいあるんだよ」

「いっぱい?」

「そうだ。いっぱいあり過ぎて、ビルなんかじゃ収まりきんない」

「それが全部、とうちゃんの会社なの?」

「そうだよ。ツバメのマークのガソリンスタンドだ。覚えとけ」


 その日から俺は、暇さえあれば広告の裏にツバメのマークを描くようになった。

 おれのとうちゃん、すげぇ。にほんにいっぱいあるツバメのマークのガソンリンスタンドだぜ。すげぇ。すげぇじゃん。

 本物のツバメなど見たこともなかったが、俺は羽根を上下に広げ羽ばたくツバメのマークなら誰よりもカッコよく描く自信があった。


 ツバメのマークの丸善石油は、吸収合併されてコスモ石油に名称変更した時、マークからそのツバメが消えた。そして多過ぎた店舗数を徐々に減らしていった。石油業界は先陣を切って昭和の時代からリストラを開始したのだ。いわばリストラのパイオニアだ。

 本社勤務で最初に首を切られたのは、売上に直接絡んでこない末端の部署だった。

 そして、そのさらに末端にいたのが、俺の親父だった。

 体制に反駁する力も度胸もない小心者の東北人は、そうしてツバメとともに丸善、いやコスモ石油から本当にはみ出してしまった。

 まぁそれは俺が夢中になってツバメのマークを描いていた頃から数十年後の話だが。

 ちなみに親父が解雇された時、俺は上京一年目で、将来というコトバの意味さえ知らない完全無欠のプータローだった。家を飛び出して、バッティングセンターを通リ越して東京のイケブクロという街に辿り着き、そこに住みついてしまった。帰るつもりなど最初からないところが、東北人との大きな違いだ。


 子供の時の話に戻す。

 広告の落書き帳がジャポニカ学習帳に変わった頃だっただろうか。俺はある日、学校の帰りに小川の水面を滑るようなスピードで飛ぶ美しい鳥を見た。

 ツバメだった。

 初めて目の当たりにする、本物のツバメだ。俺は狂喜した。気が付いたらランドセルを放り投げて夢中で川岸を走っていた。その美しい鳥を追って。

 ツバメは時折水面にすすーっと線を引くような、実に楽しそうな飛び方をして、そのまま小さなコンクリート製の橋の下に消えた。俺は橋の手摺に捕まり、土盛りされて辛うじて土が見える水流の端っこに足を乗っけた。土は一瞬にしてぬかるみ、運動靴の底がぐちょぐちょになってゆっくりと沈んでいった。

 あれ、足が、抜けない。ヤバいぞ、動けなくなる。俺は慌てて橋の上に這い上がった。その時、聞いたことのない幾つかの高い声が聞こえた。ヒナだ。ツバメのヒナたちの声だ、この橋の下には、ツバメの巣があるんだ。確信した俺は、何が何でもその巣を見たくなった。目の前には田植えに備えて耕された田圃が、水を受け入れる準備をして遠くまで広がっていた。1回表の守備位置に付いた内野手のようなムズ痒い緊張感が俺を、世界を包んでいた。


 その夜、俺は夢を見た。

 ばあちゃんのうちに、腰までスッポリ入る巨大な長靴がある。田植えの時はそれを穿いてじいちゃんもばあちゃんも田圃に入る。夢の中で俺は、その巨大な長靴を穿いて、小川の中をゆっくり歩いていた。これなら川底の土に足がめり込むこともなく、ズボンやパンツが濡れることもない。俺の夢にしては珍しく、それは画期的なアイデアだった。いや、多少濡れたって構うもんか。俺はザリガニを踏まないように、一歩ずつ前に進んだ。手にはなぜか、虫捕り網を持っていた。

 やがて、あの橋が見えてきた。

 幅の狭い川に架かる見落とされそうなくらい小さな橋だ。その下をくぐるには、小学生の俺でもちょっと屈まなくてはならない。なので、巣にはおそらくこの手で触れることもできる。

 よし、俺はツバメを捕まえる。絶対に捕まえる。巣に親鳥がいたら、まるごと網をかぶせるんだ。いなかったら、網を構えて待ち伏せするんだ。きっと容易いはずだ。なぁに心配することはない。ちょっとだけ観察したらすぐ逃がすよ。俺はもっと本物っぽく描きたいだけなんだ。本物っぽく描けたら、とうちゃんに見せるんだ。とうちゃんはきっと褒めてくれる。だからこの網で捕まえて、観察して、ちょっとだけ触ってみるんだ。網の上から、ちょっとだけ、そのからだを。ツバメのからだ、やわらかいかな。あったかいかな。

 橋の下に入ると、辺りは突然暗くなった。水の流れる音が風呂場で聞く音みたいに響いている。俺は半分闇になっている橋の裏側を見上げた。どこだ。ツバメの巣は、どこだ。

 川底が幾分深くなった。俺の太腿辺りでちゃぷちゃぷと音がする。おそらく水位はその高さまであるのだろう。ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ。

 橋の裏側は黒々としたコンクリートで、指で触るとガサガサと音がした。暗くて何がどこにあるのか分からない。両足がだんだん冷たくなってきた。ヒナの鳴き声も聞こえない。ちくしょう、巣はどこだ。どこにあるんだ。

 ふと俺は違和感に包まれた。おかしい。橋がこんなに長いわけない。耕運機が一台渡れるくらいの幅しかなかったはずだ。なのに、俺は水の中をちゃぷちゃぷと結構歩いた。でも、頭上にはまだまだずっと先まで橋の裏側が続いている。黒く冷たいコンクリートが、台風の時の空みたいに永遠と。ここは、どこだ。俺はどこを歩いているんだ。いつしか日の光は完全に遮断され、あたりは漆黒の闇に包まれている。あ、太腿に一瞬冷たさが走った。やばい、水が長靴の高さを超えたのだ。俺は引き返そうか迷った。とりあえず橋の裏側に手をかけて、暗闇の中でじっと流れに耐えながら考えた。どうしよう。引き返すとなると、流れに逆らって歩くことになる。くそう。ツバメもいない。空も見えない。水も見えない。流れているのが本当に水なのかどうかも分からない。くそう。悔しくて、冷たくて、悲しくて怖くて涙が出そうになった。その時、頭上のコンクリートに捕まっていた俺の手のひらが、ちょっとだけ動いた。いや、違う。動いたのは手のひらじゃない。橋だ。橋の裏側の、コンクリートが動いたのだ。俺は慌てて手を離した。先程よりも水の流れが急になっている。俺は転びそうになり、再び橋の裏に手を付けて踏ん張った。あ、やわらかい。そしてあったかい。羽毛のような心地よい肌触りになっている。俺はびっくりして目を凝らし、頭の上を見上げた。次の瞬間、俺は動けなくなった。橋の裏側だと思っていたコンクリートが、巨大な鳥の羽根になっている。羽根は黒々と光り、まるで世界を飲み込むようにどこまでも広がっている。そして恐る恐る視線をスライドさせると、俺の付いた手のひらのちょっと先に、オレンジ色の嘴が見えた。その向こうに、まん丸い大きな目が二つ、俺を睨んでいた。それは紛れもなく、俺がもっとちっちゃい時に描いていたツバメだった。俺よりも、橋よりも、空よりもでかい一羽のツバメだったのだ。

 俺は目を開けて、枕の上で天井を見た。そして夢だったことを認識してからゆっくりと悲鳴を上げた。

 勿論、敷き布団とパジャマのズボンは泣きたいくらいびちゃびちゃだった。


 ツバメのマークはもう描けない。

 どんな形だったかも覚えていない。完全に忘れてしまった。でも、夢で見たあのでかいツバメの顔だけは、今でもはっきりと覚えている。

 親父のささやかな人生をも、一瞬で飲み込んでしまえるくらいの、でかいツバメ。


 社員が13人しかいない会社は、なかなか人を飲み込めない。

 うちの一人息子・述人は、俺が小さい会社に勤めていることをどう思っているのだろう。

 大企業にいるわけでもなく、スターでも金持ちでもツバメでも鳩でもない俺のことを、どう思っているのだろう。

 なんて、本当はそんなこと知りたいとも思わない。

 つーか、どう思っていようとカンケーない。

 でかい会社で働いているやつが勝者ではないってことくらい、誰だって知っている。

 笑った時間のトータルを出して、それを今まで生きた時間で割る。その数値、つまり「笑った率」が高い人間が、本当の勝者なんだ。

 いくら金持ちでも、いつもブスッとした顔をしているやつは、敗北者だ。

 笑った率が高ければ、いいんだ。小さな会社にいても。どんな仕事をしていても。いや、働いてなんかいなくても。

 判定するとしたら、それが基準になるのかもしれない。

 幸せ者と、そうじゃない者。


 俺の親父はコスモ石油を辞めてから、働いていない。高給取りの俺の弟とその奥さんが、家計を支えている。

 かつて全身の体毛を金髪にしてうたをうたっていた長男が、息子を連れてたまに帰ると、ついに気がふれたんじゃないかと心配になるくらいずっと笑っている。


 よし。俺も笑おう。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読んでいたらおしっこしたくなりました。 最初からずっと幸せなイメージが漂っている小説です。
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