クシャア :約3500文字 :電車
――クシャア。
「えっ」
おれは思わず声を漏らし、咄嗟に小さく咳払いをした。一瞬だけ近くの乗客たちの意識がこちらへ寄ったようだが、それもすぐに電車の揺れと規則正しく響く走行音の中へ霧散していった。
しかし、今のは何だ……?
隣の乗客と肩が軽くぶつかったその瞬間だった。肩のあたりでまるで卵が潰れたような湿った音がしたのだ。
おれは首と上半身を少し捻り、スーツの肩へ目をやった。しかし、特に異常は見当たらない。卵の殻がこびりついているわけでもなければ、染みになっている様子もなかった。
ただの気のせいか……。
「……う」
そう思った直後、おれはまたもや小さく声を漏らした。
今度は腕の外側を何かがつうっとなぞっていったのだ。ぬるくてわずかに粘り気がある不快な感触だった。それは肩口から腕を伝って、肘を過ぎ、手首を越え、やがて手のひらまで達した。
これは……なんだ?
おれはおそるおそる手を顔の近くまで持ち上げた。
手のひらから指の付け根にかけて、黄緑色の液体が細い線を引いていた。肩から腕を伝って、ここまで流れてきたもので間違いないようだが、いったいどういうことだ。ジャケットの肩の内側に鳥の卵でも入っていたというのか。
そんな馬鹿な話があるはずもない。
だがもっと小さいものなら……例えばヤモリの卵ならどうだろう。いや、それでもおかしい。たまにしか着ない服ならヤモリが隠れ家にすることもあるかもしれないが、このスーツはほとんど毎日着ているんだぞ。しかも母親が毎朝ブラシをかけ、皺まで丁寧に伸ばしている。そんな場所に住み着くわけがない。それとも昨夜のうちに、たまたま産みつけられたのだろうか。いや、仮にそうだったとしても、着るときに違和感を覚えそうだが……。
どうにも釈然としない。
おれはとりあえずズボンの腿で手を拭い、小さくため息をついた。ああ、気持ち悪い。肩から腕にかけて濡れたままだ。拭き取るにはジャケットどころかワイシャツまで脱がなければならないだろう。
会社に行く前にトイレに寄るしかないか。まったく、ただでさえ朝は憂鬱だというのに……。
――クシャッ。
少し経ったときだった。まただ、またあの音が鳴った。
電車が大きく揺れ、背後の乗客とぶつかった瞬間、今度は反対側の肩から生々しい破裂音が響いたのだ。
そして……ああ、やはりだ。液体がつうっと垂れ始めた。しかも先ほどより明らかに量が多い。肩から脇へ伝い、背中を細く流れ、腰のあたりまでぬるりと垂れていった。
最悪だ。しかし、左右の肩に卵を産みつけられるとは……。
液体はさらに腕を伝って手首へ達し、そのまま手のひらを越えて指先からぽたりと床へ落ちた。おれは手を下げたまま軽く振った。
たぶん近くの乗客のズボンや靴に飛び散っただろう。だが、知るものか。不幸のおすそ分けだ。そう思うと、少しだけ気分が晴れた。
――クシャ……カシャ……。
まただ。また卵が潰れたような音がした。それも一度ではない。電車が揺れ、背後の乗客に背中を押され、さらに前の乗客に足を踏まれたその瞬間だった。
背中と靴の中で、ほぼ同時に何かが潰れたような感触が走った。
靴下の内側がじわじわと湿っていく。だが、この量はおかしい。これはヤモリの卵なんかじゃないぞ。もっと大きい。だが、そんなものが靴の中に入っていたのなら履いた瞬間に気づいたはずだ。それに今の感触は――もっと内側だった。
靴と靴下の間にあったものが踏みつぶされたわけではない。もっと指に近い。
いや、これは……まさか。
割れたのは、おれの体……?
おれの体が卵のように脆くなった? そんな馬鹿な。だが、明らかに足の指の感覚がおかしい。い、いや、仮にそうだとしても、どうして黄緑色なんだ。血なら赤いはずだろう。そうだ、ありえない。そんなことがあるはずが……。
おれは震えながら吊り革から手を離した。そして片方の手で、もう片方の人差し指の先端をそっと摘んだ。
――クシャッ。
割れた。ほんのわずかに力を込めただけだった。それだけで指先はまるでニキビを潰したように内側から弾け、黄緑色の汁が周囲に飛び散った。
間違いない。さっきから潰れていたのは――おれの体だったのだ。
指先には細かなひびが幾筋も入り、殻のように皮膚片がぱらりと剥がれ落ちていった。だが、その割れ目の奥には肉も骨も見えなかった。ただ黒くぽっかりとした空洞が広がっているだけで、その奥から黄緑色の汁がとろりと滲み出し、指先をぬらぬらと濡らしていった。
おれはひゅっと喉を鳴らし、反射的に手を振った。
「きゃっ」
短い悲鳴が上がった。しまった。どうやら飛び散った液体が近くに立っていた女の足にかかったらしい。そちらへ視線だけ向けると、女は眉をひそめて足元を見下ろし、靴やスカートをしきりに確かめていた。
今の悲鳴に気づいた周囲の乗客たちも、何事かと女のほうへ注意を向けているようだった。
まずい。おれは慌てて顔を正面に戻し、指先をズボンで拭うと何も知らないという顔で吊り革を握り直した。
――クシャ、クシャ、クシャア……。
だが、それで終わるはずもなかった。電車が揺れ、他の乗客とぶつかるたびに、おれの体のどこかで湿った破裂音が小さく響いた。肩、腕、背中、腰、音が鳴るたびにぬめりを帯びた液体が服の内側をぬるりと伝っていった。
幸いなのは、その音に反応する者が誰一人いなかったことだった。電車の走行音に紛れているのか、そもそもおれにしか聞こえていないのか、あるいは聞こえていても気に留めていないのか――いや、今はそんなことを考えている余裕はない。
これ以上誰にも触れないように、おれは吊革を強く握り締めた。だが、その瞬間だった。ぴしり、と。今度は手の甲に細い亀裂が走った。ぴしりぴしり。乾いた音が重なり、裂け目は蜘蛛の巣のように広がった。そしてその隙間から黄緑色の汁がじわりと滲み出し、皮膚の上をゆっくり這い始めた。
おれは慌てて手をポケットに突っ込んだ。
どんどん脆くなっている。だが、なぜだ。なぜ、おれがこんな――あっ。
奥歯をぐっと噛み締めた、そのときだった。
頬がぱきりと割れた。
続いて、その割れ目の奥から押し出されるように、何かが外へ飛び出したような感覚を覚えた。
おれは震える指でそっと頬に触れた。
ぬらりとした汁にまみれていたそれは毛だった。
それも一本ではない。硬く太い毛が束になっている。試しに少し引っ張ると、ぶつりと二本まとめて抜け落ちた。
手のひらに乗せると、それは車内の照明を受けて鈍く艶めいた。
おれは息を呑んだ。
わかった。これは卵なんかじゃない。
繭だ。
おれの体は硬い繭になっているのだ。
昔、好奇心からイラガの繭を割ったことがあった。石で軽く叩くと繭が砕け、中からこんな色の液体があふれ出した。そして、その奥には黒い毛を生やした幼虫が縮こまっていた。
あれと同じだ。
だが、どうしてだ。なぜおれが繭なんだ。しかも毛虫なんかの……。
毛虫……虫……。
まさか、あれか。おれもカフカの小説のように虫に変わるというのか。いや、正確に言えば虫どころか繭になっているのだが……。ということは、おれはすでに――。
途端、これまでの生活が脳裏を流れた。
実家暮らし。どうにか就職はしたものの、ろくに家に金も入れず、向上心もなく毎日をだらだらと過ごし、好きなことといえばSNSで炎上している誰かを見つけて叩くことだけ。
見知らぬ相手を嘲笑い、気持ち悪がり、石を投げつけるような言葉を浴びせていた。
おれは……おれはとっくに虫だったのか……?
はは……ははは……。
喉の奥から込み上げてくる笑いをおれはぐっと押し殺した。
ああ、笑いたいさ。笑わずにいられるか……! なんだっておれがこんな目に遭わなければならないんだ! 天罰か? だったらもっと他にもいるだろう! ろくでもない人間なんてそれこそSNSを開けば掃いて捨てるほどいるじゃないか!
なんで、なんでおれなんだ……どうして……。
笑いが引くと今度は泣きたくなった。胸の奥がぐしゃぐしゃになり、胃の底へ重い塊が沈み込んだ。
どうしようもなく惨めな気分だった。
おれは虫だ。毒毛虫だ。
……いや、待てよ。
おれは繭だ。
ということは、もうすぐ羽化するってことではないのか。
ああ、そうだ。きっとこれは幻覚に違いない。そして何かの啓示なんだ。おれはこれから生まれ変わる。羽を持ち、空を……そうだ、羽ばたくのだ。新しい存在として、これからは――グシャアアアア。
『えー、ただいま非常ブレーキが作動したため、列車が急停止いたしました。お客様には大変ご迷惑とご心配をおかけしております。えー、線路内に“虫ケラ”が飛び込んできただけですので、まもなく運転を再開いたします。そのままの姿勢でお待ちください。それでは列車、発車いたしまーす』




