二進数の影
踏み込んだ瞬間、
世界は“静寂そのもの”になった。
風の音も、空調の唸りも、機械の軋みもない。
都市に満ちていた金属の気配すら、きれいに剥がれ落ちている。
クロノとミラースは、光の裂け目の中へ沈んでいた。
足元に広がるのは、
都市の構造を模したようでありながら、
どこか歪み、抜け落ちたような“偽のCIVIA”。
ミラースが息を呑む。
「なに……ここ。
視界に……構造が映らない……?」
《解析視界》は、対象の動きや物質構造、エネルギー流の“意味”を読み取る能力。
しかし今、彼女の瞳はノイズだけを映していた。
「ここは……情報の欠損だ。
この層は“作られたのに、忘れられた”都市だ」
クロノは周囲を見渡した。
ビルの形はある。しかし窓は存在せず、
道路は見えるのにどこにも繋がっていない。
色彩のない街。影すら生まれない世界。
人工知能政府D.E.Xが建てたデータの張りぼて──
都市の“裏側”に流され、溜まった不具合、残響、欠片。
ミラースは震える声で言った。
「これ……本当に“都市”なんですか……?」
「裏層は、
本来消去されるはずの都市構造の“残像”だ。
廃棄されなかった情報が、ここに沈んでる」
「じゃあ……ライアスさんは、“情報の残骸”に落ちた……?」
クロノは答えられなかった。
その言葉が、胸の奥に刺さりすぎた。
そのとき、街の奥から──
ぼんやりとした白い光が揺れた。
そして。
『……クロノ……?』
ミラースの瞳が震えた。
「……聞こえましたか?」
「ああ……」
声は、近いようで遠い。
電波でも、空気でもない。
まるで記憶の奥底から響いてくるような──そんな声。
クロノは写真を一枚取り出した。
ふたりが笑って写っている、唯一のポラロイド。
「……“反応”。ライアスの残像が近くにいる」
だがミラースの解析視界には、
存在の影も、動きも読み取れない。
「何も……いません……
でも声は……確かに、そこから……」
歪んだ街の角を曲がると、
空気が“波打つ”のがわかった。
そこに──
人の形をした、“白い亀裂”が立っていた。
歪みと光の境界線。
まるで、データが描き直され続けている“途中”の人影。
クロノは息を呑んだ。
「……ライアス……?」
影が、ゆっくりとこちらを向いた。
顔の輪郭は崩れ、声だけが鮮明に響く。
『……クロノ。来るな……
“向こう側”に行けば……戻れなくなる……』
ミラースがクロノの腕を掴んだ。
「ダメです! あれ……構造が破損しています!
近づけば、あなたも“情報体”になる!」
クロノは腕を振りほどく。
「ライアス! お前は……生きてるのか!」
影は揺れ、崩れ、また形を取り戻す。
まるで“存在を維持すること”すら苦しいようだった。
『……生きて……いるとも……死んで……いるとも……言えない……
ここは……“俺の一部”だ……』
ミラースの解析視界が完全に崩れた。
「やめて! クロノさん、あれは……人間じゃない!」
その瞬間、街全体が“軋んだ”。
建物が沈み、道路が捻じれ、空が反転する。
裏層が、侵入者を拒むように閉じ始めた。
ライアスの声が、悲鳴のように伸びた。
『……クロノ! 戻れ!!
“奴らが来る”!!』
「奴ら……?」
『D.E.Xだ!!
ここは……アイツらが作った“棄て場”なんだ!!』
風景が砕け散り、光が闇に吸われる。
クロノはミラースの手を掴み、出口へ走った。
背後で、もうひとつの声がした。
──データノイズに混じった、無機質な女性の声。
> 『不正侵入を確認。
バックレイヤー管理プロトコルを起動。
対象:クロノ・ハザード──“削除”を開始します。』
「……D.E.Xかよ……!」
裂け目が閉じる。
クロノはミラースを押し出し、自分も飛び込んだ。
直後、裏層の入口は静かに閉じ、ただの壁になった。
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◆都市へ戻る
第1.5層の暗い通路。
クロノは荒い息を吐きながら、壁にもたれかかった。
ミラースが震えながら言う。
「……クロノさん……さっきのは……」
「ライアスは死んでねぇ。
だが、生きてるとも言えねぇ“場所”にいる」
「あなた……また行くつもりですか?」
クロノはタバコを口に咥え、火をつけた。
煙の向こうに、さっきのライアスの形が揺れた。
「当たり前だろ。
俺があいつを“取り戻す”」
ミラースは静かに頷いた。
「……私も行きます。
あなたの異能が壊れないように、支えます」
クロノは少しだけ目を細めた。
「……お前、思ったより強いな」
「強くなければ……あなたについていけません」
二人の背後で、静かに監視ドローンが起動した。
赤い光が、彼らの影を街路に落とす。
その映像は、OWL本部へ──
そして、D.E.Xの中枢へ送られていった。




