空虚のミラース
領域は、静寂の迷宮だった。
音はなく、光はぼんやりと薄れ、すべてが霧のようにぼやけている。
だが、それはただの静けさではない──D.E.Xが設計した“心の迷宮”。
視界が乱れ、記憶と現実の境が溶け合う。
ミラースの足元で、解析視界が強制的に起動し、ノイズが溢れ出す。
対峙するのは、中性的な機械義体のエージェント。
全身を覆う義体は無表情で、〈解析遮断〉のフィールドを展開している。
その目は、鏡のようにミラースの姿を映し、静かに囁く。
「君の視界……壊す」
声は、ミラースの頭の中に直接響く。
機械的で、感情がないのに、優しく聞こえる。
エージェントのフィールドが広がり、ミラースの解析視界を乱す。
エネルギー流が狂い、構造が崩れ、すべてがノイズの渦に変わる。
ミラースの瞳が、痛みに震える。
「……見えない……何も、読めない……」
だが、それは視界の乱れだけではない。
ノイズが、ミラースの精神に侵入する。
過去の記憶が、勝手に引きずり出される。
OWL新人として配属された日の、冷たい上層の空気。
正義感だけで突き進み、初めての現場で見た異能者の死体。
「あなた……誰かを探しているんですね」
クロノの心の中の像を、初めて解析した時の、温かい痛み。
エージェントの声が、重なる。
「君の“解析”は、無意味よ。すべてはD.E.Xのデータ。感情なんて、ノイズ」
ミラースの呼吸が乱れる。
視界に、幻が現れる──家族の顔、失った友人の影、OWLでの孤独。
ノイズが、それらを歪め、汚す。
「君は、ただの観察者。誰も必要としない、冷たい目」
ミラースの心が、ゆっくりと削り取られる。
自我が薄れ、誰だったのか、何のために戦っていたのかが、ぼやけていく。
(……私は、誰……?)
エージェントが近づき、機械腕を伸ばす。
電撃のような波動が、ミラースの精神を直撃。
痛みはない。肉体的なダメージはない。
ただ、心が空っぽになる感覚。
正義感が剥がれ、クロノへの想いが霧散し、ミラース・レインという存在が、消えていく。
「やめて……私……私は……」
声が弱く、震える。
エージェントのフィールドが最大に広がる。
「君の自我は、D.E.Xに統合される。抵抗は、無駄」
ミラースの瞳から、光が失われていく。
記憶が、次々と削除されるような感覚。
クロノの煙草の煙、ライアスの笑い、シェイドの影──すべてが、遠くに離れていく。
心が、空白になる。
だが、最後の瞬間に、ミラースは必死に抗う。
(……クロノさん……あなたを、支えたい……)
解析視界の最後の力で、エージェントの“核”を読み取る。
ノイズの奥に、弱点──感情の残滓。
「あなたも……孤独だったのね……」
ミラースの声が、エージェントの精神に逆流する。
エージェントの動きが、止まる。
「不可能……私の解析は……」
ミラースは、自我の最後の欠片で、視界を爆発させる。
エージェントのフィールドが崩壊し、義体がノイズとなって散る。
領域の壁が、粉々に砕け散る。
ミラースは、よろめきながら領域を抜け出した。
だが、彼女の瞳は空っぽだった。
心を失い、自我が消え、ただの殻のように立ち尽くす。
ただ身体だけがクロノたちの元へと歩みを進めていく。




