楔のライアス
領域は、重力の地獄だった。
空気が鉛を溶かしたように重く、息をするたびに肺が潰れそうになる。
床はゆっくりと沈み込み、立っているだけで骨が軋み、関節が悲鳴を上げる。
視界の端が、圧力で歪む。
対峙するのは、巨漢のエージェント。
筋肉が異常に膨張し、皮膚の下で黒い血管が脈打っている。
〈重力増幅〉の異能者──D.E.Xが統合した、かつてのOWL捜査官の残骸。
その目は完全に死んでいて、ただ「潰す」という命令だけを宿していた。
巨漢が一歩踏み出す。
領域全体の重力が倍加。
ライアスの膝が、深く沈む。
「……ぐっ……!」
歯を食いしばり、〈重力の楔〉を拳に凝縮して耐える。
だが、巨漢の圧力は容赦なく増していく。
二歩目。
重力がさらに跳ね上がり、ライアスの肩が軋む音が響いた。
肋骨が一本、ひび割れる。
巨漢が低く唸る。
「潰……す……」
振り下ろされた拳。
空気が歪み、衝撃波のような重力がライアスを叩きつける。
咄嗟に腕で受け止めるが、左腕の骨が砕ける音がはっきり聞こえた。
激痛が走り、視界が白く飛ぶ。
(くそ……こいつの重力は、俺のより“純粋”だ……D.E.Xに最適化されてやがる……)
裏層での記憶が、容赦なく蘇る。
あの“棄て場”で、身体が徐々に圧縮され、意識が薄れていく感覚。
骨が折れ、内臓が潰れ、息ができなくなるあの絶望。
ライアスは血を吐き、笑った。
「……似てるな、あの時の痛みとよ」
巨漢がさらに質量を増大させ、突進してくる。
ライアスは右拳だけに全重力を集約。
迎え撃つ。
拳と拳が激突。
領域が震え、力場の壁に深い亀裂が入る。
衝撃でライアスの右肩が脱臼し、肋骨がさらに二本折れた。
内臓から血が込み上げ、口から溢れる。
それでも、巨漢をわずかに押し返す。
巨漢の表情が変わらない。
ただ、質量をさらに倍化。
ライアスの足が地面にめり込み、膝から下が砕け始める。
(……もう、立てねぇ……)
視界がぼやけ、意識が遠のく。
クロノの顔が浮かぶ。
あの煙草を咥えた、冷めた目。
「お前を“再構築”してやる……どんな形でもな」
ライアスの瞳に、火が灯った。
「……てめぇらに……俺の相棒を……渡さねぇ……!」
残った力を、すべて右拳に込める。
重力の楔が、黒い渦となって膨張。
巨漢が最後の突進。
二つの重力が、正面から激突する。
轟音。
領域全体が歪み、力場の壁が粉々に砕け散る。
巨漢の身体が、内部から圧縮され、皮膚が裂け、骨が砕け、質量が自らを潰していく。
だが、ライアスも限界だった。
右腕が折れ、胸が深く陥没。
血が噴き出し、膝から崩れ落ちる。
巨漢が、最後に倒れる。
エージェントの残骸が、ノイズとなって消える。
ライアスは、這うようにして力場の亀裂を抜け出した。
廊下のような空間に倒れ込み、動けなくなる。
息が浅く、血が止まらない。
肋骨のほとんどが折れ、内臓が損傷している。
「……くそ……ここまで、か……」
だが、目はまだ死んでいない。
クロノたちの気配を、遠くに感じる。
「……行けよ……クロノ……俺の分まで……」
ライアスは、そこで意識を失った。
次の戦いに、立つことはできない。
だが、生きて──たどり着くことはできた。




