日本帝国奇妙抄 Ⅷ
偉大なる才能を以って人を驚かすとも、同時に欠点と悪徳との配合を以って他人の嫉妬心に慰安を与える場合には、甚だしき嫉妬の中心たることなし
(ジョン・モーリー)
およそ人の手が織り成す中で、難癖ほど製造容易な品はない。
理屈など、捏ねようと思えばいくらでも捏ねくり回せてしまうのだ。
――御一新から間もなき時分、度重なる出仕要請をあくまで拒否し、「野の人」たるに拘った、町人主義とも称すべき福澤諭吉の姿勢に対し、明治政府部内では次第に意趣を募らせる、とある一派が存在していた。
この連中の心境をざっくり打ち割って述べるなら、
――あの野郎、お高くとまって澄ましやがって。
どこどこまでも低劣な僻み根性の枠を出ない。
政府の権威をかさに着て浮世の栄華を堪能している俗吏輩の認知では、政府に媚びを売らないという、単にそれだけの事象でも癪に障って仕方ない。わけもなく侮辱された気になって、逆恨みめいた、否、実際に、逆恨みとしか呼びようのない憤懣に燃え、奥歯を軋らせるほど憎み、ついにはその病的な火照りの渦中から、
“福澤は旧幕の遺臣を以って自ら居り、明治政府に対して不平を懐いてゐるのであらう、その証拠にはこの維新中興の御代に福澤塾を旧幕時代の年号に因むで慶應義塾と称してゐるではないか、甚だ不都合である”
こんな馬鹿げた鳴き声さえも敢えて発するまで至る。
「むろん福澤先生は、こんな非難には一向取り合わなかったが――」
と、註を入れたのは石河幹明。
戦前に於ける『福澤諭吉全集』の編纂者として、我々はこの名を見出せる。
「後に『慶應義塾紀事』を書かれるとき、当時のことを思出されて一寸一言せられた」
石河の云う、福澤諭吉の「一寸一言せられた」部分を以下に引く。
“…前年冬芝新銭座に買入れたる地面あるを以て、之に塾舎を新築して其功を竣りたるは戊辰四月の事にして、其前は塾の名称さへあらざれば今より何か名を附けんとして、人にも物にも差支へなき其時の年号に取りて慶應義塾と名づけたり。蓋し明治元年に慶應の文字は不都合なるに似たれども、改元の布告は同年九月の事にして、本塾の竣工は四月なるを以て未だ明治の名を知らざりし時なればなり”
斯くも懇切丁寧に時系列、あるいは因果の流れを整理したのは、塾名に関して当時さんざん難癖誹謗中傷をべっとりなすりつけられた、暗い記憶が働いていたわけである。
喬木風多く出る杭は打たれる。
福澤ほどの巨樹ともなれば、小人の妬心もそりゃあ殺到しただろう。
“結局人間世界は盲者千人又千人の世界にして、我意の所在を察し我意の如くに進退運動する者とてはあるべからず。恰も不具廃疾病人の群集なれば、人間交際の要訣は病人の看護なりと最初より覚悟するの外あるべからず”。彼の箴言の因って来たる淵源を、垣間見るの感だった。
※ ※ ※
江見水蔭には妙な私有物がある。
土俵である。
彼は庭の一角に、手製の土俵を設えていた。それも屋根付き、雨天でも取っ組み合えるよう、とある知人の船主から古帆をわざわざ貰い受け、そいつを改良、覆い代わりにひっ被せていたそうな。
仲間内では「江見部屋」の呼び名さえあった、そういう自家製土俵をむろん、江見水蔭はただ腐らせはしなかった。濫用といっていいほどに、常習的に使用した。相手は主に村上浪六、大町桂月、長谷川天渓、田村松魚、神谷鶴伴、他にも他にも――総じて謂わば明治文壇のお歴々。錚々たる面々と、力較べをやってやってやりまくったものだった。
知られざる名取組があったのである。
同業者が相手なら、江見水蔭の勝率は決して低い方でない、白星を重ねる側だった。
が、一度本職を向こうにまわせばどうだろう。鼻息だけで吹っ飛ばされる、セミプロの間に混じってさえ井蛙の己を発見せずにはいられない、そういう力量でもあった。
相撲取
ならぶや文士
枯尾花
自作の歌にも、そのあたりの悲哀が漂っている。
しかしまあ、いくら負けても相撲自体を厭うような心理とは、江見水蔭は無縁であった。
勝とうが負けようが土俵に上がる。土俵の上で筋骨を思いきり酷使する。己の嗜好に揺らぎなし。日本男児的である。だから大正三年度には、
“自慢ぢゃア有りませんが年中生傷が絶へないのです。明治三十四年から今日まで殆んど十二年間、血を流さない日は無いのです。イヤおどかしぢゃア有りません本当です。それは毎夕相撲を取るからです。勝てば怪我もしないのですが、相手が何しろ強いのです”
こんな調子の告白文を草することもやっている。
続けて曰く、
“何しろ学生相撲の選手連中で、関西方には名前を記憶されて居る筈の、三宅、井上、片岡、岸、森島なんどの諸勇士が毎日の様に遣って来るので、御大の末路の悲惨さ加減、迚もお話になりません。怪我もする訳です。
でも有難いことには怪我をしても、塩混りの砂を塗附けて置けば、いつの間にやら癒って呉れます”
云々と。
「部屋」の称とて、どうやら伊達ではないらしい。
ちょっとした梁山泊の景色であった。
“朝から晩まで机に向ってばかり居ると、めしの味が不味いので、それで相撲を取るんです。然うするとめしの美味さと云ったら有りませんな、迚も止められません。まだ十年は取るつもりです。
それでは手が顫へて筆が取れまいなんて、心配は御無用です。取ってから後は別して筆の走りが好い。頭脳がハッキリとして明瞭一点の曇もないといふ様に成ります。健全なる思想は健全なる体躯に宿る。古い文句だが実際ですよ”
相撲は国技と力いっぱい主張して、「国技館」の名付け親になっただけのことはある。
この競技への淫するほどの愛着を、どうでも感じざるを得ぬ、そういう筆致であったろう。
※ ※ ※
「最後の回が出来ました」
すわりきった眼差しで、開口一番、吉川英治が言ったセリフがそれだった。
場所は岩田専太郎の仕事場である。岩田は当時、挿絵画家として吉川英治の新聞連載小説にあでやかな華を添えるべく、彩管の技を駆使する任を負っていた。
それゆえに、面識があるどころではない、共に作品を編みあげる仕事仲間と十分呼べる関係性ではあるものの、さりとてこうして吉川英治本人が原稿を届けにやってくるのは珍しい。
「これで終りです、この分の絵を描いてから、一緒にそこらまで出ましょう」
つまり祝杯のお誘いである。
(ずいぶんとまた、勢い込んでいらっしゃる。ーーなんともえらい剣幕だ)
納得のいく最終回が書けたのだろう。その反動で、吉川英治のテンションは明らかに変になっていた。
両眼がギラギラと輝いている。
(まぁ、無理もなかろう)
小説家とは、体力の要る職である。
一流どころは、インクに自分の魂を溶かしこんで書いている。己を削る仕業へと、自分を突き飛ばしてゆく。
本人にしかわからない、思わず死にたくなるような無数の苦悩を乗り越えて、ついに作品を完結させた瞬間の、あの精神の迸り。「嬉しい」などと月並みな語句ではとてものこと追っつかぬ、達成感と喪失感とが綯い交ぜの、酸いとも甘いともつけられないあの感じ。
そういうものに内から灼かれ、今の英治はとてもひとりで座に堪えられる気分ではなくなってしまったのだろう。
誰かとこれを、この感覚を分かち合いたい。やむにやまれぬ情動が、彼の両脚に憑依して、ここへこうして運び来た。
同じ表現者であるだけに、岩田にもそれが理解るのだ。
「まずは、拝見――」
出来立てほやほや、生原稿を受け取って。
岩田専太郎は作業にかかった。
ひどく緊張したという。なにしろずっと、吉川英治が傍に居る。さも興深げに、こちらの手元を窺っている。
(やりにくい)
公衆便所で他人に背後に立たれると、尿道に栓をされたが如く滞っちまう現象と、相似た部分があるだろう。
あからさまにテンパりつつも、指の動きは流麗で、みるみるうちに仕事を遂げてのけた点、岩田専太郎はプロだった。
(弟を呼ばねば)
完成品を新聞社へ廻すのは、いつも弟の役なのである。
奇縁がある。
その弟の名も、エイジというのだ。
英治と英二で字こそ違うが、発音はほぼ同一である。
神の作為を疑いたくなるような、実に奇妙な繋がりだった。
結果こういうことになる。絵筆を握り締めたまま、頭のてっぺんから抜けるような大声で、
「エイジ、――エイジィィィッ!」
岩田専太郎は叫んでしまった。
吉川英治の、果たして驚くまいことか。
「流石にあれは魂消ましたよ、すわ発狂かと思ってね――」
以降顔を合わすたび、岩田はちょくちょくこのネタで、英治に弄られたのだとか。
昭和を彩る文化の巨人両名の、微笑ましき挿話であった。
人々はその長所のみを発揮しては共同生活をすることが出来ない、却ってその欠点に依って互にその塩梅を計るのである
(エマーソン)




