日本帝国奇妙抄 Ⅴ
追憶を止めて期待を専らにせよと云ふ勿れ、追憶は楽園を追はれた人類の胸に、第一着に種子を落した性情である。
(黒田重太郎)
東京湾にサメが出た。
単騎にあらず、二頭も、である。
時あたかも明治二十一年五月半ばのことだった。
かなり珍しい事態だが、まんざら有り得なくもない。確か平成十七年にも、五メートル弱のホオジロザメが川崎あたりに漂着し、世をどよめかせていた筈である。
ただ、平成シャークが発見時には既に死骸になっていたのに対照し、明治のサメはピンピン元気に水切り泳いで獲物を狙える、──「海のハンター」の面目を十二分に発揮可能な状態だった。
実際そういうことをした。
狼狽したのは佃島の漁民ども。どうやらこのサメ、かなり気性が荒っぽく、しきりと海中を荒らすので、船を出しても仕事にならんとすっかり困惑したらしい。
「あん畜生をどうすんべぇ」
と膝つき合わせて協議して、やがて出された対策が、なんとなんとの「神頼み」!
同地の鎮守の神である住吉様へと「鰐鮫退散」の効験をひとつ現していただこう、と。正気も正気で頷き合って、そのための祈祷を大真面目に開始した。
天晴である。八百万の神霊棲まう国として、これほど相応しい情景もない。
翌々年には「護符」に版権を認めるか否かがかまびすしい問題となり、代議士どもが議会にて怒号混じりの激論を恥ずかしげもなく繰り広げている。
まこと日本は神の国に違いない。
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乱獲による海洋生物個体数の減少は、戦前既に問題視され、水産業者一同はこれが対策に大いに悩み、頭脳を酷使したものだ。
物事の基本は「生かさず殺さず」。根こそぎ奪えば、いっときの痛快と引き替えに、次の収穫は期待できない。いわゆる「越えてはならないライン」、境界線を探らねば。──そんな努力の形跡が、文献上に仄見える。
萌芽も萌芽ではあるが。──「持続可能な漁業」の試み、第一歩といっていい。
就中、白河以北は宮城県、桃生群鷹来村大曲漁業組合にあってはかなり、時代を先取りするような、ユニークな手段を模索した。世に謂う人工漁礁計画である。
事故や戦争で沈んだ船が海底で時を経るうちに、自然と魚族のスウィートホームに化してゆくという現象は、潜水夫やら誰やらにより古くから、多く確認されてきた。
それをこの村の人々は、人為的に再現しようと試みた。老朽船六隻を浜からおよそ一キロ先のポイントにて自沈せしむる。速やかに魚が寄ってくるよう、船内には“米糠九十五俵、魚粕百二俵、空俵千二百俵、粗朶その他”を入れておくという手厚さである。
時あたかも昭和九年の企図だった。
ちなみにアメリカ合衆国では二〇〇六年五月に於いて「空母」を漁礁に宛てるべく、計画を発動させている。メキシコ湾、深度六十五メートルの海底に今もその身を横たえている、「オリスカニー」が即ちそれだ。
翌々年にはデラウェア州の沖合に、ニューヨーク地下鉄の廃棄車輛六百が投下されたとも聞き及ぶ。これだけドカドカぶち込みまくっている以上、有効性には一定の保証が為されているのに違いない。
しかし、にしても。空母だの列車六百輌だの、やはりアメリカはスケールが違う。
※ ※ ※
こんな企画を思いつくのは何処の誰であったろう。
少なくとも和井内家の人間ではない。
昭和の初め、結構な数の潜水夫らを駆り催して、十和田の湖底をしきりに浚ったやつがいた。
賽銭の回収が目的だった。
そういう古俗があったのである。銭や米を包んだ紙を、十和田湖めがけて投げ入れて、沈んでいく様子によって吉凶を占う、というような──。
令和の世にも「おより紙」の名の下に根強く残る信仰である。
「その根強さを、正確に知りたい」
と、好奇心を疼かせた何者かが居たようだ。
試みは三年に亙って継続された。
が、十和田湖の底は浅くない。
相当深い。最大深度326.8m、これより深い湖は、日本国では北海道の支笏湖と、秋田県の田沢湖以外に存在しない。第三位ということである。光の届かぬ真っ暗な淵もザラにあり、回収作業はそう捗々しく運ばなかった。
それでもなお、潜水夫らの類稀なる努力に依るというべきか。
三年かけて、彼らはのべ二千円分の硬貨を引き揚げ、積み上げた。現代の貨幣価値に換算して、ざっと百二十万円ほどである。多いと取るか、少ないと取るか。
山本実彦は前者であった。
改造社の創業者であるこの人物は、二千円という数字をまず「一厘銭なら二百万枚」と可能な限り細分し、“あくまで理論上ではあるが、最大で二百万人が自分自身の運命を、この青い水に訊いたのだ”と、妙な感心の仕方をしている。
更に続けて、
“この現実をみせつけられて、自分としての人生を、自分の生活を、深く内省しないわけにはゆかなかった。ここに詣ずる東北の人々は、関東や、関西のひとびとのやうに、自然にめぐまるるものが少い。であるから、科学を駆使して自然を克服するドイツ人の行った道を行かなくてはならぬと、私は考へざるを得なかった”
とも。
独特な感性を有しているのは疑いがない。
あれだけの出版社を興すには、やはり強烈な個性が要るのか。
ところで回収された二千円は、その後どうなったのだろう。
費用に見合うわけもなし、いっそきっぱり未練気もなく十和田神社の玉串料に全額奉納したならば、美談として語り継がれる余地もあろうが。このあたりの機微につき、山本実彦はなんの回答も与えていない。
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マーガリンをバターと偽り売り捌く。
馬鹿みたいな話だが、しかしこいつは実際に、明治・大正の日本で、しかも極めて大々的に行われた偽装であった。
マーガリンの価格は当時、バターの半分程度が相場。良心の疼きに目をつむりさえしたならば、双方の類似性を利用しておもしろいほど簡単に利ざやを稼げる仕組みであった。非常に多くの商人が、その遣り口で現に儲けた。
「なあに、どうせ馬鹿舌さげた客どもだ」
「連中に味の区別などつくものか。言われなきゃ一生気付くまい。ならば知らぬが花ってもんよ」
庶民という生き物を、彼らは完全に舐めていた。
この一件を見てみても、滾る金銭欲に比し、所詮お仕着せの公徳心だの善意だのというものが如何にか弱い代物か、特撮映画の軍隊よりもなお一層頼りなく、蹴散らされるのが存在意義の全部であるかがよく分かる。
結局のところ、この種の悪智、不正には、法を以って締め上げてゆくより他にない。
欲望を掣肘するものは、辛うじて恐怖があるのみだ。
農商務省が、主に動いた。
彼ら役人の働きが条文として結晶し、世に云うところの「人造バター取締令」なるカタチで以って世間に公布されたのは、大正三年五月二日のことだった。
ついここまで言いそびれたが、当時はマーガリンのことを、主に、もっぱら、「人造バター」と呼んでいた。
渙発に際し、農商務省畜産課長・湯地彦二により行われた声明を、以下に掲げて置くとする。
“昨今牛豚油及び棉実油等にて製したる所謂人造バターの横行日々甚だしく其価格は乳製バターに比し半額位なるに拘らず悪商人等は真正バターと一見識別し易からざるを奇貨とし需要者を瞞着して以て暴利を貪りつゝあるの状況にて之を黙過せんか需要者として高価に類似品を購入せしむるのみならず幸ひ発展の気運に向ひつゝある乳製バターを衰滅せしむるの恐れあるを以て今回厳に之が取締を励行するに決し本邦製品と外国輸入品とを問はず又邦字を以て明瞭に「人造バター」てふ表示をなさしめ製品の真偽を明白にせしむることゝなりたるなり”
湯地彦二は鹿児島士族。
明治の初めに畜産を奨励した第一人者、内務卿大久保利通も、元々は薩摩藩士であった。
たぶん偶然の符号だろうが、それでもそこに何らかの意図というか伝統を見たくなってしまうのは、言葉の力──「薩摩の芋蔓」ありきだろうか。
筆者も相当、先入観に毒されきっているらしい。