大英帝国、不滅なり Ⅱ
植民地統治の基礎は法律学にあらずして、生物学であり、政治学にあらずして、心理学である。
(東郷実)
同じ移民排斥にしても、アメリカとイギリスでは遣り口が違う。後者の方が仕掛けに凝って、狡猾だ。
玄人芸といっていい。
一九〇一年、オーストラリア初代首相、エドモンド・バートンの治下に於いて制定された移民法案がいい例だ。彼らはこの法案中で、「ヨーロッパの言語で以って、五十語の章句を書き取り、且つ署名し能わざるもの」の移民願いを認めないと決めている。
一見、至極真っ当な態度であろう。
英語圏たるオーストラリアで働きたいのに、英語が喋れないなど論外だ。意思疎通が図れぬ相手に、責任ある仕事を任せたがる馬鹿もない。治安悪化を予防する上でも、これぐらいの規制はあって然るべきである。
ところがどっこい、いざ海を渡った移民志願の日本人らは驚いた。彼らを迎えた書き取り試験は、その実英語どころではなく、ドイツ語ないしフランス語、あるいは将又ロシア語に、果てはラテン語などという場合さえも存在したのだ。
そう、条文に記されているのはあくまで「ヨーロッパの言語」であって、「英語」などとは一文字たりとも書かれていない。どの言語を指定するかは官吏の胸先三寸であり、
──オーストラリアの公用語が英語なのだから、当然英語の書き取りだろう。
などという常識的判断は、畢竟日本人による「手前勝手な先入観」に過ぎぬのである。
事前の勉強は、完膚なきまでに無駄になった。
人々は失意に塗れ、元来た道を引っ返す以外に術がなかった。
この手法は過去に南アフリカの、ナタール領からインド人を排斥するため植民大臣チェンバレンが編み出した、所謂「ナタール法」に範を取ったものであり、どちらの地でも抜群の効果を発揮した。
もっとも日本人とても、唯々諾々と現状に甘んじていたわけでない。
林董駐英公使は事をロンドンに持ち込んで、制限法は「排外攘夷の観念」からの産物であり、「ただ日濠間の親交及び通商関係に害を及ぼすに過ぎない」と主張。ランズダウン侯爵に宛てて正式な抗議も行っている。
が、この鋭鋒をイギリスは、お得意ののらりくらりでやり過ごし、何ら実のある回答を与えなかった。結果、何が起こったか。昭和十八年に太平洋協会から出版された『濠洲の自然と社会』には、以下のように記されている。
“日本の国内感情は激昂した。著名な日本人の見解が集められて、濠洲で刊行されたが、これに依ると、白濠法は「人類に対する罪悪」であり、「侮辱的な法律」であった。然し、一層大きな国家的利益が民俗的自尊心に勝利を占めた。日本が英国との協調外交を考へついた途端に、濠洲への移住問題は影を潜め、それ以来何の風波も起らなかった”
そう、一九〇一年といえば元号換算で明治三十四年に相当、日露戦争へと至るカウントダウンが既に開始を告げた頃。
これからロシアをぶん殴らねばならない秋に、対英関係まで拗らせてどうするのか。有り体に言って、自殺行為以外のなにものでもない。大事の前の小事であった。それまでの激昂ぶりが嘘のように、日本の輿論は落ち着いた。
なんという美しい流れであろう。ひどい目に遭ったのは我らが先人に他ならないのに、思わず感嘆したくなる。悪辣さも、ここまで極まれば芸術的だ。かつての大英帝国は、本当に学ぶべき多くの要素に満ちている。
※ ※ ※
二十世紀初頭、排外的民族主義の骨頂はオーストラリアに見出せた。
白濠主義をいっている。
有色人種を叩き出し、かつ侵入を防遏し、彼の地を以って白人の楽土たらしめること。この至上命題を達成すべく、どれほどの知恵が絞られたのか。それについては上記で一通り説いたゆえ、いちいち此処に再言しない。
ただ、新たな事実として、一九〇二年の連邦議会で、
「白濠主義は外国の安価労働の侵入に対する保護政策である。従って好ましからざる外人労働者の生産品を輸入することもまた、その人の移住とともに排斥すべきものである」
このような発言があったことを書き添えておく。
発言者はアルフレッド・ディーキン、保護貿易党の領袖であり、翌年首相になる男。
関税法をめぐっての、審議の最中の出来事だった。
頂点からしてこうならば、下情がどんな様相か、ほぼほぼ察しがつくだろう。
だからこういう光景が成立する。
“日本国旗を翻す堂々たる郵船会社の船も、一旦濠洲の法律が行はれる地域に錨を投じては、有色人の労働を拒否する厳重な労働法に拘束せられねばならぬ。船員が荷物の上げ卸しに手を貸しても忽ち警吏の眼は光って労働法違反の鉄槌を下して来る。ウインチを巻くもの、荷を運ぶものすべて白人労働者である。しかもかれ等の不敏活さ実に一驚を喫するやうな状態であったが、敏捷は濠洲労働者の敵である。働き過ぎては為すべき職がなくなると、甲板に佇んでゐた濠洲通の一人がささやいた。濠洲は白人労働者のユートピアであるとは、予て聞き及んではゐたが、先づその模範的荷役振りを目撃して、成程とうなづいた次第である”
昭和初期、学術研究目的でオーストラリアに渡った邦人、大島正満の旅行記である。
そりゃあ確かに、仕事は手の抜き方を心得てこそ一人前とよく言われるが、それにしても、これはまあ。
こうなってくると鉄道軌間が各地でバラバラになっているのも、あるいは態とかと勘繰りたくなる。
例えばニューサウスウェールズ州の線路の幅は一四三五ミリであるというのに、お隣のヴィクトリア州では一六〇〇ミリが敷かれているといった具合いに、規格が統一されてない。
だから列車が州境の駅に達すると、貨物やら乗客やらを乗せ換えるためいちいちてんてこ舞いになる。
一見すると無駄な手間、非効率の極みだが、手間がかかるということは、それを処理する人の手が、一定数欠かせないということで。
雇用の確保、「白人労働者のユートピア」、白濠主義を維持する上で多少の貢献があったのではなかろうか──。そんな愚考が、ふと浮かぶのだ。
実際問題、わが国にてもそういう事実は見出せる。平賀源内がアスベストを発見し、これを素材に今で云う防火シートを拵えて、「火浣布」と名付け、幕府に売り込みをかけた際、
──火事がなくなることは嬉しいが、そうなると多くの火消しや大工、左官の連中が失職する。
との理由から、すげなく却下されたなんぞが好例だ。
こういう思慮のめぐらせ方をする奴は、古今東西どこにでも、一定数存在するのでなかろうか。




