日本帝国奇妙抄 Ⅳ
此の耳を
親にかしたし
ほととぎす
(詠み人知らず)
以下の内容は、あるいは一部フェミニストやLGBT活動家を激怒させ、血圧の急上昇による気死すら招くものかもしれない。
「結婚して家を成し、子供を儲けて血筋を後に伝えることは人間として最低限度の義務であり、且つうはあらゆる幸福の基礎である」――こんな規定を設けた国が一世紀前存在していた。
ファシズム時代のイタリアである。
ベニート・ムッソリーニほど、人口増加奨励――「産めよ増やせよ」政策を強力に推し進めた政治家は、類がないのではあるまいか。
彼は「避妊は国民の死滅、父にあらざる者は人にあらず」の警句を好んで用い、既婚者には優遇を、独身者には罰則を、それぞれ与えて憚らなかった。
その最も露骨な例として、「独身税」の導入がある。
これは二十五歳以上六十五歳以下の独身男性を対象とした税制であり、その細やかな内訳をみると、
二十五歳以上三十五歳以下には年間七十リラを、
三十六歳以上五十歳以下には年間百リラを、
五十一歳以上六十五歳以下には年間五十リラを、
それぞれ徴収したものであり、イタリア全土で平均五千万リラ程度の納付が見込めていたそうだ。
この五千万リラの主な用途は産前産後の母体保護に宛てていたから、制度としては一貫している。
そのほか結婚可能年齢を男子十六歳、女子十四歳に定めたり、堕胎を厳罰化してみたり、就職及び兵役上に各種の便宜を図るなどして多産を奨励した結果。――ムッソリーニが実権を握った一九二二年から一九二八年までの六年間で、イタリアの人口はざっと二百万ほど増加した。
みごとな成果といっていい。
が、ドゥーチェにとってはまだまだ満足できないらしく。一九三〇年の四月には、更に思い切った政策を打ち出している。
二人以上の子供を有する家庭には、相続税を免除するという太っ腹な方針だ。
もっともこの言い方には多少の語弊があるかもしれない。ファシスト党は政権獲得早々に相続税を撤廃しており、今回それを、「子供の数が二人未満の家庭に対し復活させた」とした方が、より正鵠を射ていよう。
さりとて復活させたとは言い条、三千リラ未満の相続に対してはやはり無課税で通しているから、弱者救済の意図は存在したと看做し得る。
ローマ中の小学校の教室に古代ローマ帝国と現イタリアの地図とを並べ、更にはその地図上に、ムッソリーニ自身の筆で、
――太陽はローマ以上の大都市を照らしたことなし。
とか、
――人口の増加は国運の隆盛を意味する。
とかいった意味の文章が、墨痕淋漓と記されるという一種凄絶な光景は、このようにして成立したというわけだ。
全体主義者のやり方は極端に過ぎるきらいがあるが、先進国で人口増加を図りたいなら、どうだろう、いっそこれぐらいの荒療治に打って出ねば到底不可能という感じもすまいか。
当時のイタリアを跋渉した日本人に、布利秋の名前がある。
愛媛出身の通信員で、
旅行をこよなく愛好し、
その性癖が昂じるあまりふと気が付けば六十余ヶ国を股にかけ、
都合九万三千キロの移動距離を誇るとされる、海千山千、「強脚」だ。
一面奇行家としてもよく知られ、大正三年ルーズベルト大統領に、
「東洋人に対する差別をなくせよ、さもなくば余と決闘をもって黒白を決定されたい」
などという決闘状を送り付け、国外退去処分を喰らいもしている。
そういう男の双眸に、「多産国家イタリア」はどう映ったか。
せっかくなので付け加えておきたくなった。――以下、彼の小稿、『ファシストを繞る文化運動』から抜き書いてみる。
“…最近は双生児や三ツ子を産むものに対して、内務省は特に賞金を与へ、更に子沢山な家庭には、ムッソリーニ章を授与して、超スピードの人口増加政策に努力してゐる。これまでのイタリーは、ヨーロッパに於ける唯一の堕胎王国であって、各国から堕胎婦人が集まったのであった。そして、避妊、堕胎に関する良薬は、イタリーの専売でもあった。しかし、ファシスト政府が避妊堕胎を厳禁し、これまでの良薬は一切売買を禁止され、産児制限を目的とする薬品機具は、断然厳重な取締を受けるに至った。そのために避妊堕胎のヨーロッパ婦人は一大恐慌を来したのであるが、イタリー婦人だけは、フランスの産婦よりも、更に莫大な賞金を受けるので、我勝ちに産婦たらんとする傾向が現はれ、日に日に人口の激増を見るに至った”
これ以外にも布利秋は“イタリーの国情は帝王的独裁でなかったならば、労資協調の実は挙げ得ることはできない。この点は或る意味の方便であって、矢鱈に帝王権を振りまわすところに、イタリーの救世事業が完成に導かれる深い意義が存するのである”と書いたりし、ムッソリーニに対する評価は高水準で一貫している。
※ ※ ※
フランス北西、ブルターニュ地方はキプロン半島の沖合に、ベル=イル=アン=メールという島がある。
優美な島だ。
名前からしてもう既に、その要素が含まれている。フランス語でベルは「美しい」を、イルは「島」をそれぞれ意味するものらしい。
島には複数の燈台がある。
本土との主な連絡手段が船頼りである以上、それは必須施設であろう。
さて、その複数ある燈台のうち、東端に置かれたケルドニス燈台にて。
一九一一年四月十一日、ひとりの男が死亡した。
彼はここの燈台守たるマテロット一家の亭主であって、その死は夏の夕立ほどにだしぬけな、不意打ち以外のなにものでもなかったという。
「ぬ、ぅ――」
燈台内の清掃作業に当たっていたマテロット氏は、にわかに胸奥に不快を覚えた。咳ばらいをしても背筋を弓なりに伸ばしても、はたまた深呼吸を繰り返そうと、一向にその不快感がなくならない。どころか逆に、身体の芯にいよいよ深く絡みついてくる感がする。
とうとう彼は直立さえままならなくなり、掃除半ばで下階に降りて床に入るを余儀なくされた。
「いったいどうなさったのです」
ほんの数時間のうちに、別人の如く衰弱しきった夫の姿に狼狽しながら、妻は必死の看護に当たった。
されど容体は回復の兆しを一向見せず、そうこうする間にいよいよ陽は傾いて、西の空を紅蓮に染めた。
そろそろ燈台に灯をともすべき頃合いだ。
だが、その作業に当たるには、夫を置いて行かねばならない。
呼気もか細く、虫の息という表現がちっとも比喩でなくなった今の状態の夫から、一時的にといえど離れなければならないのである。
人情として、これほど辛い相談もない。
まさしく身を引き裂かれる気分であろう。
が、ほどなく妻は決意した。燈台守として、仕事を果たしに赴いた。標高37.90mの丘の上に、あかあかと灯が点ぜられた。
しかし、ああ、やんぬるかな。妻が部屋に戻ってみると、既に夫はこと切れていた。ほんの数瞬間の差で、彼女は半身の死に目に立ち会えなかった。
「そんな。――」
どうして、どうしてあと少し、待っていてはくださらなんだと。
遺体に縋り、悲嘆の涙に暮れる彼女に、更に追い打ちというべき報せがかかる。足音も荒く部屋に飛び込んで来た長男が、
「燈台の灯が回ってません」
泣くような声で、そんなことを言ったのである。
本来ケルドニス燈台は動力による回転式であったのが、マテロット氏が清掃のため回転機を取り外し、しかも作業半ばで発病したため元の状態に復しておらず、それが招いた事態であった。
これをこのまま放置すれば、どんな不祥事が起こらぬとも限らない。
(ばかな。――)
嘗て感じたことのない激情が腹の底から衝き上げてくるのを、マテロット婦人は感じていた。
(私は夫を犠牲にしてまで役目を遂げた。にも拘らず、この燈台めの怠慢ぶりはどうだろう)
冗談ではない、こいつには何が何でも安全に船舶を導かせてやる、と。
遺体をベッドに放置したまま、彼女はまたも駆け出した。
その心境は、ある種復讐者のそれに近しい。
原因を突き止め、回転機を嵌め直そうとしてみたものの、どうしても夫がやっていたようにカチリとうまく嵌らない。
万策尽きた彼女は、ついに最後の手段に打って出た。
(自動が駄目であるのなら)
結構、手動でやるのみよ、と。
二人の息子と力を合わせて、二十一時から翌朝七時に至るまで、延々十時間に亘り、灯火を回転させ続けたのである。
力技にもほどがある解法だった。
明らかに給料分を超えた労働。
しかし損得勘定を超越した行為にこそ、人は心震わせる。
この日マテロット一家を襲った異常な事態はやがて「フィガロ」紙に取り上げられ、全フランス国民の知るところとなり、英雄的義挙として、絶大な反響を呼び起こす結果と相成った。
日本人の耳目にも、一連の経緯は、やがて伝わる。
楚人冠こと杉村廣太郎の筆を通して、専らに──。
“…幸ひにして出入の船舶が此の燈台を見誤らずして全く事なきを得たるは、一に此の幼い子供が母の命を奉じて夜の目も合さず燈火を回転させたるに依る”、と、杉村もまた、大多数のフランス人と同様に、そのいじらしさをほとんど手放しで称賛する立場であった。
左様、幼い。
夜を徹して燈火を廻し続けた二人の子供。そのうち長男ですらこのとき十歳の若さに過ぎず、次男に至っては言わずもがな。
おまけに彼らは、直前に父を喪っている。
心身ともにどれほど疲弊したことか。それを想えばどんなつむじ曲がりといえど、流石に脱帽するより外になかったということだろう。
※ ※ ※
その不審者が淀橋署に引っ張られたのは、昭和七年十一月二十五日、草木も眠る丑三つ時もほど近い、午前一時のことだった。
柏木三丁目あたりの通りを、鶏の鳴き真似をしながらほっつき歩いた廉に因る。まだまだ日の出は遠いのに、こんなことをされてはたまらない。後に「新宿区」と改められるこの地域の住民にとっては、大迷惑であったろう。連行は至って妥当であった。
男の身体からは、濃厚なアルコール臭が漂っていた――それこそ毛穴という毛穴から、酒を噴霧しているのではあるまいかと思われるほど。
「兄ちゃんよ、いったいどれだけ呑んだんだい――」
ろれつが回るようになるのを待って、さて取り調べを進めてみると、男はこの淀橋区の一角に棲む、所謂「地元民」であるのが判明。三十代半ばで、結婚して妻もいる。
ただ、どういうわけか、子宝には恵まれなかった。
そこで寂しさを紛らわすため、夫婦は鶏を飼い出したという。
年を追うごとに数は増え、ついに五百羽に及んだというから、もはや養鶏場といっていい。目の玉の飛び出るような地価を誇る新宿区にも、百年前には養鶏場が営めるほど土地にゆとりがあったのだから、今昔の感、ただならざるものがあるだろう。
が、やはり鳥類ではいかんせん、鎹として十分に機能しなかったものとみえ。
夫婦仲は次第によそよそしさを増してゆき、ついにこの昭和七年、書置き一枚を手切れと残して妻は何処かへ消えてしまった。
懊悩したのは男である。その甚だしさは、もはや錯乱といっていい。
さしたる愛着も残っていないと考えていたにも拘らず、いざ手元から零してみると衝き上げてくるこの狂おしさはなんであろう。
(これほどまでに、おれはあいつを愛していたのか)
と、自己を客観視して驚いてやる余裕さえない。哀しみだけが五臓六腑を駆け巡り、胸は今にも張り裂けそうにじくじく痛んだ。
この苦痛からの解放を、よりにもよって酒に求めた一事こそ、彼の過ちだったろう。呑むのではなく、呑まれにいった。しぜん、悪酔いに流れざるを得なかった。
飼っていた鶏をぜんぶ売り飛ばして得た資本。それを少しずつアルコールに変え、消費するだけの毎日。自暴自棄の見本のような、そんな生活を送っていると、次第に彼の網膜は、妙な錯覚を起こすようになってゆく。
道行く人の首から上が、なんと鶏のそれにすげ変っているように見えるのだ。
(そんな馬鹿な)
慌てて眼を擦ってみても、どうしても鳥人間が消えてくれない。
そのうち何もない空間に、血に染まった白色レグホンの群れを視るようにもなりだした。むろん、彼が飼っていた品種である。
(幻覚だ)
自分の脳が勝手に作り出した虚像に過ぎぬと、彼とて重々承知している。
が、一週間、二週間、一ヶ月と異常状態が継続すると、次第に精神作用が冒されてきて、判断力が弱くなり、ついにはそれを信ずるようになるらしい。この期に及んで、なおも酒を手離せなかったことも災いした。眼球のみならず、鼓膜までもが狂い出し、今や彼の耳の奥では絞め殺される鶏の悲鳴がひっきりなしに木霊するようになっていた。
既に末期といっていい。男にはもう、自分が人間なのか鶏なのか、両種族の境界があやふやになりごちゃ混ぜになる瞬間が一日のうちに何度かあった。
今回は、それが運悪くも夜の夜中、ウイスキーをひっかけた帰路に出てしまったに過ぎない。この事件はその日のうちに『読売』が夕刊紙面に取り上げて、帝都の人心をいっときながら賑わわせたものである。
まあ、鶏といえば、遠く神代の大昔。
天照大神が岩戸にお隠れになったあの場面にも馳せ参じ、鬨の声を高らかにあげて世に光を取り戻す一助を果たした、存外エライやつである。
日本人との関わりはよほど深いといってよく、その縁から勘繰るならば祟りを及ぼす霊能程度、発揮しても不思議ではないのやもしれぬ。
せいぜい感謝して喰らうとしよう。あの肉や卵なしの生活なぞ、味気なくてとても堪えられたものではないのだから。