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重工業王数奇譚 Ⅱ


放鷹狩猟は古の制なり。鳥獣の田畑を荒すものは、尤も之を殺生すべし。


(山鹿素行)





 女だてらに鳥撃ちとは珍しい。

 ましてや大正の聖代に。──時代の空気に背くこと、おてんばどころの騒ぎではない、モダン・ガールともまた違う、破天荒な気性によって、世間の耳目をだいぶどよめかせた女性(ひと)は、大阪市に住む堤とみ子なる婦人。


 同市に於いて特許代理業という怪っ態な仕事に就いていた、堤他彦(よそひこ)の細君である。


 鳥撃ちは、もともとこの他彦の──旦那様の趣味だった。


 とみ子はというと盆栽いじりを専ら事とする人で、鉢に植えるに丁度いい樹を探すのに、山野を駆ける夫の後を屡々追っていったのが、彼女にやがて新たな扉を開かしめる基因(もとい)となった。


 というのも、獲物を狙って息を詰め、銃を構える夫の姿、やがて聴こえる景気のいい発射音、機能美に徹した銃そのもののデザインセンスに至るまで、──そのことごとくが面白く、興趣に富んでいたものだから、


(わたくしも。──)


 ああいうことをしてみたいという衝動が、胸の底からむらがり湧いて、とうとう抑えきれなくなって。


 ある晩、夫に打ち明けて、ひたすら頼み込んだ末、想い通じて報われて、斯かる道の手ほどきを請け負わせるまで漕ぎ着けたということである。


 単発式の銃を用いて、

 三、四尺ほど離れたところに立てた蝋燭のともしび(・・・・)を、

 空砲により吹き散らす。


 基本的な構え方や装填法を学んだ後は、およそそのような遣り方で腕に磨きをかけたとか。



 三年が過ぎた。



 他彦から見て、とみ子の技量は一定以上の水準に──実弾を籠めていいレベルまで十分達しきっていた。


(このぶんならば次の段階に駒を進めて構うまい)


 それが意味するところはひとつ。

 待ちに待ったる、実践の日の到来である。



“奈良と京都の間の棚倉の上の山で生れてはじめて山鴫を射ちとめた時の嬉しさは未だに忘れ得ませぬ、それも主人の撃った後から私が周章(あわ)てゝ撃ったのですからどちらの弾丸が当ったのかわからないのですれけど兎も角私の手柄にして貰ひました”



 上はすなわち、本人の弁。

 仲睦まじく、微笑ましくて結構だ。


 夫婦共通の趣味があるということは、やはり何かと得であるのやも知れぬ。




   ※   ※   ※




 禍福はあざなえる縄の如しと世に云うが、およそ鮎川義介にとって大正十二年という(とし)は、まさにそれを体現した一ヶ年であったろう。


 まず六月に、長男が生まれた。


 鮎川夫妻の間には遡ること三年前、既に長女が誕生し、「春子」と名付けてあったから、これで「一姫二太郎」の理想を完全に達成したこととなる。


 そうでなくとも家督を継ぎ得る男子の誕生、嬉しからぬはずがない。


「弥一」と名付けたこの赤子こそ、後にMITに留学し、ベンチャー投資支援会社・テクノベンチャーを興すに至る、鮎川弥一その人である。


 ところが喜びも束の間のこと、三ヶ月後の九月一日に関東大震災が発生。


 帝都の大半を烏有に帰した未曾有の災禍。それに呼応したかの如く、鮎川自身も肺炎に倒れ、暫くの間生死の境を彷徨った。


 家人の手厚い看護によってどうにか黄泉路を引き戻されはしたものの、半年以上は病床暮しを余儀なくされて、寝返りすら満足に打てぬ状態が継続したという。


 必然として、身体機能の低下が起る。使わなければ鈍るのだ。


 肺腑が漸く元の通りにガス交換を行うようになったとき、しかし鮎川の四肢はマネキンのそれにすげ替えられでもしたかの如く言うことを聞かなくなっており、彼をして


 ――これは本当に、おれの体か。


 と瞠目させるには十分だった。


 リハビリを行う必要がある。

 錆びついた関節にあぶらを差し、軋みを上げるもと(・・)を無くして円滑な回転を取り戻すのだ。


 そのために鮎川が目を付けたのが、空気銃という器具だった。


 空気銃といっても手軽にガスを注入し、BB弾を飛ばして遊ぶ、エアガンあたりを連想されては少々困る。ポンピングにより空気を溜めて、弾を一発込めたあと、引き金を落とし、発射したなら再度ポンピングからやり直しという、エア・ライフルと呼ぶべきものだ。


 四十路を越えて初めて触れたこの器具に、鮎川はたちまち夢中になった。庭先に的をしつらえて濫発すること、多い日には五百発に及んだというからただごとではない。彼の身体はみるみるうちに元の機能を回復させた。


 はじめこそ的にかすりもせず、遥か横手の障子紙に穴を穿ってばかりいたが、根がエンジニアの鮎川である。物事の理屈を究めることと、そこから更に一歩進んで、得られた知見を実地に活用する能力に関しては、玄人芸といっていい。


 都合二万発を撃ち終えるころにはある種のコツを体得し、ほとんど的を外すことがなくなった。構えもすっかり堂に入り、


 ──銃にも、人にも固有の癖がある。この癖に合せて、照準器の矯正が次いで行われねばならぬ。


 このようなことを言い出すに至っては、もはやいっぱしの射手と看做していいだろう。


 本人もそう感じたらしく、とうとう野外に飛び出して、動く的――生きた鳥獣相手に弾丸を撃つようになる。


 ところがこれが、笑っちまうほど当たらない。庭でやっていたのとはまるきり勝手が違うのだ。何故当たらないのか、どうすれば射止めることが出来るのか、解を求めて鮎川義介の研究心は再び嚇と燃え上がった。


 ――要は、動的状態の中に静的状態と同様の働きを見出すことだ。


 このあたりまで来ると、鮎川の文章はどこか禅的な色調さえ帯びてくる。



“動いている雀も、庭さきの的と同じになる呼吸を会得しないといけない。

 的も、雀も、撃つ呼吸に違いはない。道はやはり同じだということは、功を積むと判ってくる。動かないと同じ境地に、自分を慣らさなければならぬ。三年、五年と、撓まずにやっていると、遂には、玄理の扉を開くことが出来る。かくて私は、動中の静を味う楽しみを満喫したのである”



 どうであろう、なんとはなしに「剣禅一如」の香りがすまいか。

 何にでも「道」を見出したがる日本人の性情が躍如としている。


 はたせるかな、ついに「玄理の扉」をこじ開けてのけた鮎川は、宛然一個の猟師と化した。調子がよければ一日に百四十羽もの雀を仕留めることさえあったとか。


 猟犬すら引き連れて、実に本格的にやったものだ。


 ところがこの狩猟好みが、思わぬ椿事を招き寄せた。


 警察に拘束されてしまったのである。


 神社という、清浄を事とし穢れを嫌う神道施設の只中で、ムクドリを撃ち殺したことが原因だった。


 そう、鮎川義介が檻の中にぶち込まれたのは、巣鴨が初めてではなかったのだ。記念すべき第一回目の入牢劇について、以下、ちょっと綴ってみたいと思う。





   ※   ※   ※




 その日、鮎川義介は例の空気銃を携えて、小鳥撃ちに興ずべく牛込の自宅を後にした。


 大正から昭和へと、元号が移り変わったばかりの話だ。


 当時の東京は、今のようなコンクリートジャングルではない。藪も多く残されていて、野鳥のさえずりはずっと身近にありふれていた。


 いったん中央線国分寺駅を目指し、そこから真っ直ぐ南下すると、すぐにホオジロと遭遇できた。肩慣らしに数匹撃つうち、いつの間にやら大国魂神社のそばまで来ている自分に気付く。


 ふっと頭上を仰いでみると、おあつらえ向き、ひときわ高い梢の上に丸々ふとったムクドリが羽を休めているではないか。


 神域云々など思慮の外。トンボを追って知らず深山へ入り込んでゆく子供のように、標的以外目に入らない。素早く発射体制を整えるや、気息を整えトリガーを引き、見事命中、射落とした。


 が、不幸はそこから始まった。絶息したムクドリは大地ではなく、なにやら粗末なトタン屋根の上に落ちたのである。めいっぱい手を伸ばしても、ちょっと届きそうにない。そこで鮎川は仕方なく、建物の戸をぐわらりと開け、中にいた男に経緯を話し、


 ――迷惑料は払わせてもらう、屋根の鳥を取ってきてはくれまいか。


 礼を尽くして依頼した。

 ところがどっこい、男はにわかに気色ばみ、


「お前は何を言っとるんだ、警察だぞ、ここは」


 大層な剣幕で怒鳴りつけるからたまらない。

 騒ぎを聞きつけ二三人のお巡りが応援とばかりに寄って来て、鮎川義介を包囲する。



“これはムクドリではないか、禁鳥だ、おまけに神社の境内で鳥を打つなど、ふらちな男だととがめられた。その外、人のいる街道で鳥を打ったこと、免許状をもっていないこと、警察を侮辱したこと等々……いろんなことを数え立てて、なんでも六つか七つかの罪に当たるというんだ”



 たたみかけられたといっていい。

 列挙された罪状のうち「警官を侮辱した」の一条にかけては、おそらく自分の身の上を述べたことに由るだろう。


「待て待て、早まるな、おれは久原財閥――日産の名は未だメジャーでなきゆえに、こちらの名乗りを用いたであろう――の鮎川だ」


 素直にありのままを告白しても、正気で受け止めてもらえなかったに違いない。

 現に、


「そんなたいした経歴の人がこんなことをやるわけがない」


 と撥ねつけられてしまったという。それどころか、


「おのれ、本官を愚弄するか」


 と逆上されて、却って罪を増す始末。

 で、


「しばらくここで頭を冷やせ」


 そう突き放され、斯くて日産コンツェルンの創業者が場末のブタ箱にぶち込まれるという滑稽劇のにわか興行と相成ったわけ。


 牢の中には先客が居て、頭から毛布をひっかぶり、なにやらゴソゴソ不得要領にうごめく様は、どう見てもチンパンジー以外のなにものでもない。漂ってくる酒臭さから、酔って暴れてしょっぴかれたということは容易に想像可能であった。


 さしもの鮎川義介といえど、こんなところに長居したがる趣味はない。


 至急脱出の策を講じた。


 幸いに、と言うべきか。当時政権を担当していた第一次若槻内閣の司法大臣江木翼と、鮎川は懇意な仲である。


 檻の中からなだめ賺して頼み入り、なんとか執事に連絡をつけると、すかさずその執事から、前述の司法大臣江木翼へ一報が飛ぶ。


 はたして効果は覿面だった。電話のベルがけたたましく叫喚するのと、鮎川が解放されるのと、二つの間にほとんどタイムラグがない。


 足音も慌ただしく鍵を開けに来た巡査の顔は、変に引き攣り、さながらまるで雷にでも打たれた直後のようだった。


 権力というものの旨味について、これほど如実に実感できる景色も稀であったろう。


 そのまま鮎川は奥の部屋へと招き入れられ、座布団を敷かれるやら茶を出されるやら、精いっぱいのもてなしを受ける。


 が、最低限のケジメというのは警察の方でもつけねばならない。必死に機嫌をとりもちつつも、その一方で、所持していた空気銃や二十羽あまりの小鳥(えもの)たちは証拠品として押収したまま、鮎川の手には戻さなかった。


 ――当時の調書が見つかれば、さぞや面白いと思うのだが。


 かと言って鮎川に恨む気配はまるでなく、むしろ一連の記憶を茶にして楽しんでいた風がある。


 このあたり、流石の雅量と言うべきか。



  降る雪を

  見つめて寒し

  鉄格子



 それから二十年弱を経て、戦犯容疑をおっかぶせられ巣鴨の獄にぶち込まれたとき、鮎川が詠んだ歌である。


 初回と違い、二度目は随分と長引いた。


 結果は変わらず、容疑が晴れての無罪放免に終わるといえど、二十ヶ月の拘引は相当骨身にこたえたらしい。



  屠蘇なくも

  膳に瑞穂の

  香りあり



 こちらは昭和二十二年元旦の作。この日、入所以来初めて食事に日本米が供された。




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