重工業王数奇譚 Ⅰ
酒を飲むのは面白いです。酒ばかりやるんです。しかし酒はよくないやうです。どうも悪い。酒を飲んだ後で後悔せんといいのですが、後悔するだけが矢張り悪いんでせう。けれども、酒を飲んだ後では詩が出来ます。酔うてゐるうちではありません。醒めてからです。
(北原白秋)
銚子の口には狐がすむよ
コンが重なりゃだまされる
古くから、福島県のとある地方に伝承される俚謡である。
一献、二献と酒量の単位を表す「献」と、狐の鳴き声たる「コン」をカケてのけた格好だ。
悪い出来ではない。筆者はこれを、昭和五年の小雑誌、『禁酒之日本』八月号中に見出した。
むろん、今更言うまでもなく、私は大の愛酒家である。
憂いを払うこのありがたき玉帚を手放すなど考えられない。
だがしかし、己と反対側の立場から書かれた文章を読むというのも、たまには脳に良い刺激ともなるものだ。
それに何より、酒を攻撃する文章を、酒を片手に読むというのはなにやら背徳的な悦びがこみ上げて来て快い。肴として、実に上等なものがある。
たとえば灘の名酒の一つ、「白鹿」に向けられた批難の激しさときたらどうであろう。
命の雫といっていいこの飲み物に、禁酒家たちは「シタタカ毒水」とルビを打ち、醸造主たる辰馬吉右衛門を「不生産的事業主」とこき下ろした。
あまつ吉右衛門が事業を拡大するために、130万円の工費を投じて前浜町の一角に4500坪の大酒造蔵を建てようとすると、彼らはほとんど発狂同然の態と化し、“世をあげて操短、減給、解雇、罷業、怠業等々深刻なる不景気風が吹きまくってゐるこの秋に、その不景気の一大原因たる酒を造る蔵を建てようとはなにごとぞ”と口角泡を飛ばさんばかりにわめき散らして、吉右衛門主宰の宴会に出席した人々を「亡国連合軍」と罵倒するに至っては、とても素面では読めない下りではないか。
対立者の人格否定すら厭わぬ攻撃性は、なにやら昨今のヴィーガンに相通ずるものがある。
もっとも、総ての記事がこんな調子なわけではないのだ。いいことを言っている奴もいる。
衆議院議員・長尾半平がこの号の巻頭言として寄稿した、「美名の下に暗影あり」なる小稿なんぞ、非常な名文といっていい。
長尾はまず乃木希典の自決に触れ、その後群発した見るに堪えない醜状を列挙してあげつらっている。なんでも将軍の墓標に近き青山通りの小店には、当節乃木せんべいとか乃木まんじゅうとかいった品々が並び、この聖将の威光を借りて金儲けを企んだ輩が少なくなかったのである、と。
――一連の事実から読み取れるように。
兎に角よき名のあるところには、また必ず好ましからざる暗い影が伴うて、却ってその徳を傷つけることがあるものだ。我々が展開している禁酒運動にもどうやらその翳りが忍び寄りつつある、共産主義やマルキシズムなど、危険思想の隠れ蓑にされぬよう、大いに警戒せねばならない――要約すればこんなところか。
流石に後藤新平に見込まれて、鉄道省に引き抜かれただけはあり、よく事理に通じた忠言である。
敵ながら見事と言うべきか。大した「利け者」ぶりだった。
※ ※ ※
灘五郷の酒「白鹿」については、日産コンツェルン創業者、鮎川義介にもちょっといわくが付いている。
彼にはアル中の親友がいた。
ビール、日本酒、ウイスキー、焼酎でもワインでも、アルコールなら何でもござれ、一日の摂取量が二升を割ったらおれは死ぬと豪語していたその人物こそ伊藤文吉。何を隠そう、明治の元勲・伊藤博文の血を継ぐ男だ。
ただし正妻の子ではなく、伊藤家に行儀見習いに来ていた女性に博文が手を出したことにより、思いもかけず出来ちゃった、いわゆる「庶子」の関係である。伊藤博文にはそういう好色な面があり、彼の子であると認められぬまま市井に紛れた落とし種が幾粒あったか、今となっては知る由もない。
旧姓・木田文吉が博文と親子の対面を果たし、「伊藤」姓を名乗るようになったのは、まだ彼が旧制山口県立豊浦中学校に通っていたころ。春帆楼という、日清戦争の講和会議が営まれ、下関条約の締結された屋根の下にて両者は見えた。
この座に於いて博文は、
「おぬしが文吉か」
と、一声言い放っただけで至極あっさり終わったと、後に文吉本人が鮎川に向けて告げている。
とまれかくまれ、これで文吉の人生は一変した。
彼は親の七光を存分に活かし、それまで雲の上と仰ぐだけだった人々と熱心に交流してゆくこととなる。
その交際相手に、伊藤博文と「御神酒徳利」と称されるほど形影相伴う仲だった、井上馨が含まれないわけがない。事実、伊藤文吉は井上邸に出入りすること屡々で、その庇護を受けるところまた大だった。
必然として、井上馨の姪孫である鮎川義介とも繋がりが出来る。
この関係は、役人業から思い切って実業界に転身したのはいいものの、まず開始した満洲紡績会社が大失敗し、次いで入社した久原鉱業もその後の経営思わしくなく、多額の借財を背負ってにっちもさっちもいかなくなっていた文吉を、見かねた鮎川が救済してやったことでいよいよ昵懇なものとなる。
このとき文吉から鮎川へと送られた覚書というのが『百味箪笥 鮎川義介随筆集』にまるごと掲載されているので、折角だから引用しよう。
覚 書
自分儀、久原鉱業会社取締役として就任以来日尚浅く候得共、会社の現状に対し常々憂慮禁ぜず、種々其の対策に関し同僚とも協議を重ね、相当努力は尽し来りしも微力及ばず、遂に会社は昨年末の如き窮境に陥り、貴殿の高配に依り漸く難関を切り抜け得たる如き醜態を暴露したるは、誠に慙愧の至りに不堪候処、貴殿更に此度大勇猛心を発揮せられ、生命を賭し会社病根の根本的治療に没頭せらるるに至りしは、感激の至りに不堪、
自分の力不足を素直に認め、己の手ではどうしても解決できなかった難問をものの見事に捌いてのけた鮎川義介をほとんど救世主さながらに持ち上げている点、経営者としての資質はともかく、文吉の人の好さがにじみ出ている。
事実、鮎川は傾いていた久原鉱業を建て直し、更には日本産業と改称。
日産コンツェルンの一大基盤と成さしむるべく、導いてゆくこととなる。
伊藤文吉、更に筆を進めて曰く、
就ては余も此際私財は挙げて之を提供し、貧者一燈の用に供すべきは勿論の儀に候得共、余や財界に入りて日尚浅く、資産殆ど皆無なるのみならず、借財の多きに苦しむ実状にあることを告白するの余儀なき境遇に有之候次第に付、其の辺御諒察を乞ふと同時に、今後貴殿の活動に随従し、余の精神余の身体を以て及ぶ限り相働き申すべく、貴殿の高潔なる心事、勇猛なる決意に対し感銘措く能はず、爰に余の誠意を披瀝して誓約候也
昭和二年三月一日
伊藤 文吉
鮎川 義介殿
文吉の心底が秋風の如く爽やかなことを知り且つ認めた鮎川は、以降彼を信頼し、隔意なき相談相手として重用してゆく。
やがて大東亜戦争が勃発した。
国内の物資は極端なまでに欠乏し、生活必需品さえもが配給制へと移行する。
むろん、酒も厳しい統制を免れなかった。伊藤文吉が生存上不可欠とする「一日二升」など夢のまた夢、口に出しただけで「非国民」と罵られかねない贅沢であろう。
必然として彼は絶命しなければならない。
少なくとも廃人化は不可避であろう。アル中から酒を取り上げるとはそういうことだ。
しかし、そうはならなかった。伊藤文吉は戦時下を生き延び、1951年まで存命している。
彼をして六十五歳の寿命を保たしめたのは、やはり盟友・鮎川義介。政財界に隠然たる影響力を持つ鮎川は、その有利を発揮して、あの過酷極まる戦時下に於いても酒の供給路を確保していた。
──当時酒は不自由しなかった。というのは山下亀三郎翁との約束で灘の白鹿を用達させることに成功したからである。
この「白鹿」が、伊藤文吉の正気を守り抜いたというわけだ。
文吉が慟哭せんばかりに感謝したのは言うまでもない。
後、鮎川が巣鴨収容所に投獄されると、伊藤文吉は残された家族の面倒をよく見、更には岸本勘太郎と手を取り合って日産関係の調整役を見事にこなし、以って多年の厚恩に報いた。
伊藤博文と井上馨。
伊藤文吉と鮎川義介。
父親世代の縁の強さをそのまま継承したように。──彼らの五体をめぐる血は、互いを「二無きもの」として尊重し合ったようである。
伊藤博文は明治三十八年四月四日、井上馨に以下の歌を贈っている。
国のため尽す心を大君の
しろしめすをも厭う君かな
添え書きには、“盟友の虚心国に尽せる志を思いやりて”と記されていた。
井上はこれを表装して家宝とし、時々床の間に掲げ、眺めた。その情景は鮎川義介の網膜に薄れ難く焼き付いて、晩年まで語り草にしたという。
※ ※ ※
戦時中、鮎川義介が面倒を見ていた呑ん兵衛は、実のところ伊藤文吉のみでない。
寿司職人の今田寿治も、銘酒「白鹿」の恩恵にあずかっていた一人であった。
そう、日本きっての高級寿司店、「銀座久兵衛」の創業者たる彼である。
“久兵衛は酒が好きで、コップ酒を側に置いて隙を見てはコイツを後向きでグイとやる、飲む程に酔う程に益々調子が乗って来る。時節柄客には最高二合の割当しかできなかったが、彼には制限しなかったので偶には越境したりした。だが佳境に入るほど腕は冴え、弁舌もさわやかに彼一流の迫真の諷刺を繰り出して客を驚かす。これは、彼を無言の座長にして、僕が知り合いの政財界のトップレベルに、盛んにフリー・トーキングをやらせたのが、いつの間にか彼を門前の小僧にした次第である”
今田寿治が秋田県から遥々東京へと上ってきたのは、昭和初年の出来事という。
以来、寿司一筋に生きてきた。
木挽町の『美寿司』という店舗にて十年修業に明け暮れて、その後独立。独立までこれだけの日時を要したのは日本の職人社会にありがちな非効率性ゆえでなく、主に寿治が酒好きで、
「宵越しの銭は持たねえ主義だ」
そう吹いて、いなせに肩で風を切り、毎晩のように呑み歩いていたことに因る。
江戸気質の見本といって差し支えない。
実際問題、寿治をして「玉川の水で産湯を使った」クチであると信じ込んでいた手合いというのは数多く、この点鮎川義介に於いても、
“その挙措とか手際とか、客のあしらい方などをみていると、久兵衛こと今田寿治は、生ッ粋の江戸ッ子として誰も怪しまない。ところが実は秋田県の産なのである”
と、さも意外気に書いている。
今田寿治と鮎川義介。
初代銀座久兵衛と日産コンツェルンの創業者。
この両雄の初邂逅は、久兵衛が独立して未だ間もない、昭和十二年のことと云う。
当時、麹町三番町に居を構えていた鮎川義介。その邸宅にて園遊会を主催した際、招いた客に西園寺公一――「最後の元老」西園寺公望の孫に相当――が居たのだが、この西園寺が、久兵衛のパトロンに他ならなかった。
名を売らせてやろうとの親切心ゆえだろう。特に薦めて、園遊会に久兵衛を呼ばせた西園寺。果たして彼の目論見通り、鮎川はこの寿司職人にいたく惚れ込むことになる。
やがてゾルゲ事件が勃発し、少なからぬ情報をソ連に流していたことがバレてしまった西園寺。禁固一年六ヶ月、執行猶予二年の判決を下された挙句、爵位継承権すら剥奪された彼にはもはや、久兵衛のパトロンたるの余力などない。
今田寿治は宙に放り出されたような格好になった。
庇護を失ったばかりではない。逮捕される直前、西園寺は海軍の推薦で南方の司令官職が既に半ば内定しており、いざ赴任の暁には寿治を同行させる所存であった。
――そのための準備をしておいてくれ。
こう言われては、嫌と言えようはずもない。
既に店も他人に譲り、用意は万事整えた。一声かかれば、即座に出立可能な態勢にある。
にも拘らず、なんということであろう、彼にそうせよと依頼した西園寺公一ご自身が、アカのスパイに関与した廉でしょっぴかれてしまうとは――。
(どうしよう)
この時ばかりは、さしもの寿治も途方に暮れた。
が、捨てる神あれば拾う神あり。どん詰まりの窮状を、鮎川義介がぶち破る。
“当時彼は兵役に関係はなかったが、マゴマゴしていると徴用になり、あの手を汚すのは勿体ないと思って、北村洋二の主宰していた日産輸送飛行機会社の嘱託名義にして僕の紀尾井町の屋敷に住み込ませることにした”
以来、寿治は敗戦までの数年間、鮎川屋敷で政財界人を相手取り、得意の腕前をふるい続けた。
タネは鮎川が日水系列より引っ張って来られるから問題ない。困ったのは、むしろシャリの方である。寿治は妥協を許さぬ男で、
「庄内産でなければ、握るわけにはいきませぬ」
と頑固に主張し、ついにはみずから現地に赴き、米を掻き集めることまでやった。
むろん、闇米以外のなにものでもない。
帰路の途中で手入れを食らい、ひどい目に遭わされたのも一度や二度でないという。
しかし彼はへこたれなかった。
懲りずに庄内米にこだわり続け、満を持して握った寿司は、確かに絶品としかいいようがない出来だった。後に巣鴨プリズンにぶち込まれたA級戦犯のほとんど全部がこの味を堪能済みであり、運動などで顔を合わせるたびごとに、
「あの味を思い出すと、なんともたまらんのう」
懐かしがってやまなかったとのことだ。
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残れる寿司の
香りかな
鮎川自身、このような歌をつくっては、追憶に耽った形跡がある。
鮎川といい寿治といい、なかなか並の人生を送っていない。波乱万丈、名状し難いものがある。
そうした苦難を人の縁と持ち前の骨太さとで乗り切ってゆく箇所にこそ、この漢たちの魅力はあり、翻っては一代にして己が牙城を築き上げた由縁もまた存するのであったろう。




