民俗瑣談 Ⅱ
草木が日光を慕ふが如く、民族は海口を求めて成長する。
(蘆田均)
一網に
百萬燈や
蛍いか
富山に伝わる歌である。
詠み手は知らない。
名も無き地元の民草か、いつかの旅の数奇者か。
はっきりと断言できるのは、ご当地名物、ホタルイカ漁を題材にした代物であるということだ。
今年――すなわち令和六年春季に於いては、またずいぶんと「爆湧き」だったと聞き及び、景気の良さに、ちょっと便乗したいというか、あやかりたい気分になった。
その衝動に誘われるまま、少し書く。
本来、深海を棲み家としている蓋し小形のこのイカが、日本の理学界隈に興味を持たれだしたのは、遡ること百二十年、明治三十七年時点。言わずと知れた日露戦争まっさかり。
海の向こうで何十万もの兵隊がドンパチやってる最中でも、学問の進歩は停滞しない。させるわけにはいかないと、気合の入った碩学が、象牙の塔にも居たようだ。
翌年四月、東京帝国大学発で富山県宛て、ホタルイカの標本送付の依頼があって、それが完了するかせぬかと言う内に、今度は人が乗り込んできた。理学士・渡瀬庄三郎の、直々の出張、現地入りである。
“博士が光りの海に舟を浮かべたのが五月二十八日の晩、てうどバルチック艦隊撃滅の翌夜にあたり、科学者の冷静を讃へる挿話として土地の語り草となってゐる”――とは、『東京日日新聞』及び『大阪毎日新聞』共著、昭和十一年刊行の古書、『天然記念物を探る』中の一節である。
博士とは、むろん渡瀬庄三郎を指していて。
“蛍いかも味覚の上で大した天賦をうけてゐない。だから近年にいたるまで肥料として稲田の土に埋れる以外格別利用法も講ぜられてなかったが、何しろ名物の誇りを恣にした以上郷土でも見す見すこれを埋める損失に気がついて現在では缶詰、伊助煮、金平糖など芥子粒を散らしてビールの肴に登場して来た”
これこの通り軽妙洒脱な筆致で以って日本全国津々浦々の天然記念物どもの概要説明に努力した、なかなか便利な本だった。
甲斐犬について紙幅を割いてくれているのも個人的にはポイント高い。
“西八代郡栄村は猪に悩まされ、村では賞金を出して全国の猟師に猪退治を呼びかけてゐるほどであるが、一匹の甲斐日本犬がよく数匹の猪を相手に血みどろになって格闘して主家を護ったといふ表彰の価値十分な話もあるほどで獣猟には日本一といはれてゐる”。天晴れ見事な奮戦、血戦、ご活躍。戦闘力もさることながら、傷だらけになろうとも、一所懸命、逃げない忠が素晴らしい、より深甚に胸を打つ。
ひとりの甲州人として、筆者も鼻が高かった。
……なに、単に頭に血が昇り過ぎて、退くこと忘れただけだろう?
そっちの方がすぐカッとなる、甲州気質によく適う?
やめなされやめなされ、無粋な物言いはやめなされ。
はんでめためたごっちょでごいす、夢くらい見させておくんなし。
※ ※ ※
小学校のカリキュラムにも地方色は反映される。
九州鹿児島枕崎といえば即ちカツオ漁。江戸時代に端を発する伝統を、維新、開国、文明開化と時代の刺戟を受けながら、倦まず弛まず発展させて、させ続け。昭和の御代を迎える頃にはフィリピン諸島や遠く南洋パラオまで、遥々船を進めては一本釣りの長竿をせっせと投げ込みまくったという、意気の盛んな港町。
かかる熱気はひとり港湾のみならず、小学校の授業風景にまで伝わり、浸潤し。通常の教科書以外にも、手製の海図を壁に張ったり、配ったり。カツオを乗せてやってくる暖流の長大を指し示し、
――我らの活路は南方にあり。
と煽った教師もいたようだ。
そりゃあ漁場開拓も進む道理であったろう。教育はまさに百年の計。カツオ節生産日本一の栄光をやがて恣にする、地道な努力の一環だった。
ごく個人的な情念をぶちまけさせて貰うならーー。
海なし県に生まれ育った所為なのか、およそこの種の話には、妙にわくわくさせられる。
浪漫を感じて仕方ない。信玄公もきっとそうだったのだろう。駿河を得た日の嬉しさは、実利や打算を飛び越えて、堪らぬ強さであったはず。
長年「海」に憧憬れ続けた、その心境に、大抵の甲州人ならば共感可能だと思う。甲斐の天地はどうしようもなく、確かに一個の盆だから――。
まあ、それはいい。
話頭をカツオに引き戻す。
薩摩ではなく、紀州だが。現に長年、カツオ漁に従事して、太平洋の苛烈な日射と荒い潮風を浴びまくり、皮膚をすっかり赤銅色に染め上げた、漁師の直話が奇しくも伝えられている。
彼の名前は井上辰彦。
「まあ、惚れた女を手に入れるのと丁度同じ要領ですね」
洋画みたいにウェットに富んだセリフから、その話は開始まった。
“こゝへまづ大変好きな人があってやっと会ふことが出来たといふのですぐさま単刀直入に求婚の申込みをしたとしたらどうでせう、是は野暮と云ふものでそこによろしく恋の駈引あって然るべきもので、是が即ち鰹魚群飼附の苦心と技術のコツなんです、漸く発見した魚群の鼻先にいくら好餌をさしつけても十中八九は失敗です、焦らず騒がずぼつぼつ機嫌もとる事でまづ後の方でマゴマゴしてゐる奴に生きた鰯の餌をちょいちょい投げてやります、先方に思召のない時はいくら撒いても見向きもしない、こんな場合は男らしくあっさり諦めてさっさと引揚げることで、もし其餌をパクリとやったらしめたもの、彼女は確にこっちのものです。やがて魚群は進行を止めて、「なんだなんだ」てな具合に船の周囲に寄って来ます、そこを見はからって全力を挙げて生餌を撒けば先方はもう夢中だ、よって愈々船を止めて習慣によって左舷を風下にして全員又左舷に並列して船頭の命令一下竿は上下に躍動して此に痛快な鰹釣りが開始される”
立て板に水を流すが如し。
頭の中に自然じねんとその風景が描かれる、見事な談話術である。
これも教育の賜物か。流石に二十世紀ともなると、漁師もなかなか弁が立つ。
権利の主張や、労働条件の改善のため。立たなければやってられない時勢であった。
※ ※ ※
金井平兵衛は広島の牡蠣商人である。
明治三十五年、神戸在住のアメリカ人から発注を受け、合衆国に広島牡蠣を輸出した。
すると翌年、またもや同じ業者から、牡蠣を頼むと注文が。
(お気に召したか)
ウチの牡蠣の品質は独り内国のみならず、舞台を「世界」に拡張げても、十分通用するらしい――。
充足感を噛み締めながら、せっせと作業に取り掛かる。
この両年で平兵衛が合衆国に輸出した広島牡蠣は、およそ二千五百俵。
船便により太平洋を横切って、目指すは北米大陸西海岸の最北部、ワシントン州はべリンハム。カナダまでほんの三十キロを控えるばかりの港町に設えられた養殖場が、この大量の二枚貝どもの取り敢えずのゴールであった。
日本からアメリカへ、種牡蠣輸出の長い長い伝統は、金井平兵衛のこの挙を以って発端とする。
そもそも論を展開すれば、西海岸にも土着の牡蠣は居ることは居た。
オリンピアという。早い話が在来種である。白人入植以前から、ネイティブアメリカンたちに愛好されて来たという。
しかしサイズが小ぶりであった。
おまけに棲息地もごく限られた範囲であって、文明国家建設後、膨れ上がったオイスター需要をとてものこと賄いきれない。
そこで従来は反対側の国土から――東海岸の諸州より牡蠣を集めて列車で輸送していたのだが、なにぶん大陸を横断せねばならぬため、かかる費用も馬鹿にならない。かてて加えて、せっかく取り寄せておきながら、移殖後の成績は不良であった。
東部に比べて水温の低い所為なのか、それとも輸送に手落ちがあって生理的に痛むのか、あるいはその両方か、いやいやどっちも間違いで、まったく未知の要素が何処かしらに潜在し、悪さをしてやがるのか。
ともあれ現状はソロバンに合わぬも甚だしいと言うべきである。
そこで西海岸の業者らは、活路をむしろ海路へと、太平洋の彼岸たる、「日本」に見出すことにした。
金井平兵衛に注文が飛ぶ三年前、明治三十二年――西暦にして一八九九年の段階で、ワシントン州漁業組合長官と東京帝国大学教授・箕作佳吉博士の間に文書を介した接触が繰り返し記録されている。内容はむろん、牡蠣に関して。ずいぶん意見を交わしたようだ。
畢竟するに平兵衛への注文も、場当たり的な思いつきの産物でなく、綿密な事前調査に基いた、成算ありきの試みだったというわけで。
果たして期待は成就した。広島牡蠣――パシフィック・オイスターはワシントン州に素敵に根付き、現代でもなお一般的な種として愛好されているという。
開国以来、アメリカから日本に流れ込んだ品々は、有形無形問わずして、ほとんど計上不能なまでに数多だが。か細いながら逆の流れも、確かに存在していたのである。




