民俗瑣談 Ⅰ
日本人はその資源の貧弱さから、人間については米国人と全く反対の考えをもつにいたった。米国では資源や機械が多いので、人間は人間の仕事をする。日本では資源が乏しいので、人間が機械の仕事をしている。
(フランク・ギブニー)
四国は高知県内の良心市の習俗は、昭和どころか大正中期の段階で、既に評判になっている。
左様、良心市。
無人販売所と言い換えてもよい。
掘っ立て小屋の屋根の下、籠なり笊なり何なりに野菜や果実を盛り上げて、手書きの値札と料金箱とを設置したきり、別に見張りも立てもせず、客の正直に支払いの一切を依頼する、そういう形式の店舗のことだ。
田舎の路傍でよく目に入る景色であろう。
加藤咄堂の大著たる、
“高知県に入れば、道路に蓆を布きて菓物類を並べたゞ代価を附したるのみて一の番人なく得んと欲するものは相当の代価を置きて持ち去り、店頭に代価を付して草鞋を吊し、傍くに竹筒を置けば、代価を竹筒に入れて其の草鞋を持て行き、未だ曾て代価を置かずして持去り又は不足して行くものもないといふ”
『日本風俗志』に収録された上の記述の如きなど、まさにそうした良心市の典型だ。
支払いを誤魔化す者がないのは南海土佐の麗しき人情といってよく、咄堂はまた、斯くの如き美風のよってきたる根本として、弘法大師の大威徳を挙げている。
四国八十八箇所めぐり、お遍路さんの行き交うところ、彼の地の霊的充実は、誰にも疑う余地がない。
そういう霊地で不善を為せば、「大師の冥罰忽ち至ると信ぜられて居」ればこそ、こんな無防備、特殊商法も罷り通る、と。
「自己の使命なるものに明確な信念を持ち、自分は神の計画の一部であると信ずる人と、かかる信念を有さない人との間には、奮い起こせる力に於いて天地ほどの差異がある」と喝破したのは、確かオリソン・マーデンだったか。
前者は勝利し、後者は落伍するのだと、そういう意味の文脈にたぶん繋がっていた筈だ。
なるほど確かに宗教の感作は馬鹿にならない。
“政府の人を治るは法を以てす。而して世の中に現れたる者を制す。故に心中に盗を為さんと思ふとも、手を出さぬ間は政府も之を責むるの権なし。然れば心を治るは何人の任かと云へば、宗教に外ならざるべし。されば政府は身体を支配し宗教は心を支配すと云ふべし”――福澤諭吉の言ったが如く、上手く使えば人間社会をより好ましき方角へ、効率的に向かわせることが出来るであろう。
まあ、大概の連中は「上手く使う」のに失敗し、迷信を真理と、ペテン師を救世主と妄断し、陶酔を深めた挙句の果てにとんでもない魔道へと沈淪してゆくものではあるが。
それもまた人の世の常態だろう。
※ ※ ※
およそ七秒。
紀州伊都郡四郷村の某が、柿の実一個を丸裸にする時間であった。
特殊な器具は用いない。ごくありふれた包丁一本のみを頼りに、十秒未満でくるくると、柿の皮を剥きあげる。
ひとえに神技といっていい。
人間の手は、指先は、これほど精緻に動き得るのか。
機械顔負け、残像さえも伴いかねない俊敏ぶりに、見物に来た誰しもが息を忘れて見入ったという。
――わたしゃ四郷の柿仕の娘、着物ぬがれて白粉つけて、華の浪華の祝柿。
大正・昭和の昔時に於いて近畿地方で口ずさまれた上の里謡の「柿仕」とは、まさにこうした早業を体得済みな村人どもを指したろう。
参観者には、ジャーナリストの顔もある。
新聞に、雑誌に、はたまたラジオの台本に。――彼らが走らせたペンにより、四郷村の勇名は徐々に四方へと広まった。
過去に幾度か触れてきた、下田将美なぞもまた、そうした宣伝者の一人として数え入れていいだろう。
『大阪毎日新聞』の禄に与るこの記者は、まず四郷村の沿革を――この地に於ける串柿作りが今に始まったことでない、遠く寛永、江戸時代開幕初期にまで遡り得る伝統産業であるのを明かし、更に続けて、
“歴史が古いだけにその製造方法も組織も大分現代ばなれがしてゐる。秋になって満山の柿の木が累々と実を結ぶとどの家でも柿もぎに忙はしい。もがれた柿は山のやうに積上げられる。柿は皮をむいて干されるのであるが、柿むきは全村の共同作業となってゐる。息子も娘も庖丁一本もって集る、大勢の柿むきは今日は誰の家、明日は誰の家と順々に各戸を尋ねて柿むきにかゝる。
昔はかうした柿むきの人達にはもともと村の共同作業であるのだから、仕事の合間に餅でも馳走してやればいゝことになってゐたさうであるが、今日ではさすがにこの長閑な風習は続かず柿いくつで何銭といふ賃金制が多くなってきた”
斯くの如き情景を、その紙面にて書き表したものだった。
文明開化は必然的に、人の性根をすれっからしに導くらしい。
ちなみに今更感が強いが、そも串柿とは何ぞやというと、正月祝いの飾り物。
鏡餅に添える目的の品であり、かっ喰らうにはあまり向かないとのことだ。
※ ※ ※
伊賀の消息を伝える書誌に「月見粥」というのがあった。
昭和四、五年あたりまで、彼の隠し国の人々が日常的に口にしていた品らしい。
なんだ、雅な名前じゃないか、囲炉裏がけした土鍋の中に鶏卵でも落とすのか、乱破どもにも、あれで存外、もののあわれを解すゆとりがあったかい――と先入主を広げていたら、とんでもない。行から行へと読み進めるに従って、思わず真顔にさせられた。
粥は粥でも、あまりに米の量が少なく、水増しされているために、箸をつける前であろうとはっきり月が映じて見える。貧困を象徴するような、そういうおそるべき代物が、伊賀に於ける「月見粥」の正体だった。
こうなると名前自体の風雅さが、ある種深刻な皮肉のようにも見えてくる。
物心のつかない幼児が、煮えた粥鍋をひっくり返し、全身火傷で死んでしまった。そんな惨話が地元紙の三面部分に掲載されたこともある。やるせなきかな、ただでさえ伊賀は子供に関してむごい逸話の遺る地だ。飢饉相次ぎ、堕胎・間引きの全国的に珍しからぬ江戸後期、伊賀でも当然、その風習は存在していた。
少々個性的なのは、伊賀人たちはそれを表すに暗号めかしき隠語を開発したことだ。間引いた子が男なら、
「山遊びへやった」
と称し、また女なら、
「蓬摘みにやった」
と称す。
東北人士が単純に「ぶっかえす」とか「うろぬく」とか言っていたのと比べると、やはり上方文化圏だなと再認せずにはいられない。言い回しの妙により、さらりと本質をはぐらかす。日本語の行使に巧みであった。そうやって、苛酷すぎる現実を直視せずに済むように取り計らっていたのであろう。
しかし後年、研究者が出て、実状を赤裸々に暴いてしまった。「住民の体格も不良であって、多くは胃下垂にかゝり、腹部のふくれたのが、伊賀人の特徴」であるのだと、寒心すべき実態を、京都帝国大学の、地理学教室所属の文士、村松繁樹の筆によって――。
“土地開墾の歴史古き伊賀では人口の増加するにつれて、渓谷や山間の小窪地に耕地を求め続けて、今や驚くべき山上の窪地や傾斜地が耕されてゐるが、それでもそこよりとる物産のみでは生活が出来ない。これは土地が狭いのみでなく、また地質の不良のためである。若し冬季関西線に乗って伊賀を経たならば、田には一面水をたゝへてゐるのを見るであらう。伊賀の山間の田圃は不幸にして粘土質が多く、一毛作で冬の麦作が出来ないから、田は水を張っておくのである。もっとも水を湛へる他の理由は、夏季降雨量少ない盆地で比較的灌漑水に恵まれず、しかも一旦田が乾燥して亀裂を生ずれば、その復旧が甚だ困難であるので、その旱魃より免れんとし、冬はいはゞ貯水池の用をなしてゐるのである”
村松は更に語を継いで、「かうした天産豊かでない国では、住民の生活が極度に切りつめられてゐるのも必然の結果」と診断し、そこから具体例として陳列べられていったのが、つまりは上記の「月見粥」であり「間引きの隠語」等だった。
個人的には良き概説と評したい。
お蔭で従来、伊賀に対してただ漠然と抱いていたイメージが、だいぶ塗り替えられたから。
啓蒙はいくら得てもいい。
祖国にまつわる内容ならば尚更だ。




