日本胃袋奇妙抄 Ⅱ
いくら兵隊を作っても、腹が減っては戦は出来ない、ワラ人形では仕様がない。財政の伴はない軍備拡張は慎むべし。
(木村久寿弥太)
うどんやそうめんあたりでは、ちょっとこういう情景は成立するとは思えない。
昭和二年も残すところ五十日を切るか切らないかといった、十一月十日の話。東京府庁に「そば職人」を名乗る壮漢三名が突如押し掛け、知事に面会を求めるという椿事があった。
当時の府知事は平塚広義。
「ヌラリクラリ党のエキスパート」と呼ばれた男。
自己を韜晦することに異様に長けた人物で、その技量により政党色すら灰色の中に埋没せしめ、政友・憲政・何方の手に政権与党が落ちようと、彼一人だけは常に首を繋ぎ続ける、──粛清人事を回避して出世を繰り返したゆえに、冠せられた渾名であった。
そういう半分、政治的妖怪みたいな者にしてみても、
(なにごとだろう)
この訪問は不意打ちであり、意想外なことだった。
いぶかしみつつも通してみると、
「実は明後日明々後日、十二日と十三日の両日にかけ、下谷池端の『百草園』にて『風流そばの会』なる催事を開く所存でありまして」
本当の江戸前そばの魅力を広めたいという趣旨に基くこのイベントに、「是非ともご足労願いたい」と頭を下げに来たのであった。
一応このそば職人らの名前を列記しておくと、船井勝太郎、杉山喜代太郎、岡本義の計三名とされている。
「ああ、それはおもしろい」
二つ返事でかるがると、平塚知事は頷いた。
快諾したといっていい、事前に何のアポイントメントもなかったにも拘らず──。
繰り返すが、他の麺類、うどんやそうめん等々で、同じ反応が果たして期待できたか、どうか。やっぱり江戸はそばなのか。香気といい色艶といい、一種特殊な格調高さを備えているということは、確かに否めぬ事実だが。
とまれかくまれ平塚知事を筆頭に錚々たる面子を招き、『風流そばの会』は無事開催と相成った。
卵切り、茶そばに始まって、味蕾の悦び以外にも俳句・川柳・都々逸即吟、落語に藤間流舞踊、神楽舞の興行さえもプログラムに組み込んだ賑々しさであったとか。
雅としかいいようがない。風流心は、なるほど大いに満たされたろう。看板に偽りなしという訳だ。
──奇遇にも。
この一件とちょうど同時期、まさしく前後するように、帝都・東京ど真ん中、政府中枢に置かれては白川義則大将が、
“兵器がいかに精鋭でも、いくら優秀な将校が殖えても、兵卒が駄目では国軍はもぬけの殻である。十年前に一銭五厘であった酒保のそばかけが今では五銭にもなってゐるのに兵卒の給与は十数年来びた一文も上ってゐない、こんなひどいことを何時までもほっておかれない”
と、陸軍省を代表して熱弁し、しみったれた大蔵省の財布から兵卒優遇用の予算を吐き出させんと齷齪していたものだった。
上級にも、庶民にも。
およそ日本人にとり、そばは定番の食い物である。
※ ※ ※
昭和の初頭ごろである。
日本人の体質改善策として、もっと砂糖を摂るべしと、おかしな事を主張しだした奴がいた。
砂糖を摂って、エネルギーを補給して、脳と筋肉、双方の力を養って、もっとしっかり文明人にならなくちゃあならない、と。
その証拠に見よ、日本に於ける一人当たり砂糖消費量14㎏に対照し、目下世界を牽引しているアングロサクソン民族の砂糖消費量たるや、イギリス49㎏に、アメリカ48㎏と、三倍以上の大差でないか。
バンバン砂糖を舐めてこそ、彼らに追随するだけの馬力も湧かせられるのだ、と。
妙ちくりんな小理屈を、さる研究者が捏ね上げた。
シュガーレスの心掛けが浸透しきった現代人からしてみれば、とてものこと受け入れ難い、信じられない物言いだ。
実際、愚劣な論である。
一も二もなく欧米諸国に盲従したがる、西洋の真似をすることで能事足れりとほくそ笑む、人間性の軽薄な、頭でっかちの青二才。臆面もなくこんな説を口にするのは、大概そんな奴だろう。
さもなくば製菓会社の回し者、金さえ積まれりゃいくらでも都合のいい言を吐く、腐儒の類のどちらかだ。
当時に於いてもこの説は、少なからぬ批難を浴びた。
「ただでさえ日本人の口腔内衛生は悪化の一途をたどっているのに」
これ以上虫歯予備軍を量産されてたまるかよ──と。
憤慨も露わに書いたのは、随筆家にして料理人、菜食主義への傾倒も少なからず窺える、本山萩舟なる男。
“都会地にあっては、青年に達した位の男女で、義歯の一本もないといふのは、鉦太鼓で捜さねばならぬ位。甚だしいのは小学児童で、金歯を光らせながら通学してゐるのがある”現状にも拘らず、更にこの上、日本人の食卓に砂糖をどばどば注ぎ込めと奨むなど、正気の沙汰とは思えない。
代償として国民全員総入れ歯を余儀なくされる「文明化」なぞ、むしろこちらから願い下げ。“われ等の同胞の日本人は、そんな意味の文明であったら、必ずしも文明人と呼ばれるには及ばぬ。砂糖の濫用を慎んで、明治以前の日本人の如く、あるひは野蛮人の如くでもよい、強健なる歯と骨との持主になるべきではないか。日本人の常食とする穀菜類には、自然に適当に含まれてゐる糖分がある。いろいろの原因と事情との為に、それのみでは不足するところを補ふ程度に用ふればよい。現在ですら濫用の傾向にある砂糖の消費量を、これ以上に増進せよなどゝは、以ての外の謬論である”、と。
さも小気味よき啖呵を切ったものだった。
なお、ついでながら、2022年のデータでは、15.3㎏が、日本に於ける一人当たり砂糖消費量であるそうな。
アメリカは30.8㎏と云う。世紀を跨いで、三分の二以下に落ちている。健康志向の跋扈が招いた結果だろうか。それでも日本の二倍以上をキープしているのは流石。まあ何にせよ、「甘いものはほどほどに」。筆者自身幼少期、よく聞かされたフレーズが、結局真理であるようだ。
※ ※ ※
ある種の竹はその節に、甘味を蓄積するらしい。
本多静六が書いている。
この筆まめな林学士、日本に於ける「公園の父」とも渾名される人物は、人生のどこかで台湾を、――それも高雄や基隆の如き都市部に限らず草深い地方をも歩き、その生活を字面通り支えるに、竹材がどれほど寄与しているかを目の当たりにして、俄然この被子植物に興味を持った。
彼の起こした感興たるやどれほどか、
“竹の柱に竹の屋根、竹の寝台に竹の壁、椅子も机も桶も杓子も竹ならざるはなく、陸を行くにも竹の輿、海を行くにも竹筏、川には竹の橋を架し、家には竹の林を繞らし、飯を炊くにも竹を焚き、酒を買ふにも竹の筒で、竹がなければ一日も生活することは出来ないほどである”
いまにも手足を舞わせんばかりの、はずむようなこの文体に、くっきり浮き彫りになっている。
そろそろ話頭を「竹の甘味」に引き戻す。
これについては竹内叔雄の随筆にも確認できない。
「竹博士」のお株さえ、ともすれば奪いかねないような本多静六の博覧強記ぶりだった。
曰く、
“熱帯産の数種の竹類中には、節間中に清澄な甘味の液を含有して、旅人の渇を医するものがある。其味砂糖に似て居るので竹砂糖と云ひ、約八十六%の珪酸を含有する。インド地方では古来之を貴重なる医薬とし、殊に発汗剤として用ゐた。其後近隣諸国に輸出せられ、ペルシャ人は之を「樹皮の乳汁」と称し、アラビアでは古来 Tabaschir と称し、今猶アジア南部に於ける貴重薬として貿易品の一となって居る”
実際嚥下したならばどんな刺戟が来るものか、ちょっと試してみたくなる。舌で、喉で、腸で、賞味したい代物だ。
ココナッツシュガーが市民権を得たように、竹砂糖もいつの日か、日本の食卓に珍しくなくなる、そんな展開があるのだろうか?
せいぜい期待しておこう。
※ ※ ※
あるいは引っ掛け問題として、漢検にでも出題された例があるんじゃないか。
「酒」の部首はサンズイではない。
酉である。
こいつをパーツに含んだ文字は、大抵酒か、さもなくば発酵製品にかかわりが深い。
酌、酔、酩、酢、酪、醤あたりが代表的だ。「醵」や「酋」なんかもまた然り。寄付金集めの古風な呼び名を「醵金」というが、本来「醵」の字はただこれだけで「金を出し合って酒を呑む」という意味を持つ。
「酋」の方もよく似たものだ。「酋長」といって、専ら未開部族のオサを指す単語に用いられるが、実はこれ一文字だけでも「よく熟した酒」を表している。
飲酒によって得られる酔いは、屡々神秘体験に役立てられた。
祭政一致の原始社会では、王は同時に神官でもある。よりよき酒を醸せること、すなわちより強烈に神と繋がる能力こそが、オサとして推戴される第一要件だったとしても、不思議がるには及ぶまい。
現に戦前、台湾北部に麹づくりを酋長から酋長へ、一子相伝の秘法として継承してきた部族が居ると、住江金之なる醸造学者が報告している。
住江金之、後の東京農業大学名誉教授。同校に醸造学科が設置された際、初代科長を務めた男。
「酒博士」の異名が示すそのままに、紛うことなき斯道の権威といっていい。
この人はやはり台湾で、口噛み酒を賞味している。そう、ごく簡単に作製可能な利点から、ヒノエ島開拓過程でも散々っぱら世話になったあの酒だ。
協力してくれたのは、台東県を縄張りとするプユマ族。漢字では「卑南」と書くらしい。
かつての世では清朝から冊封を受け、卑南大王を名乗り、威を逞しくした人々である。
それだけに文化水準も割合高く、平素嗜むための酒は輸入品たる中華麹を使って醸し、古式ゆかしき口噛み酒は、祭礼用の「特別品」に化しきっていた。
その祭礼の儀の席に、混ぜてもらった格好である。
“…私は之を実見したが、十五六から十七八位の少女が集り、少し柔かく炊いた飯を三本の指で撮んで口に入れる。永く噛んで甘くなったところで平たい笊(笊ではあるが笊目に生甘藷をすりこんで水が洩らぬ様になって居る)に吐き溜めておく、一昼夜位してから飲用するのである。私の飲んだところでは粥状をなし、甘さも甘酒程度で、まだ酒精分は殆どなかった”
口噛み酒と相並んで原始的な酒といったら、やはり「猿酒」が頭に浮かぶ。
野生の猿が木のうろ等に貯めておいた果物が、自然じねんと発酵し、やがて酒気を帯びるのだ。
つまりは偶然の産物であり、お目にかかれる機会は滅多にない。
都会人ではまず無理で、田舎者でも余程の幸運を必要とする。
『隻狼』では火を吹くほどに辛い酒、すなわち「修羅酒」として描写されたが、信州伊那の民族学者・向山雅重の報告は違う。およそ真逆の性質を持つ。
“明治四十年代のことだった。白骨温泉の新宅の老人から猿のつくった酒を御馳走になったことがある。
甘い、アルコール気分がない、甘ったるい、水飴でもないが、酒とより思へぬもの、味醂でもなく、とろんとしてうまいもので、一寸赤みのある、ぶだうのやうななんとも判断できぬ色であった。やまぶだう、あけび、ごむし(まつぶだう)、ひえだんご、これだけは確かに入ってゐると思ふ”
まあ、しょせんは猿の拵えたる代物だ。
一定の規格なぞあるはずもなく、地域によって味が異なるのは当然といえる。
だいたい葦名の猿とはなんであろう、巧みに二刀を操って狼を膾に刻んだり、首を斬り落としても動きを止めず、どころかいよいよ暴威を増して烈しく攻めて来たりする、異類中の異類でないか。
あのいきものに、普通を求めた筆者の方が愚かであった。そりゃあ醸すさ、修羅酒程度。まったくあの土地一帯は、風雪までもが殺気を帯びて吹きすさぶ。
なにやらひどく脱線してきたようなので、このあたりで切り上げる。
酒を語ると大抵いつもこんな具合に話頭の目まぐるしい転換を呼び、全体のまとまりを欠くのが自分の癖だ。
酔っ払いの千鳥足でもあるまいに。落ち着けないものである。




