天地之間、黄金世界 Ⅱ
一身の衣食住を安くするも銭なり、父母妻子を養ふも銭なり、家内団欒の快楽も銭なくしては叶はず、戸外朋友の交際も銭に由て始めて全ふすべし、慈愛を施すも銭なり、不義理を免るゝも銭なり
(福澤諭吉)
大正六年、折から続く大戦景気は未だ翳りの兆しなく。日に日に新たな成金誕生れ、儲け話に湧きに湧く、あの御時勢の日本をさる高名な倫理学者が行脚というか視察して、
──これでいいのか。
と、将来に大なる不安を持った。
学者の名前は渡辺龍聖。
小樽高等商業学校・初代校長。アメリカ、コーネル大学で、哲学博士の號を取得った俊才である。
“吾輩は先般北陸全部滋賀愛知県下の甲種商業学校を視察巡廻したが何れの地方も多数の住民及青年子弟が成金を夢みて日常の真面目な仕事を厭い浮っ調子となってるのは誠に慨嘆に堪へぬものがある”
予算と時日の都合等、等、なんやかんやあったのだろうが、近江までしか行けなんだのは残念だ。
もし渡辺がもう少し脚を延ばして京阪地方を覗いておれば、「慨嘆」とやらを更に深めて自説を一層補強する、格好の材料を得ていたろうに。
実はこの時期、該地方では警官が大いに不足していた。
辞表の提出が停止らないのだ。
ノラクラ公僕しているよりも、野に下った方がずっと稼げる、得である。そう判断し、せっかく纏った制服を惜しげもなく棄ててゆく。流石大阪人らしい、利に聡きこと日本一とも称えられるお国柄。街を守護るもクソもない。一切、金、金、カネである。素ん晴らしく分かり良い、なんと爽やかな眺めだろうか。
大阪南警察署ではものの一ヵ月の内に二十三人もが辞めて、ちょっとしたレコードを樹立した。
果たしてこのうち何割が戦後恐慌の大反動に巻き込まれ、地獄の底まで真っ逆さまにぶち落とされたことだろう。戦慄すべき数多であるに違いない。
思い返せば昭和のバブル時代にも公務員は負け組扱い、およそウスノロの受け皿として視られていたものだった。
それがいつしか安定第一と持て囃されて、羨望の対象に早変わり。
好景気と不景気で、人心の機微はこうまで変わる。
“国に十億二十億の富を増すも国民思想の根底に大なる動揺を生じては国家国民の基礎を破壊し到底国家生活の健全を期することが出来ぬ、之れ吾輩の夙に深憂措く能はざる所である”。──渡辺の如き哲人が如何に痛嘆しようとも、移ろい揺らぐがとどのつまりは人心の必然なのだろう。
※ ※ ※
警官ばかりに限らない。
大戦景気に浮かされて、公僕たる身に飽き足らず、濡れ手で粟を掴むべく、実業界──野に下った連中は教職中にも多かった。
こういう場合、数字は何より雄弁だ。実に大正八年度には六百人以上もの中等教諭が不足して、無理難題といっていい過酷なやりくり算段に、当局者らを追い込む事態になっている。
“一体中等教員は何時の年だって不足で困るが昨年の統計で見ると六百人の大多数は従来に見ざる大不足であった、辞表の上に病気としても其多くは皆実業界に飛込んだものと睨んでゐる、その筈である不足の多い英語の教師はタイプライターを叩いて直ぐ役に立つし物理化学の教師はさうした会社に就職口が多かった、会社向きでもない歴史や地理や修身倫理の方は殆ど不足してないのでも判る”
文部省のお役人、赤司鷹一郎の分析である。
無理難題を押し付けられた側の一人といっていい。
学部による身の振り方の有利不利、就活格差の存在は、この時代からもう既に。歴史学科の不遇っぷりに涙もちょちょ切れそうである。
とは言えだ。体よく転職成就した元教員の面々も、そう長いこと順風を愉しんでは居れなんだ。物理的な必然性すら伴って殺到して来たあの不況、戦後恐慌の大波濤に呑み込まれ、非常に多くが転職先ごと宙に投げ出されたからだ。
その結果として孤影悄然すごすごと、元の職場へ戻らんとする「古巣帰り」が本年以降相次いだ。
“所が最近になって泡沫会社が跡形もなく潰れたり、十把一束に社員の首を斬ったり変る世態に又候元の古巣を恋しくさせた矢先、俸給令の改正に景気直しとなったから、先生達が再び学校に就職運動をやる者が多く、弗々と古巣帰りが見え出した”──お役人の身としてはこれにて円満御解決、欠員補填の目処がつき万々歳であるのだろうが。単に数字のみならず、深く中身に打ち入ってみればどうだろう。斯かる手合いの指導によって、子供の情緒は本当に健全に発達するであろうか?
子弟を導き国の未来を育む立場でありながら、あぶく銭への誘惑で、あっさりソレを放棄した。責任感も信念も毫も持ち合わせていない、目先の慾に大喜びで釣られゆく、拝金宗徒の機会主義者であることがこれ以上なくまざまざと証明された人間を、それでも「恩師」と仰げるか? 仰がねばならない屈辱は?
兵士になって先生が教室を去って行く国と、成金目指して先生が学校をうっちゃって行くお国。
どちらもあまり好ましい状態とは言い難い。
戦争はあらゆる平衡を跡形もなく破壊するとは、まったく真理であったろう。
※ ※ ※
新時代の開闢に旧世界の残滓など、しょせん野暮でしかないだろう。
可能な限り速やかに視野の外へと追っ払うに如くはない。ましてやそれがカネになるなら尚更だ。
――維新回天、王政復古、文明開化に際会し、当時の日本蒼生が流出させた古美術は夥しい数である。
什器、錦絵、刀剣どころの騒ぎではない。叩き売りの乱暴は、なんと仁王像にまで及ぶ。
大阪骨董屋の老舗、山中春篁堂の記録によれば、明治五年以降同二十三年までの間、国外へと輸出した仁王像の数たるや、実に三十六対躯、すなわち七十二体なり!
英、米、仏へと専ら売られ、博物館へ収蔵されたり、富豪の屋敷を装飾したりしたそうだ。
ちなみに二十三年でひと区切りとしたワケは、もはやこのとし、春篁堂の在庫の中に真物が払底、種切れ状態、“古代の仁王あらざるを以て、古像に模して新たに数十体を彫刻し目下外国へ輸出する”プランを開始させたため、方針に一転機を加えた故のことである。
大正・昭和の実業家、大阪商工会議所議員、林安繁はこの風潮を後年大いに嘆いたものだ。
――無惨やな。
なんとも勿体なきことを、と。
覆水盆に返らずと重々承知しながらも、臍を噛まずにいられなかったようである。
“大体乱暴者でも、三十歳を超え四十前後の分別盛りとなれば、過去を反省することになるが、一般社会も革新後半世紀経つと、考へが堕付くものである。近来古美術品の海外流出を防ぐやうになったのもそれであり、能楽の復興もそれであり、その他謡曲の復興、陶窯の復興等数ふるに暇ないが、何れも善いことである、只惜むらくは粗末にされた大切な品物が遂に再び帰って来ないことである”
昭和十一年の随筆集、『屑籠』から引用させていただいた。
令和六年、神田古本まつりにて、ワゴンの中から発掘した品である。
奥付に捺された「非売品」の三文字が、筆者のコレクター魂を常々満たしてくれている。
我ながらあさましいことだ。
※ ※ ※
人を見る。
じっと見る。
大阪梅田の駅頭で、あるいは街の活動写真の入り口で。手持ち無沙汰にたたずみながら、しかしその実、行き交う人のつらつきを油断なく観察している奴がいた。
「こうしていると、ここでその日いちにちに、いくらぐらいの実入りがあるか、どれだけ金が動くのかが分かるんだ」
ほんのちょっとした特技、まず罪のない遊びだよ、と。
小林一三はうそぶいた。
真綿に針を包むが如く、垂れた目蓋に眼光の鋭利を秘め隠し。
これが自分の趣味の一環、大事な余暇の消費法、と。
阪急東宝グループを築き上げた功労者、「創業の雄」たる人物は、金銭に対する磨かれきった感覚を詳らかにしてくれた。
“…実際慾を言へば人の顔が金に見へる、百貨店でも地下室から八階まで上っちまふ、それからぐるぐる降りて来ると収入の見当がつく、大概あたるもんだね、さう云ふやうな人の動きとか、波とか云ふやうなものを見て歩くのは非常に面白い”
目も眩むほど鮮やかな黄金魔といっていい。
明治二十年代に、「うらない娼妓」と持て囃された名物女が吉原に居た。
娼妓の身でありながら春を鬻ごうとしないとか、媚を売らないとかいった、そういう矛盾撞着で獲得した称号ではない。
「売らない」にあらず、「占い」娼婦。客を一目見ただけで、そいつの懐具合のほどを霊妙不思議に言い当てる。ほとんど百発百中に近く、それで評判になったのだ。
己の事業に誠心誠意打ち込んでいる人間は、ときに超能力めいた、説明不能な感覚を開花させるものらしい。
人の奥にはまだまだ未知の鉱脈が、なお残されているようだ。




