日本帝国奇妙抄 Ⅲ
粗野にして作法なく見識なき輩は、解剖学上最も美しく最も複雑なる「人体」の所有者たる資格なし。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
もうじき二十二歳を迎える未婚の娘の下腹部が、どうも最近、膨らみ気味だ。
月経も停止しているらしい。
(孕んだか)
両親は、造作もなく合点した。
事実、珍しい話ではない。
ここは大分、東国東郡に属する、とある山村、某農家。
開発から取り残された草深い田舎のことである。中央より吹く文化の風も、昭和の御代の人倫も、両子山の錯綜せる溶岩台地に阻まれて国東半島ことごとくには届かない。だからこういう、上古以来の夜這い・野合の習俗が、なお生々しく息づく土地が保存されていたりする。
それゆえ家族も特に騒がす、自然の流れに任せていたが。――どうもだんだん、様子が変だ。
十月十日を経ようとも、一向に分娩が起こらない。ほんの毛ほどの気配さえ、感ぜられないのは何故だ。
不思議がっている間にも、腹は肥大するばかり。昭和五年の夏からは、起きて野良に出ることさえも不能になった。
「こいつはどうも、ただごとではない」
のんきな里人の心にも、漸く異様の感が増す。
冬の農閑期を利用して、一家は山から這い出した。
訪問先は、九州大学附属病院外科である。
娘は幸運だったといえる。なにしろ当時の病院長、赤岩八郎医学博士に直接診療される機会を持ったのだから。
いや、本当にツイていたのは赤岩医師の方やも知れぬ。
(妊娠にあらず!)
彼の長いキャリアをしても仰天するより他にない、極めて稀な症例に、こうして際会できたのだから。
赤子ではない。
糞である。
結腸に糞がみっちり詰まり、妊婦の如く腹を隆起させているのだ。
つまり「便秘」が、娘の病みの正体だった。それもこれまで、見たことも聞いたこともない、極めて重篤なる便秘。
「下剤では、とても無理ですな」
いつ腸が破れて死ぬとも知れぬ、まさに瀬戸際。切開しかない、手術をしようということになり、ほどなく手筈が整った。
やがて取り出された糞塊の規模、驚くなかれ「重さ九キロ」!
常人ならば六キロですら死亡例があるというのに、これほどまでに溜め込んだのは前代未聞、ほぼ人体の神秘に近く、“従来でも大人の腕位になったのは医学の文献上にも見えてゐるが斯くの如く大きなのは全く世界でも例がない”、これまで無事であったのがほとんど奇蹟のようである――と、赤岩をして唸らせている。
月の物が来なかったのも、自ずと理由が明かされた。腸の膨らみに子宮・卵巣が圧迫されて、とても正常に機能し得なくなっていたのが原因だ。
田舎の娘は丈夫というが、彼女のケースは更にその中にあってさえ、極めて特殊な「例外」だったに違いない。
※ ※ ※
たぶん、おそらく、十中八九、畸形嚢腫なのだろう。
にしてもなんてところに出来る。
時は昭和五年、秋。山口県赤十字病院は佐藤外科医長執刀のもと、二十一歳青年の睾丸肥大を手術した。
患者にとっては十年来のわずらいになる。
十歳のころ、初めて股間に違和を覚えた。
小さなしこりに過ぎないが、確実に「何か」がそこにある。少年が成長するにつれ、「何か」も併せて体積を増し、少年から青年へ、身体が闌ける時分には、もはや自然治癒などと希望むも愚かな、そういう規模に成り遂げた。
二十歳の峠を過ぎたころ、いよいよ日常生活に支障を来すまでになる。金はかかるが、この局面では是非もなし。入院し、この厄物を切り離してもらおうと、家族一同、話し合ってそう決めた。
佐藤医師はベテランである。
なんてことない、簡単な手術に思われた。
ところが豈図らんや、いざ切ってみたらどうだろう。
伊予柑並みに膨れ上がった患者の陰嚢内部には、人の胎児が詰まっていたから大変である。否、表現により正確性を期すならば、胎児のパーツと呼ぶべきか。
筋肉、毛髪、皮膚、骨、歯――。そういうモノが、よりにもよって玉袋の内部から溢れ出たから堪らない。
助手の中には、危うく腰を抜かしかける奴まであった。
畸形嚢腫、胎児内胎児。
本来双子になるはずが、なにかしらの要因で片方が発育に失敗すると、もう片方の肉体に取り込まれた状態で生まれてくることがある。片割れの中で、寄生的に栄養を吸い、不完全な発達をずっと継続することが。
人体の神秘、運命の無情。えげつないまでの生命のふてぶてしさを感じずにはいられない、この現象が日本社会に常識のレベルで浸透するには、手塚治虫を、『ブラック・ジャック』を、ヒロインピノコを俟たねばならず、昭和五年の彼らに対し、どうか冷静な反応を――と、期待するのは無理だった。
事態はやがて「睾丸から胎児が生まれた」云々と極彩色の潤色を施されて伝えられ、猟奇趣味の連中の、あくどい興味をずいぶんそそったものである。
果して患者は、玉袋から出たそれが、己が双子の成れの果てだと正確な知識を得たのだろうか?
克服するには知らねばならぬ。意志は智により磨かれる。「漫画の神様」の功績は、蓋し偉大と言わざるを得ぬ。
日本が未だ多産国家だった時代の奇話だった。
※ ※ ※
風習がある。
生命誕生と関わり深い風習だ。
今はもう、すっかり廃れて文献上に痕跡を留めるばかりだが。――
ほんの一世紀前までは、南洋に分布する先住民族たちの間で広く行われていた「ならわし」だった。
女性が産気づいたとき、その旦那に当たる人物を鞭やら何やらで手酷く痛めつけることは、である。
特に強烈なのが南米に棲むカライベン族の人々で、彼らはまず父親の皮膚を天竺鼠の牙で掻き裂き、血の滲んだその傷口へ、胡椒や蒲桃の粉を水に溶かして塗りたくるという、ほとんど拷問まがいのことをした。
学術的には「擬娩」と呼ばれるこの行為。
おそらくは女房の苦痛を引き受けられるものなら引き受けてやりたいという、良心の疼きを根幹に持つこの習俗は、実を言うと日本にもある。
それも遠く神代の昔の話ではない。江戸時代の関東にさえ存在していた。
栃木県足利郡の村々には、妊婦が破水し産婆の介助でいきみだすと、亭主はただちに外へ飛び出し、臼を背中にひっかつぎ、自宅の周囲をぐるぐる廻る伝統があった。
この奇っ怪な反復動作は、お産が終わるまで続く。
その間、休むことは許されない。汗が滝のように体をつたい、膝が笑って呼吸が病犬さながらに荒くなろうとも、男はひたすら歩き続ける。だからこの地方の古老たちは、里の子供をつかまえて、
「お前の母親はお産が軽いから、父親が臼を背負って三回めぐる間に生まれた」
とか、
「お前の母親は産癖が悪いから、父親が臼を背負って十七回家をめぐり、それでも産まれず仕方ないので医者が来て引っ張り出したのだ」
とか言って揶揄したということである。
民俗学者の中山太郎も、その洗礼を浴びて育ったひとりであった。
後年、中山が民俗学者として一角の者となってから、久方ぶりに郷里に帰還してみると、とうに途絶えたと思っていたこの風習が、か細くとも未だ執り行われていると知り、「伝統」の根強さに改めて目を見張る感を味わっている。
ついでながら附記しておくと、この足利という土地は、また博奕のメッカという側面も持ち、老いも若きも男も女も一天地六の賽の目に我が身の浮沈を託したものだ。その盛況ぶりたるや、
「博奕を打たないのは旦那寺の本尊と辻の石地蔵だけだ」
との俚諺を生んだほどであり、下手に澄まして悪銭身に付かずと構えていると、
「小博奕の一つも打てぬような男には、娘を嫁にやるわけにはいかぬ」
と、およそ世間並の常識とは真逆の説教を喰らうことさえあったという。
このような場所で育ったことが、あるいは民俗学への興味・関心を掻き立てたのか。
丁と張りなよもし半出たら
妾の年季を増すばかり
紺の腹掛け片肌ぬぎで
勝負、勝負も粋なもの
足利織の女工たちが仕事中に口ずさんでいた都々逸は、中山太郎の鼓膜に滲み付き、遠く晩年に至るまで消え去ることはなかったようだ。




