焼いて、世界を Ⅲ
一握りの故郷の土は全世界の何物よりも貴い。
(ジュリウス・ペーターゼン)
占領からものの三ヶ月内外で、五十人もの死者が出た。
一九二三年、フランス・ベルギー軍によるルール占領を言っている。
同年四月十日に於けるヴィルヘルム・クーノの演説内容に則る限り、どうもそういうことになる。ワイマール共和国の首相閣下は、その日、以下の如くに述べたのだ。
“仏国兵士は頭髪一本をも損はざるにドイツ労働者五十名は己の血潮の中に斃れた。機関銃は未だ曾てドイツ人民の精神を奪った例がない。余は敢て世界各国民に問ふ、ドイツ国民は何時まで待てば世界は此の狂暴なる力の濫用に対して中止を命ずるのであるか”
と。
悲愴としか言いようがない。
悲愴であろう。他国の軍靴に自領を侵され、財を奪われ、あまつ無辜の市民の血潮が現に流されているというのに、この期に及んで猶もまだ国際世論などという、実態のひどく曖昧な、霧か霞の如きモノを当てにして、慈悲を乞わねばならぬとは。──
これがほんの数年前まで世界を相手どりながら、獅子奮迅の勇戦を見せ、敵兵をして一歩たりとも自国の土を踏ませなかった大帝国の成れの果て。どうだろう、「敗戦国のみじめさ」も極まったと言えるのではなかろうか。
実際問題、ドイツが如何にわめこうが、フランスにしろベルギーにしろ、聞く耳を持つ筈もなく。占領は遺憾なく継続けられ、そのうちクーノは支持を失い、首相の席から転がり落ちる破目に遭う。
彼の不信任案が議会で可決される頃、その足元たるベルリン市街の各所では、留学なり商用なりで当地に腰を据えている日本人が三々五々、同胞同士こっそり額を寄せ合って、
「昨夜十時頃ハーレンゼーで自動車から引き下されて裸にせられたものがあるそうですね」
「ええ今朝の新聞で見ました。それよか二三日前の夕方、ティーアガルテンで四人の日本人が十人の強盗に包囲されて丸裸にせられたと云ふ話を聞きませんか」
「いえそれあ初耳です、然しほんとでせうか」
「僕は誰だらうかと思って聞き合はして居るんですがね」
「然しこの先どうなるんでせうね」
「ドイツももう駄目ですね」
「A君が大使に逢ったら大使は引上げを勧めたそうですよ」
こんな会話の交換に熱を上げていたという。
沈む船から逃げ出すネズミ──と言うよりも、患者の死臭を嗅がんとしている医学生の群れであろうか。いずれにせよ、破滅に連座させられては大変と、神経を尖らせていたようだ。
異国に於ける邦人間のさも麗しき繋がりをスケッチし置いてくれたのは、早稲田大学に所属する、小泉英一なる男。
大正十四年、帰国してのち世に著した、『伯林夜話』なる書籍より抄出させていただいた。
その時分には流石にもう、ルール占領も一応の終結を告げている。
しかし禍根の種は蒔かれた。
数え切れないほど数多。ドイツ人らの胸奥に、戦慄の種子が、しっかりと──…。
※ ※ ※
一九二二年四月某日、ワイマール共和国大蔵大臣の名のもとに、とある税制改革が実行の段と相成った。
他国からの留学生の身の上に関連する税制だ。
思いきり簡約して言うならば、遠い異国で彼らがきちんと「学び」に集中できるよう、その本国より送金される学費あるいは生活費。命綱たるこれを以後、一切無税で罷り通して進ぜよう、と。そうした向きの内容である。
一九二二年のドイツの財政事情を思えば、かなりの大盤振舞いだ。戦争により精も根も尽き果てて、更にその上、講和会議で決められた天文学的賠償金の支払い義務まで背負わされた窮状である。
青色吐息どころではなく、逆さに振っても鼻血一滴出るかどうか頗る不審、やめてください死んでしまいますがこれっぽっちも誇張ではない境遇であり、たとえ一セントといえど、取れる外貨があるのなら取っておきたい心理であろう。
それを証明するように、首相就任演説で早くも増税宣言を一般国民大衆めがけて投げつけた「剛の者」まで居たほどだ。
「ドイツ国民は更に重き課税を見るやも知れざるも、国家の破産に比すれば是は容易なるべきものなり」。──コンスタンティン・フェーレンバッハ、魂の訴えであったろう。
正直な男に違いない。ちなみに彼の内閣は、一年持たずに瓦解した。
過激化した学生がヒンデンブルクの家の周りを取り囲み、議会に出席ようとした彼を
「元帥ともあろう御方があのような、ユダヤ人どもの巣窟に向かう必要はありませぬ」
と、涙ながらに諌止したのも、ほぼほぼ時期を同じくしていた筈である。
そういう背景を勘案すれば、これはまさしく大盤振舞いに違いない。
日本の碩学諸君らが、
──流石はドイツ、学問の本場。
と喝采を惜しまなかったのも、むべなるかなであったろう。
しかし、にしても。何が斯かる決定の原動力となったのか。国のメンツか、智識に対する信仰か。ルドルフ・オイケンが呟いた、
“今日ドイツは罪と運命の為めに恐ろしき敗亡の結果の下にある、併しドイツは此大戦争に於て非常に優勢なる敵と戦ひよく力量と性質の美を発揮した、その事丈けでも既に世の注意と認識とを受くべき筈である”
この言葉が脳裏をよぎる。
何にせよまあ、よくやることだ。
※ ※ ※
一九一九年、敗戦直後のドイツに於いて、二人の男が自伝を世に著した。
一人はアルフレート・フォン・ティルピッツ。
もう一人はパウル・フォン・ヒンデンブルク。
どちらも名うての軍人であり、多分の英雄的側面をもつ。
ティルピッツに関しては、以前の稿でもわずかに触れた。グレート・ホワイト・フリートについて、派遣の真意をルーズベルトに直接問うた彼である。
第一次世界大戦勃発時には、海軍大臣を務めていた。
その自伝の末尾に於いて、彼はこのように書いている。
“我が希望をして来るべき時代に在らしめよ、我等は決して奴隷として生まれなかった、二千年間我が民族は再三興った、如何に完全に覆されても”
ヴェルサイユ条約の締結は、かつてのドイツの繁栄を完膚なきまでに破壊した。
「ドイツ人は、要するに二千万人ほど多過ぎる」とのクレマンソーの信念のもと、二度と再び足腰立たなくなるように、苛酷な処分が敗戦国に下された。
しかし、それでも。
そのどん底からドイツは再び立ち上がる、先祖たちがそうしたように、我らは必ず成し遂げるのだと、昂然たる気概のほどをティルピッツは述べている。
これがヒンデンブルクになるともっと露骨で、
“我が祖国の最大悲劇中に編まれた本書は、絶望の苦悶的重荷より出ておらぬ、私の凝視は確乎として前途に、外方に向けられている”
先制パンチを食らわす如く、序文に於いて既に斯様に記し置き、更に末尾に至っては、
“ドイツの偉大性を信じて斃れた人々の血は無益に注がれない、私は筆を措き、諸君に信頼する――青年ドイツ!”
もはや迸出する感情を隠そうともしていない。
時代はだいぶ先に下るが、軍事心理学者のマックス・ジモナイトなぞも、第一次世界大戦中に記された膨大な数の手紙・日記・書簡類を精査して、
“戦争は敗戦と雖も祝福を与えずにはおかない――これはドイツ人が既に経験した所である。ルネッサンスの場合と同じくそれは我々を無から出発することを余儀なくさせた。しかし、その結果我々は自己の本性に関する深い洞察に達し、生きんとする創造的意欲を呼び覚まされたのだ”
と、先駆者二名と軌を一にする見解を発表したものだった。
これも「背後の一突き」論の賜物か、国内に敵を一歩も入れず、しかも破れた白昼夢的顛末の。いやはや不完全燃焼の厄介さよ、こうまでエネルギーが鬱屈するか――と思いながら眺めていると、豈図らんや、第二次世界大戦後にも似たようなエピソードが見つかったから堪らない。
ゲルマン魂への認識を、だいぶ改めなければならなくなった。
当時の住友生命社長、芦田泰三がドイツへ飛んだ際の出来事である。
“ベルリンではタクシーをやとって市中をみて回った。この運転手がヒトラー治下のドイツを逃れて、南米に行っていたという青年で、流暢な英語で説明をしてくれた。その最も念入りだったのが普仏戦勝記念塔であった。これは高さ百米もあるもので、この上に金色の女神像がベルリンを見下ろしている。爆撃の跡片ずけもすまさぬうちに、百万円を投じて、きれいにぬりかえをしたというのだ。もちろんベルリン名物の一つでもあろうが、慌てて軍人の銅像を取りこわした日本人の心掛けとは、大へん異っているようだ”
「軍人の銅像」。橘中佐、広瀬中佐――。
なるほど確かに大東亜戦争に敗北るや否や、遠く日清・日露の戦にまで遡り、あれはたいへんな過ちだったと後悔し、わけもわからず反省して縮こまり、軍神として祀られ来った人々を等閑に附し毫も顧みなくなった日本国とは、かけ離れた光景である。
赤軍によりああまで無惨に、徹底的に踏みにじられたベルリンで、いったい何処からこれだけのことをやれる気力が湧いてくるのか。
そういえばシベリア抑留を食らった人の話でも、
“ドイツの将校から受けたゲルマン民族の印象は、言葉の発音に象徴されるように男性的な匂いがある。作業に出るときはスコップを肩に構え、『アイン、ツバイ、ドルアイ』の掛声と共に軍歌を高らかに歌って門を出て行く。一小節、一小節を区切る独特の軍歌。付き添うソ連兵と比べ、一体どちらが捕虜かと思ったほどである。いつだったか、私は一人のドイツ兵に言った。「我々には帰還の夢はない。恐らくこの地で死んでゆくだろう」と。若いドイツ兵はズボンのバンドを見せて笑っていた。バックルの中央に『我神と共にあり』と書かれていた”
ドイツ人はあくまで意気軒昂、溌溂たる印象を以って語られていたものだった。
「ハイルU.S.A」と叫ぶのを目撃した者もいる。これは最初、アメリカ万歳の意味かと思っていたらさにあらず、「Heil unsere serige Adorf」――「天にましますアドルフ・ヒトラー万歳」の意味で、二重に驚かされたとか。
見事としかいいようがない。さても清々しき漢たちよと手を打って礼讃したくなる。けなげというか、初志貫徹というか、如何ほど辛い現実に直面しようと決して屈さず枉がりもしない強靭な精神の持ち主が、是非善悪を乗り越えてどうしようもなく筆者は好きだ。
※ ※ ※
二十世紀前半期、インドが未だ英国の薬籠中であった頃。
当然そこには「志士」が居た。現状に大なる不満を抱き、変革のため手段を選ばず努力する、極めて過激な政治分子の集団が。
彼らの言辞に目をやると、実に烈しい。
野獅子の血に猛ると言うか、舌鋒雷火を散らすと言うか。兎にも角にも当たるべからざる勢いを、随所に於いて見出せる。
この上なく切実に独立を希求するゆえに、彼らは英国の行ったあらゆる施策を罵り倒さずいられない。そんな習性を持っていた。たとえ相手が女王陛下であろうとも、分け隔てなく噛みついてゆく恐れ知らずな蛮勇が、その形影に宿るのだ。
“ヴィクトリア女王の「インド人の繁栄は即ち英国の勢力であり、インド人の満足は即ち英国の安全であり、インド人の感謝は即ち我等の最上の報酬である」とのインド統治の直言が文字通りに寸分違ひなく実施されたとしても、他国民の善政を謳歌するよりは、民族自決を求めるのが人情の自然である。現在の英国のインド統治は寛大であり巧妙である。仮りに英国以外の国が英国の立場に置かれたならば、斯く寛大に斯く巧妙で、斯く成功し得るものは世界中何処にも無いと断言しても宜しからう。併し其の英国一流の寛大と巧妙が癪に障るとインド人は言ふのである”
一九二一年、現地で彼らに接触した特派員、谷辰次郎の記事だった。
おお、異民族統治の至難さよ。
大英帝国の天才性を以ってすら、斯くまで手懐けきれぬとは。
何かにつけて極端な自然環境を反映してか、ただでさえ熱狂的であるインド人の性情が、第一次世界大戦を──民族自決主義の原理を注入されるに及んで更に、より一層の爆発力を獲得したようだった。
帝政ドイツを滅ぼすための金科玉条、大義名分の刃は所詮、戦後に於いて連合諸国の身をも裂く、諸刃の剣であったのだ。
まあ、それはいい。
今改めて、「志士」の主張を閲すると──。
過激なことは過激だが、彼らの言には確かに一面、頷く他ない正当性を含んでもいる。
誰だってイニシアティブを握りたい。血を、背景を、歴史を同じくもしない相手に己が民族の命運を左右されるということは、どうしたって不快なものだ。
生理的な嫌悪感すら、そこにはきっと伴おう。
かの馬場恒吾もとある機会に言っていた、
“他人に恵まれる米の飯よりは自分の麦飯が旨いと思ふのが普通の人情である。他人に行って貰ふ善政よりは、自分等が行ふ悪政の方がよいと思ふ。これが或程度の自覚を有する国民の心理状態である”
と。
人とはまったく、なんと手ごわい生き物か。
その手ごわさは、しかし同時に魅力と背中合わせでもある。
だからいよいよ厄介なのだ。




