焼いて、世界を Ⅱ
常に正義を為せ。正義は力なり。力はドルを作り、ドルは正義を作る。而して我々はそのドルを有する者なり。
(ジョン・ロックフェラー)
商用で、あるいは研修で。
理由は個々でまちまちだ。が、とまれかくまれ、一九一四年、第一次世界大戦勃発の秋、国外に身を置いていた日本人は数多い。
早稲田大学に至っては、危うくその学長を異郷に失うところであった。
高田早苗を言っている。大正三年四月から、「欧米諸国の教育制度を調査する」との名目で、この人物は遠い旅路に就いていた。
遠いであろう。ほとんど地球の反対側だ。列強諸国が宣戦布告をカマし合った八月初旬、高田の姿はスイス、ジュネーヴの地に在った。
(さしあたり、流れ弾の危険はないが)
さりとて身動きもまた取れぬ。
鉄道、自動車、隔てなく、国外への道筋は、開戦早々途絶した。どこもかしこも軍務のために謂わばパンパンの状態であり、とても一介の旅行者が割って入れる余地はない。
先の見通しがつかぬまま、山紫水明、国土これ皆ことごとく仙境なるかと往々にして謳われる、永久中立の内陸国に、高田学長、カンヅメを余儀なくされている。
あれよあれよと手を拱いているうちに、三週間が経過した。
それで漸く転機に至る。西へと向かう目処がなんとか付いたのだ。スパイの嫌疑をかけられて当局に引っ張られまいか――と、内心冷や冷やしながらも、パリ、ロンドンを経由して、未だ戦火と縁遠い北米大陸合衆国に、ニューヨークの港へとなんとか滑り込めたのが、大正三年九月二十三日である。
さぞ人心地ついたろう。
土産話がある。
このアメリカで仕入れた話だ。
高田早苗の見るところ、開戦からまだ二ヶ月弱しか経ていないにも拘らず、現地の反独感情は既に圧倒的であり。イギリスの望む「軍国主義 対 民主主義」、単純剄烈な善悪二元の構造は、一般的なアメリカ人の印象に着々と浸透中だった。
直接銃火を交換し合う最前線はいざ知らず。宣伝戦の分野では、連合側が甚だ有利な立ち位置を確保したといっていい。
下が染まれば、上も無縁でいられない。
世間の流行りに乗せられて、上部階層――富豪・資産家・有力者の社会にも、ぼつぼつ腰を浮かさんとするせっかちなのが出始めた。「土産話」とは、それにまつわる一幕だ。
以下、高田の言葉をそのままに引く。
“…ハーバード大学の心理学教授に一ドイツ人があって其人が余りにお国自慢をする為に死後は同大学に二千万ドルを寄附すべしとの遺言状を書てゐる某富豪はドイツ教授を其儘にして置くなら遺言状を書替へると主張するに至り六箇敷問題になったといふ話もある、尤も学校の評議員会は寄附は貰へずとも一教授の自由を棄てしめ若くは之を放逐することは非理であるといふに決定した相である、が反独思想は此辺迄も深入りしてゐるのである”
学者の自尊、あるいは意地か。
それとも「学問の独立」というロマンチックなフレーズへの憧憬か。
いずれにせよ、だ。金権万能の本宗たる星条旗のお国でも、金で買えないモノというのはあるらしい。
※ ※ ※
密告社会の基本はつまり「闇から闇へ」だ。良き釣り人ほど気配を殺すのが上手く、必要以上に水面を揺らさず、鼓動さえも慎んで、獲物を欺き、正体を悟らしめぬ如く。
大衆という、ニトロ以上に爆発しやすい液体に波紋を生じさせぬまま、「問題」だけを取り除く。そういう手際を理想とし、実現のため、当局は智慧を絞るのだ。
一九一四年十月八日、大英帝国アスキス内閣内務大臣、レジナルド・マッケナの名の下に公布された訓令は、そのあたりの消息によく通じたるものだった。
“内務省は何人たりとも若し間諜嫌疑者を発見せる場合は直ちに附近の軍隊並に警察に密報すべく、決して公開演説又は新聞投書に依って徒に世人を騒がし間諜をして警戒せしむる事なからんを希望す”
欧州大戦真っ盛りのこの時期に。――ドイツのスパイを警戒しての文言であるということは、敢えて述べるまでもない。
防諜、宣伝、威喝、攪乱。
こと情報戦の分野に於いて、英国の手並みは戦慄するほど鮮やかだ。
芸術的な美しさすら、いっそ在る。
そりゃあ水野廣徳も、
“ドイツの剣鋭かりしも、六尺を出でず。英国のペン短かかりしも、世界を靡かす。曰く、ヒンデンブルクの剣、終にノースクリフのペンに及ばずと。ペンは依然として剣よりも強かりき。広告の世の中なり、宣伝の世の中なり”
如上の調子で称揚するわけだった。
まあもっとも、マッケナの訓令に関しては少しばかり複雑で。一週間ちょっと前、『デイリー・メール』が「いやしくも英国国内で伝書鳩を飼養するドイツ人らは須らく極刑に処さるべし」との、ヒステリックな社説を書いたものだから、その種の動きを牽制せんとする意図も含んでいたのやも知れぬ。
実際問題、このころ英国国民の敵愾心は凄まじく、プロパガンダが効き過ぎたかの観があり、真如の夜の海よりも一層高く潮満しきった状態で。――『ロンドン・タイムズ』にしてからが、「帰化せると否とに拘らず、すべての独墺人をロンドンから叩き出せ」と絶叫して憚らなかった程だった。
するとその声に刺戟され、またぞろ『デイリー・メール』紙が、「由来英国の余りに寛容にして多数外人の帰化を一も二もなく許可するは、これやがて国家を危くせしむるものなり」云々と、より一層の過激論、帝国としての伝統精神批判にまで乗り出す始末。
古きを愛し、慣習に泥む英国人が、なんという様であったろう。
祖国の存亡、累卵に在り、興廃を賭けた土壇場で、紳士の仮面をかなぐり捨てて獣の性根に目醒めたか。
大戦争に、蓋し狂気はつきものだ。
※ ※ ※
悠々たるかな大襟度、鷹揚迫らざるをモットーとする大英帝国様々々も、いよいよ以ってケツに火が着いてきたらしい。
ある日、こんな誘い文句が新聞を通して発表された。より一層の志願兵を得るために、壮年男子――本人ではなく、彼らの背後に控えるところの妻や恋人、母親等々、女性めがけて投げかけられた「質問状」形式で、だ。
“戦争終りし時御身の夫又は息子等が「君は大戦争に於て何事を為せしや」と問はれんに彼をして御身が彼を送り出さゞりしが為に赤面して其頭を掻かしめんとするか。
英国の婦人よ御身の義務を盡せ、今日御身の男子を吾等の光栄ある軍隊に加入せしめよ”
邦訳は第一次大戦期間、ロンドンに在った『東日』新聞特派員、加藤如風の筆による。
格式張った言い回しをしているが、煎じ詰めればなんてことはない、村八分を仄めかしての脅迫である。
いい歳こいた五体満足の立派な立派な男性が、祖国の危急存亡の秋に銃を執って闘いもせず、いったい何をしてたんだ、と。
資格があるのに兵士にならず、頭抱えて隅っこで小さくなって慄えてやがった腰抜けは、戦後確実に社会から冷眼視される事態になるぞ、それも家族ぐるみでだ。いいのかそれで、よかないだろう、だったら尻を蹴り飛ばせ、私のために戦って♡ 勇敢なとこを見せなさいよと訴えろ、と。
そんな陰湿な同調圧力。
およそ紳士らしからぬベタついた智をめぐらせて、それでも結局、大した成果は挙げられなかったのだろう。
一九一六年に徴兵制を採ったことからでもわかる。
法の権威で無理矢理にでも男子を兵士にせぬ限り、イギリスは勝ち得なかったのだ。
如風によればこの宣伝が載った新聞の日付とは、一九一五年一月十二日だそうな。
英国で発行されている全新聞に載ったのか、はたまた『タイムズ』とか『メール』とか、大手のみであったのか。
そこまではちょっとわからない。
対内宣伝の猛烈さ、吹きまくるプロパガンダの観測記録は生田葵も付けている。
この小説家もやはりまた、一九一五年初頭に於いて英国入りしたようだった。で、「寄席や活動小屋へ往けば必ず応募兵を勧誘する歌が唱はれる」のを目の当たりにした。
軍事国家イギリスの、尋常ならざる有り様を。
総力戦の現実を、その網膜に焼きつけた。
“御寺の門口、広場の広告壁、酒場の入口迄にもスコッチ兵、騎兵、砲兵、歩兵と勇ましい服装の姿を各自に描いた広告紙が貼出されて居る。市中を往来する辻自動車の風除けの処には、
「汝等の責任を想へ」
「国家が強制的に汝等に臨む迄待つ勿れ」
「国家は汝等を要求す」
「祖国の光栄を省よ」
と云った文字が貼附されてあって、未だ志願しない若者を威嚇もし、侮辱もしている”
正気にて大業はならず、勝利に到達り着けもせず。
狂気横溢の時勢であった。
※ ※ ※
中谷徳太郎が気になっている。
明治十九年生まれ、坪内逍遥に師事した文士。
作家としては無名に近い――なんといっても、wikiに記事すらありゃしない――が、随筆なり時事評論なり、そっちの分野に目を転ずれば、なかなか私の好みに適った鋭い意見を吐いている。
わけても大正三年の、世界大戦勃発直後の感想など最高だ。
“この戦争が破壊的に拡大して、今まで人間が地球の上に築き上げた有ゆる記念や、芸術や、智識的産物を悉く壊滅して、血を以て坤球を掩ひつくすと面白ひと思ふ”! ――ここまで露骨に不謹慎を表白できる人材は、当時に於いても珍しい。
あの大戦の拡大を「面白い」と言ったのは鈴木三重吉も然りだが、彼の『赤い鳥』の童話作家の口吻中にはまだ幾分か皮肉というか、あてこすりの色彩が含んであったに対照し、どうも中谷徳太郎には小細工がない、間違いなく本心から出た、素材そのまま純度百二十パーセント、ピッカピカの真実の声に思われる。
中谷には、哲学があった。
“人間の為ることのうちで一番正当な宿命的な使命は、闘争と繁殖とだけだ。これを外にして生物界の現象といふものはない。吾人が平和と呼んでゐる現代の文明生活といふのもやはり悪戦苦闘の巷だ。たゞそれが偽善の仮面に陰れて、人道といふ楯に依って瞞着的に行はれてゐるに過ぎない”
闘争、ひいては生命に対して、独自の視方を持っていたのは疑いがない。
更に進むと彼はもう、帝愛グループ会長と、例の兵藤和尊と遜色のない境地にまで至っているのが見出せる。
“階級とか、労働とか、資本とか、政党とか、商売とか、恋愛とか、事業とか皆個人或は社会の対抗闘争だが、こんなのは蝸牛角上の争ひに過ぎない。戦争となるとこれが本然的に、野蛮に、尊重すべき原始的な状態で行はれる。戦争の場合だけ公然人間同士の屠殺自由が公認される。これは好いことだ。一体現代の文明といふ厄介なものは、余り人間の生命を尊重しすぎる。今日の人間は一口の太刀を帯び、一挺のピストルを携へることも許されてゐない。人間にはどこまでも持って生まれた本能で、自己を防禦し敵を斃すだけの自由な権利を保留しておいて、思ふ儘に野蛮主義を遂行させたい”
中谷徳太郎の死は、大正九年に訪れた。
西暦にして一九二〇年の、一月下旬。
ヴェルサイユ条約の調印が成り、世界が「二十年の停戦」期間に突入してからほぼ半年後のことだった。




