焼いて、世界を Ⅰ
毒ガスこそは大なる平和の建設者であり、軍用機こそは平和の天使である。
(バーナード・ショー)
ルドルフ・オイケン。
ドイツ人。
哲学者にしてノーベル文学賞の受賞者。
第一次世界大戦の突発さえ無かったならば、この碩学は一九一四年八月下旬に日本を訪う予定であった。
経路は専ら陸路を使う。
シベリア鉄道を利用してユーラシア大陸を横断し、この極東の島帝国に這入っては、東京・京都の二ヶ所にて「人類の大なる生命問題に関する哲学講義」を行う手筈になっており、既に切符も購入していたそうである。
ところがその直前で、急に世界が燃えてしまった。
講演どころの騒ぎではない、日本とドイツは敵国として、干戈を交える事態になった。
──なんということだ。
やや呆然としたという。
悲劇としか言い様がない。
元々ルドルフ・オイケンは日本に対して特殊な興味を持っていた。一九〇五年、満洲の地を修羅の巷に化さしめた、あの戦役にて日本がロシアを破ってからだ。
“日本がロシアの如き欧州の大国と衝突し名誉ある勝利を得たる時、国際生活に一新時代が画された、今や全く欧州はアジアに気をつけねばならぬ、アジアを計算に入れなければならない、アジアは当然アジアのもので欧州のものでないと云ふ思想が次第に力を得て来る、同時に諸民族の特質が非常に価を生じて来る、而してそれは彼の変化を以て文化の全体を益々広くし且充実せしむるであらう、吾々は互から学び互から利益をうける”ことが可能な相手であるとして、──ドイツのアジア政策上ゆるがせにし得ぬ存在として、特筆大書していたものだ。
「アジア人のアジア」思想の形成に日本が果たした役割が如何に深甚であったかは、第二次世界大戦後、例のフランク・ギブニーも好んで触れたところであった。“一九五二年アジアを揺すぶった革命は、せんじつめれば日本が始めたものだ。「アジア人のためのアジア」という不思議な力を持つスローガンを発見し、それを押し立ててインドシナ、マライ、インドネシアを一掃し、さらにインド国境まで席巻したのは日本人であった”云々と、主にこうしたニュアンスで。
まあ、それはいい。
今回の胆はルドルフ・オイケンこそである。彼の姿勢は総力戦の辛酸を舐め、舐め尽くし、屈辱的な講和会議を、──ヴェルサイユ条約の締結を済ませた後でも本義に於いて変わりない。“彼の戦争は吾々には尚ほ余りに近くしてそれに就ては何も云ひたくない、新しい傷をいぢり廻すのはよくない、併し兎に角戦ひの終った後は日本とドイツとの間に実質ある共同文化が発達することを希望、否堅く信ずるのである”と、相も変わらず強固な日独友好を目指しているのが見て取れる。
それだけの価値を日本人に認めていたというわけだ。
これは記憶するに足る、有意な想痕だったろう。
“進歩の方に絶えず進むことと古きに対する尊敬とが同時に存在し得る証拠は、日本国民を見ればよく判る”。若干、贔屓の引き倒しの気恥ずかしさが伴わなくもないのだが。
これから先の人生で、ビル街の中の神社や寺に出くわす度に、筆者はきっとオイケンのこの箴言を思い出すに違いない。
※ ※ ※
戦争が如何に理性を麻痺せしめ、精神の均衡を失わしめる禍事か。それを示す最も顕著な現象として、交戦相手の国語に至るまでをも憎む──「敵性言語」認定からの言葉狩りが挙げられる。
人類が犯し得る中で、最低レベルの愚行ですらあるだろう。
ある特定の国家ないしは民族が国際法を蹂躙し、掠奪、虐殺、侵略等々、不埒な所業を恣にしたとして。これを批判し、糾弾するのはべつにいい。いいどころか当然だ。文明人の義務ですらある。
さりながら、憎しみ余って行為自体を飛び越えて、彼らの言語までをも排し、攻撃しだすに至っては、これははっきり病的精神状態だ。総力戦時代の黎明、第一次世界大戦の最中には、英米仏等連合諸国の間にも、かかる病が蔓延したものだった。
意図的に感染を助長する勢力さえもあったように思われる。
大正八年、中条精一郎という建築家が筆を執り、「最近米国巡遊所見」なる小稿を認めて、雑誌『太陽』に寄稿した。そこから少々、以下に引用させていただく。
“自分がアメリカに於て著しく感じたことは、ドイツに対する敵意の実に徹底して居ることである。其一例を話すと或る料理店では「ドイツ語の使用を禁ず」と云ふ札迄掛けて励行して居った。或はドイツ語の地名又は料理の名まで取換て「ハンバーグステーキ」を「リバティステーキ」と直したと云ふ風に、非常に徹底したやり方をして居る。
之に比べると日本人は敵を賞めてみたり、敵国の書籍を出版して其長所を紹介して見たり、甚だ徹底しない所がある。…(中略)…是等の為めに米人中に日本の態度を非常にはがゆく思ふ者があり、或は彼等をして日本は表面はあゝであるが実は親独であって裏ではドイツに盡す者であるとの誤解を抱かせた事も多かったやうである”
個人的にはうるせえ黙れ余計なお世話だ傲慢無礼なヤンキーめと一蹴していただきたいシーンであるが、あいにく中条は明かに、米人の態度に同調している。
筆致を辿れば瞭然だ。この建築家は明白に、アメリカの如く徹底的にドイツを排さぬ日本社会の微温的な雰囲気を「恥」だと感じ、責めている。
ルドルフ・オイケンが聞いたなら、さぞかし失望しただろう。
なんとなればオイケンは、そういう日本の不徹底な姿勢をこそ礼賛し、希望を繋いだ人だったから。
“如何に世界戦争が多くの人心を激昂せしめたかはドイツの学問すら敵国側から見て人類共同の生活に有害なりと宣告された事実によく現れて居る、此場合に日本の側ではその様な事のなかった事を十分吾々は承知してゐなければならぬ、日本は戦争に関らずドイツ語の教育が静かに行はれ、東京大学の医科では雑誌にドイツ語を用ゐた事は聞くだに吾々には喜びである。
アメリカは是と違ってゐる、ドイツ語の教育は全部厳重に停止され、劇場ではドイツ語は一口でも声高に話すことが出来なかった、其時アメリカにはドイツ語を母語として話す住民が千万人は居ったのである”
物事を多角的に観察するのは面白い。
同一の現象であろうとも、視点の置き場次第によって評価は斯くも著しく変化する。
オイケンが感動した高徳は、中条にとり唾棄すべき悪徳だったのだ。
実際問題、ルドルフ・オイケンが褒めたほど、大日本帝国は神聖なる人間性を獲得した国家ではない。
ただ単純に、当時の日本人にとり、戦争参加の自覚が希薄。どこか白けた、「他人の戦」のような感じを欧州戦役に持っていた。
だから本気で憎む気にもなれなんだ。この戦争の決着が、皇国の興廃を左右するともむろん思っていなかった。それゆえいくらか心理的に余裕があった。
まず以って、そんなところであったろう。
※ ※ ※
戦争の長期化に従って「心の余裕」を加速度的になくしていった国民は、一にベルギー人だろう。
なんといっても「教皇」にすら噛みついている。
第一次世界大戦期間中、ベルギー人の手や口は、屡々当時のローマ教皇・ベネディクトゥス15世批難のために旋回したものだった。
知っての通り、ベルギーは旧教国である。
その勢力は政財界を筆頭に、社会のありとあらゆる面に分かち難く沁み透っている。
しかるにそんな「愛し子」であるベルギーが戦禍によって半死半生、悶絶しかけている今日に、ヴァチカンは何をやってくれたか。
答えは「何も」。
何もしていないに等しい。
少なくとも当人たちの実感上では、そうだとしか思えない。
教皇猊下は「平和の祈祷」などという微温的な消極退嬰の儀式のみを事として、未だドイツの残虐行為をロクに抗議もせぬではないか。ふざけるな、ああふざけるなよ、まったくなんて不誠実。もっと烈しく、最大級に過激な言葉で、あの連中を責め立てろ。
十字架の威光を以ってして、帝政ドイツを人道の敵、文明への叛逆者、悪魔王朝と糾弾すべき秋である。
さもなければ我々は、ヴァチカンからの分離すら、本気で検討するからな――と。
鼻息荒くする者も、一定数居たという。
敵に国土の大半を占領されている以上、焦慮するのも当然だ。
しかしここまで来るともう、物狂いの様相を半ば呈していないだろうか。
メーテルリンクの如き文豪をしてさえも、およそ戦争後期には外貌を取り繕う余裕をなくし、「ドイツ人は人間じゃない、ヒトの皮を被った獣、隔離すべき病原体、邪悪の化身そのものだ」、――…こんな感じの、トランス状態に陥った巫女の託宣みたような、ヒステリックといっていい、切羽詰まった文章を高みの見物決め込んでいる中立諸国めがけて書いて送りつけたものだった。
“…中立国民といふ名を帯ぶる卿等にのみ彼等の横暴を阻止し之を処罰するの力を有す、我等は既に無力にして到底之を阻むに由なし、彼の独人たる犯罪人は卿等の間に交はり卿等の家屋に接待さる、彼等は卿等を囲繞して追従、弁侫、威嚇至らざるなく斯くして卿等の利益を犠牲にして富を蓄積す、今や卿等は彼独人をして彼等は此世の如何なる人間とも同等の資格を有せざる事を知らしむべきなり、彼等と人類との間には一大溝渠の画され彼等が之を越えんとするは今後多年其罪悪に対し懲罰を受け其罪を懺悔せる後ならざるべからざる事を感ぜしむべきなり”
長文ゆえ、引用は一端に止めるが、それでもしかしおおよその雰囲気は把握可能なことだろう。
アメリカの参戦を聞いたとき、メーテルリンクは雀躍りしたに違いない。
第二次世界大戦時にもやはりヴァチカン教皇庁は「不偏的態度」を表明し、ナチス・ドイツの暴虐をはっきりと批難しなかったということで、戦後追及を免れず、弁明に力を割いている。




