表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/48

日本帝国奇妙抄 Ⅱ


われわれは人生が短いことを知っている、されば、その人生を延ばすために、もはや存在しない時代の思い出を人生の中に置く。


(アナトール・フランス)





 直木三十五が死んだ。


 東京帝大附属病院呉内科にて、昭和九年二月二十四日午後十一時四分である。


 枕頭をとりまく顔触れは家族以外に菊池寛、廣津和郎、三上於菟吉、佐々木茂索等々と、『文芸春秋』関係の文士名士で占められて。――そういう面子で、直木の最期を看取ったという。


 享年、ものの四十三歳。


 告別式やら葬儀やら、ひととおり儀式が完了すると、菊池寛はさっそくのこと筆を執り、直木を語る稿を起こした。書くことで故人を偲ぼうとした。その一節が、とりわけ筆者(わたし)の興味を惹いた。

 曰く、



“…『近藤勇と科学』などいふ題をつけたり、科学小説を書くといってゐながら、自分の病気となると、あやしげな民間療法に依頼してゐた。結核菌といふ機関銃も毒ガスも持ってゐやうといふ兇敵に対して近藤勇の如く、孤剣をふり廻してゐたのである”



 と。

 どうも直木はうさんくさい鍼治療に凝っていて、反面いわゆる近代的な西洋医学を容易に信じようとせず、経絡すなわち気の流れの調整でこそ己が病は癒せると希望を託していたらしい。分の悪すぎる賭けだった。然り而して案の定、いざ病院に担ぎ込まれた際には既に病膏肓に入りきって、手の施しようがないというに近かった。


 それを菊池は痛惜している。


 スティーブ・ジョブズといい、本来強靭な知性の持ち主である筈の彼らが、こと「医」の面に関してのみは文明の成果に従わず、それより寧ろまったく前近代的な、おまじないの亜種めいた草根木皮の効能やら何やらを崇めようとするのやら、甚だ理解に苦しまされる。


 菊池寛にもこの点不明で不可解で、ただ彼は、直木三十五という男の頑固さだけは知っていた。


 厭というほど、知り抜いていたといっていい。素直に他人(ひと)の説得に唯々諾々と応じるような、単純なアタマの持ち主にはあらざると。海岸線の松よりも複雑かつ厄介に曲がりくねった精神構造であるのだと。



“去年の秋から憔悴が眼についたが、今年になると、殊にいけなかった。よく木挽町のわれわれのクラブの机の前で、小さいこたつに足を入れて仰臥してゐた。殊に寝入ったときの顔など、死相をさへ感じた。「君からでもよく言って、養生させたらどうだ」よく、そんなことをいはれた。しかし、直木は一個人の生活では、人の意見を入れる男ではなく、また相談する男でもない。いく度注意しても同じである”



 哀しみを籠めた諦観とでもいうべきか。

 そんな文章を綴ってのけたものである。


 このあたりで我々は、ひとつ中神琴渓を、江戸時代も後期に於いて名を馳せた良医の言葉を思い出すべきなのだろう。



“家屋を普請せんとして、大工に積らせ引きし絵図を、塩屋米屋が見て、此大工の図は悪しゝと邪魔したりとも、普請主会得はせぬなり、総てのこと、玄人のことを用ひ、素人のことを用ひぬに、病気の時ばかりは、医の言を用ひずして、塩屋や米屋の言を用ふ、塩屋や米屋も、己が知らぬことを差出て、巧者顔に弁舌を廻し、竟に人を殺す、是等が天地間、第一等の馬鹿者と云ふべし”



 古今東西、変わることなき人間性の弱点とでも視るべきか。


 健康、養生、長寿の秘訣うんぬんは、全く以って迷信の巣だ。




   ※   ※   ※




 皇居の地面を掘り返したら、意想外のモノが出た。


 大判小判がザックザク――だったらどれほど良かっただろう。だが現実には、それよりずっと生っぽい、命の最後の残骸的な、有り体に言えば人骨が、もうゴロゴロと出現(あらわ)れたから堪らない。


 至尊のまします浄域にあってはならない穢れだが、よくよく思えば無理もない。あそこは元来、武士の、幕府の、徳川の、総本山なのだから。侍という、殺したり殺されたりすることが専売特許な連中が、何百年もの永きに亙り所有してきた物件である。


 そりゃあ埋まっているだろう、死体の十や二十ぽっちは、必然に。


 こういう事件は何度もあった。


 最初は大正十四年、大震災にて崩れたところの二重櫓を修復中に。


 そして二度目は昭和九年、坂下門の内側にガソリンタンクを新設すべく基礎工事をしていた際に、またしても。かわいそうな人夫らがしゃれこうべとコンニチハ、おどろおどろしい対面を遂げてしまったわけだった。


 前者については割と有名な事件であって、怪奇譚めいた脚色とてもされがちだから、ここでは触れない。


 それより後者に焦点を絞る。


 正確な日付は昭和九年九月二十五日であった。


 発掘された人骨は全部で五体、それに土器の破片二つと永楽銭四枚が。いずれも地下十尺か、その前後にて眠っていたと云うハナシ。


 そのとき調査に駆り出されたのは、帝室博物館所属、後藤守一鑑査官。やがて明治大学名誉教授にまで上る、考古学界の雄である。 


 翌日『東日』新聞に掲載された後藤の見解左の如し。



“白骨は何れも中年の男と推定した、歯や一束の頭の毛などから想像してです、時代は銭によって太田道灌時代のものらしい、砂地の下のじめじめした場所の点から昔の沼地か濠底だらうと思ふ、人骨は頭を揃へてゐない、中にはうつむきのものもあって埋葬のときほうり込んだのではないかと思はれる”



 二重櫓のソレに比較(くら)べて坂下門の人骨がイマイチ影が薄いのは、二度目でみんな慣れたのか、前者の半分以下という数の不利によるものか、もしくはほんの数日前に日本列島を蹂躙し去った室戸台風の衝撃が、あまりに、あまりに強すぎて、国民の興味の大半がそちらに吸われていた故か。


 現代人の生命を三千以上も奪い去り、家屋をはじめ夥しい財産を倒壊せしめた災禍を前に、言っちゃあ悪いが何百年も昔の死体五つぽっちにかかずらってはいられなかったのであろう。




   ※   ※   ※




 どうも昭和六年らしい。


 わがくに売血事業の嚆矢は、そのとしの十月、――神無月の下旬にこそ見出せる。


 飯島博と平石貞市、両医学博士の主唱によって創立された「日本輸血普及会」が、どうも発端であるようだ。採血量はグラム単位を基準とし、百グラムにつき十円の価値で取引された。


 西暦にして一九三一年。諸列強と比較して、これははっきり「後発組」に所属する。


 そもそも日本の医学者は輸血技術の研究にだいぶ遅れをとっていた。理由は単純、「医」の本宗と仰いだドイツがこの方面を大して重視せなんだからだ。


 早くから輸血に着目したのは、むしろ米仏の学会だった。世界大戦が勃発するや、彼らはそれを実地に応用。その結果として負傷兵の生還率に、連合側と同盟側とでえげつないほどの差異が出た。


 それで漸く日独も己が迂闊を自覚して、ギャップを埋めんとシャカリキになったわけだった。


 結局ここでも、戦争が技術の発展・普及を後押ししたと言い得よう。



“輸血法とは、人より人に血を移し入るゝ事を謂ふので、若し之が為、何等の危険を来すことなく、実行し得るものとすれば、病気、出血等の場合に極めて有効の処置でなくてはならぬ事は、学者以外の人にも、頭に浮ぶことであるのに、近来に至るまで、殊にドイツに於ては、危険なるものとして実行せられなかった。然るに…(中略)…連合国側に於て出血等の際、此輸血法の実施により、瀕死の兵卒を救ひ得たる報告は極めて多く、又実際上の経験よりしても、大した危険のないことが明らかになった”



 上は大正十年度、陸軍二等軍医正・後藤七郎による講述である。


 遡ること二年前、すなわち大正八年に、後藤は日本人にして初めて輸血を実行し、成功させた男でもある。


 当時の輸血の実景も、彼に於いて実に詳しい。



“輸血法の方法としては給血者及受血者の血管を繋ぎ合はせて、直接に注射しても()く、又両者の血管の間に、銀管の類を嵌めて連結して行うても可い。或ひは又血液を給血者の血管から、一定容量容器に納めて、之に一定量のクエン酸ソーダを混じて凝結せしめないやうにして置き、之を受血者の血管の中に注射するといふ間接の方法もあり、之が最も便利である”



 冷蔵保存の未熟な時代の工夫であった。


 後藤の成功から十余年を経て、日本社会もいよいよ以って金銭で血を売り買いする領域まで「成熟」したらしかった。


 更にそこから一年を経て、昭和七年、再度廻りし神無月。


 日本輸血普及会、創立一周年を記念しての会合で、平石貞市は今日に至るまでの成績を取り纏めて発表してくれている。まず、この一年で、会に登録した給血者は五十名に達したと。そのうち七名のみが女性で、あとは全員、男であると。



“そして大半は専門学校以上の苦学生です。是等の給血者が一ヶ年の内約七十回輸血しました。申込みの一等多いのは帝大病院ですが、その他聖路加病院、赤十字病院、軍医学校等皆一流病院ばかりです、始めたばかりの事業としてはまだ良い方でせうがニューヨークなどで一ヶ年に五千回も輸血してゐるのと比べますと日本の輸血はもっともっと進まなければならないと思ってゐます。実際輸血によって死ぬ人がどの位助かるか知れないのです”



 嘉すべき志であったろう。

 血の交換は尊い行為だ。文明世界に生きるなら、一度くらいはその輪の中に参じておいて損はない。


 記憶が甦ってくる。


 初めて献血に行った時、チューブに通う己が血の、意外な熱さに心底ハッとしたものだ。


“内なるものを自覚せず、失ってそれに気付く。滑稽だが、それは啓蒙の本質でもある。自らの血を舐め、その甘さに驚くように”。──なるほどアレは刺激的な体験だった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ