日露戦争側面史 Ⅲ
日露戦争に発揮された日本軍人の勇気は、古代ギリシアに於けるテルモピュライの戦ひ以外には、恐らく古往今来世界のどこにもその類型を見出すことが出来ぬであらう。
(辜鴻銘)
もはや開戦秒読みの時期。
再三の撤兵要求を悉く無視し撥ねつけて、帝政ロシアが持てる力と欲望を極東地域に集中しつつあったころ。
スラヴ民族の本能的な南下運動を阻まんと、大和民族が乾坤一擲、狂い博奕の大勝負に挑まんとしていたあの時分、すなわち明治三十七年、日露戦争開戦間際。
『報知新聞』に投書があった。
送り手は、玄界灘の一島嶼、対馬に住まう老人である。
(ははあ)
担当記者は内心密かに、
(来るべきものがついに来たか)
と頷いた。
中世期、元寇という日本史上稀にみる本格的な対外戦争を経験した土地だけに、およそこの種の騒ぎには敏感たらざるを得ないのだろう。言いたいことの一つや二つ、当然あろうというものだ。
しかしいざ、中身を改める段に及んで、彼は自分の予想というのが如何に甘かったかを知る。
開いて二秒で理解らされたといっていい。
以下が即ち、当該書簡の全容だ。
“一筆啓上、今回は大事件にて候。記者先生も定めし御心配と存候。当対州厳原人は最早や何れも立派に覚悟致し居り。拙老は本年七十二歳にて病臥中に候間、去る九日一族縁者を拙宅に招き、拙老枕頭に於て左の如く相定め申候。
一、日露戦争相開け候暁には、先づ拙老を刺殺し、屍骸を土中に埋め候事。
二、婦女子小児等は博多表の親戚へ預候事。
三、壮年の男子は悉く兵器を執て、神国の大敵を討ち払ひ可申候事。
是れ拙老一家一類の覚悟のみに無之、隣家の老夫人も戦争相始まり候へば自殺の覚悟致され居り候。我対州人は十四五の少年と雖も男子は踏み止まりて血戦の覚悟仕居り候。日本全国の国民諸君も我対州人と同じく御覚悟被下度希望に付、貴紙に投書仕候也”
(これは、またぞろ、なんという。……)
絶句したのもむべなるかなだ。
眼底、戊辰の役の会津藩士を彷彿とする。
決して竜頭蛇尾には堕ちない。一行目の勢いを、一番最後の句点まできっちり保持してのけている。常軌を逸した胆力と、異様な精気のみなぎりにより、頭の先から尾っぽまで貫かれたる書であった。
ほとんど時を同じゅうし、神戸市では七十五歳の老人が漢文仕立ての従軍願書を携えて、堂々役所に乗り込んでいる。彼の態ときたらもう、“撃剣柔道に鍛へたる筋骨逞ましく、坊主頭の大男にて一見五十七八歳を越へず”という風な、げに頼もし気であったとか。
尊皇攘夷の掛け声にサンザ沸かした青春の血が、差し迫った時勢に触れて再び骨を燃やしたか。これも一つの冷灰枯木再点火。江戸時代に人となった連中は、やはり根性が違うらしい。
※ ※ ※
明治三十九年一月十四日午前十時三十九分、東京、新橋駅頭は空前の熱気に包まれた。
凱旋したのだ、英雄が。
日露戦争の将星人傑多しといえど、わけても一際異彩を放つ、嚇灼たる武勲所有者。おそらくは東郷平八郎と国民人気を二分する、陸軍界に於ける聖将。第三軍司令官、乃木希典大将が、とうとう帝都に帰還した。
いやもう、人、人、人である。
強きを欲し、強きに焦がれ、強きに向かう日本人の性情が極端に発揮されたと見るべきか。東亜に向かって伸ばされた帝政ロシアの魔の手を払い、みごと勝利をもぎとった、烈士の姿を一目なりとも拝まんと、殺到して已まぬ民。東京どころか日本中の蒼生が新橋駅を中心とした半径数キロ圏内に集合したと言われても、思わず信じかねない景色。千切れんばかりに旗を振り、「万歳」からなる歓呼の声は百雷一度に落つるが如しで、寄る人波に大将自身、ときにまったく立往生の観を呈したほどだった。
しかし、しかしだ。
果たして何人が気付いたろうか。
盛大極まるこの出迎えの群衆が、しかしその実、肝心要のたったひとりを欠いていたということに――。
そのひとりとは、言うまでもない。
乃木希典にとってのツガイ、静子婦人、その人である。
なにゆえ妻は夫にとってのこれ以上ないハレの場に駈けつけようとせなんだか? 理由は単純、差し止められていたからだ。他でもない、夫自身の手によって――。
乃木希典は、しっかり厳命しておいた。
“出征したるものが運ありて命を損ぜざる以上は何時か帰るは当然の事、其上我部下の壮丁の戦場に斃れしもの頗る多し、戦争とは云ひながら面目もなき次第、凱旋の日とて出迎無用”
如上の書簡、訓戒を、事前に我が家へ送附しておくことにより、だ。
静子婦人は従容として従った。
乃木希典が仄かな満足を持ったのは、自分を迎える幾千幾万の民草があったことよりも、唯一無二の伴侶の影がその中に無いことだった。
天気晴朗、空に一点の雲翳を見ず、一天鏡の如くなり――。
当日の気象記録であった。
陽光にたっぷり恵まれて、乃木希典は凱旋式を了えている。
※ ※ ※
東郷平八郎が乃木希典を第三軍司令部に訪問したのは、明治三十七年十二月十九日のことだった。
このとき旅順要塞は、未だ陥落していない。
が、港湾内のロシア艦隊。こちらの方はほぼほぼ海の藻屑と化しきって、長く続いた攻囲戦にもどうやら目処が立ちつつあった。
そういう時局下に於いて、二人は顔を突き合わせている。
暫くの間、双方一言もなかったという。
こみ上げてくるものが多過ぎたのだ。
“最初は二人とも言葉が出なくてな。唯、黙って手を握り合っただけよ。全く感慨無量ぢゃった。乃木は実によく戦った、最善を盡して戦ってゐたのぢゃ。可哀さうに伜二人まで戦死させて…乃木は全くいゝ男ぢゃった”(『東郷元帥直話集』)
会見後、包囲を続ける乃木を背に、東郷はいったん日本内地へ帰還した。
宮城にて、明治大帝にこれまでの海戦の経過をつぶさに伏奏。その任を遂げ、再び戦地に赴く前に、
――せっかくだから。
ということで、同郷の上村彦之丞を誘い、二人して乃木の留守宅を訪れ、奥方の様子を見舞っている。
急な訪問に、しかし静子夫人は快く応対してくれた。
三方に盃を載せ持ち来たり、手ずから銚子を傾けて、
「お祝い申し上げます」
どうぞ一献、とすすめてくれる。
(なるほど、乃木の伴侶なだけはある)
質素ながらも心づくしなもてなしに、感じ入ること、無尽であった。
“…そこで私は夫人の心中を思ひ戦場で乃木に會うた話や戦死せられた令息の勝典保典両氏へのお悔みを申した所、奥さんは少しも取乱す様子がなく落着いた態度で、
「伜共もどうやら御国に盡す事ができましたので何より本懐に存じます。又、これで戦死した沢山の兵士の父兄の方々にも申訳が立つやうにも存ぜられ、せめての心慰めでございます」
かう健気に云ったが、実に烈女であると感心したよ”
烈女。――
二十一世紀日本では、死語と化して久しい語句ではなかろうか。
東郷平八郎の周囲には、この二文字を以ってして表される型の女性が多い。少なくとも筆者の目にはそのように印象されている。
第一、彼を産んだ母親からしてそうだった。薩摩藩士堀与三左衛門の三女に生まれ、益子と名付けられたこの人が東郷吉左衛門実友という七つ上の男のもとに嫁したのは、弱冠二十歳の折だった。
以来、子宝にも恵まれて、四十一歳までの間に五男一女をもうけている。
そのひとりひとりを、益子は誠心誠意愛情籠めて撫育した。“夜分用事があって愛児達の寝室を通る時も、刀自は決してその枕元は通らず、必ず、足元を迂回した。将来、御国の為に、忠節を盡すべき大事な子等の頭上を歩む如きは之を軽んずることゝなるから、親といへども慎むべきだ、と自らを戒め、且つ愛児等に自重の念を起こさしむるに努めた”そうな。
「感化」こそが教育の要諦であると、この人はどうも知悉し抜いていたらしい。
毎朝この母親に髪を整えてもらったことも、平八郎にはかけがえのない記憶となった。
“母は清水で手を清め、兄から順々に梳るのであったが、刀自は、一人一人、必ず新しい元結でしっかと結び、我子等が世俗の汚れに染まらぬやう、心から祈願をこめたので、その母の温き心の訓へに少年達は感涙に咽んだ”
手塩にかけた愛児たち。
ところが益子は、そのほとんど全員に、先立たれる破目となる。
逆縁――親より先に子供が亡くなる現象を、繰り返し味わわされるのだ。
長女・次男は共に夭折、三男壮九郎実次は西南の役で西郷方に附き、奮戦して勇名を馳せたが城山の戦いでとうとう討死。
五男の四郎左衛門実武はというと、若干十七歳にして戊辰戦争に従軍し、会津若松城を攻めたが陣中悪疫を罹患して、そのまま儚くなってしまった。
結局のところ、長生したのは長男四郎兵衛実猗と、四男仲五郎実良のただ二人。このうち長男四郎兵衛は、三男壮九郎と同様に西南の役では西郷方に身を投じ、辛うじて命は拾ったものの、
――ひとたび叛軍についた以上は。
今更勤めも恐れ入る、と、こういう理屈で身を慎んで、如何に周囲から勧められても二度と再び表舞台に上がろうとせず、郷里鹿児島に逼塞したまま明治二十年に朽ちている。
東郷益子は同三十四年まで生きたから、またしても我が子の遺骸を見送らなければならなくなったというわけだ。
彼女が遺して逝けたのは、ただひとり四男仲五郎実良――後に海軍の「神」と仰がれ、日本全国誰一人として知らぬ者のいなくなる、平八郎のみであったという事実。
試練と呼ぶには執拗過ぎる、運命の悲愴に相違ない。
「母は苦しかったことじゃろう」
半ば目を伏せ、「沈黙の提督」は呟いている。
平八郎が安部真造――『東郷元帥直話集』の編纂者――に語ったところに依るならば、三男壮九郎が戦死した折、大勢の戦友たちといっしょくたに「仮埋め」された彼の死体を、益子はなんと、素手で掘り起こしたそうである。
「鍬で掘って、我子の遺骸にその先でも触れては可哀そうだと思ったのじゃろう」
母の心裏を、元帥はそう読み解いた。
余人を交えず、助けを借りず、我が両の手のみを器具として、ひたすらに土を掻いたため、たちまち指は血に染まる。
が、当時の益子にしてみれば、肉体的苦痛なぞ物の数ではないだろう。やがて毛布に包まれた壮九郎を発見し、東郷家の墓所に持ち帰って鄭重に埋葬したときやっと、わずかながら安んずることが出来たという。
驚くべきは、これほどの目に遭ってなお、彼女が西郷隆盛を少しも怨んだ気配がないということだ。
そういう湿っぽい感情を、益子は生涯、おくびにも出そうとしなかった。
“朝軍に抗した罪はいか様に弁ずるとも免れぬところであるが、西郷先生の御志は決して一身の利害の為ではなかったと思ふ。他日の正論はよく西郷先生の御心底を明らかにするであらう。それはともあれ、たとへ賊名を負へばとて、一生の恩人に殉じた我子のことを思へば、親としては萬斛の涙なくてはならぬ”
よほど人間が練れていなくば、上の言葉は出てこない。
「武家の女」の、その精華と呼んで良いのではなかろうか。子は親を映す鏡と云う使い古された格言が、途端に新鮮な舌触りを帯びてくる。まさしくこの母にしてこの子あり、だ。




