第一話 魔術という「現象」への問いかけ ~日常と非日常の境界線~
作中に登場する概念や単語はフィクションです。
鳳雛学園大講義室は、期待と不安、そして若干の眠気が入り混じった独特の空気で満たされていた。新入生にとって最初の難関、あるいは最大の興味の対象とも言える「魔術基礎理論」の初回講義が、まさに始まろうとしていたからだ。噂に聞く担当教授は、学園でも屈指の変人だが、その実力は折り紙付きだという。
やがて、大講義室の巨大な扉がゆっくりと、しかし重々しい音を立てて開いた。現れたのは、長く白い髭を蓄え、度の強そうな丸眼鏡の奥から、まるで全てを見透かすような鋭い眼光を放つ一人の老教授。アルバス・フォン・ローゼンバーグ。その名を知らぬ者は、少なくともこの学園にはいない。
彼は、まるで古木の精霊が歩いているかのような静かな足取りで教壇の中央に進み、一度、わざとらしいほど大きな咳払いを一つ。シン、と静まり返った講義室に、彼の低く、しかしよく通る声が響いた。
「諸君、おはよう。あるいは、まだ夢の世界から帰還できていない者もおるかな? 今日から我々が足を踏み入れるのは、人によっては“奇跡”と呼び、またある者は“禁忌”と恐れる世界――“魔術”だ」
アルバス教授はそこで言葉を切り、生徒たちの顔をゆっくりと見渡した。最前列で目を輝かせている者、緊張で固まっている者、早くも船を漕ぎ始めている者…。ふむ、と一つ頷き、彼は続けた。
「だが、構える必要はない。君たちが毎朝、寝ぼけ眼で顔を洗うのと同じくらい、実はありふれた…いや、ありふれていては私の商売が上がったりだな。訂正しよう。実に論理的で、体系化された現象だと、少なくとも私は、そう考えている」
彼の言葉と共に、教壇背後の巨大なホログラムスクリーンに、二つの映像が並んで映し出された。
左側には、ごくありふれた日常風景。湯気を立てるマグカップに、母親らしき人物が丁寧にコーヒーを淹れている。豆を挽き、フィルターをセットし、慎重にお湯を注ぐ一連の動作。
右側には、同じく人間の手が映っているが、その手のひらの上には、淡い青白い光を放つ小さな球体が、まるで生きているかのようにゆっくりと回転していた。
「さて諸君。左は“日常”。右は、まあ、君たちがこれから学ぼうとしている“魔術”の、ほんの初歩の初歩だ。この二つの行為の間に、本質的な違いはあるのだろうか? 一方は“日常の営み”、もう一方は“神秘の業”。そうレッテルを貼るのは簡単だ。だが、もう少し深く考えてみようじゃないか」
教授は、杖とも呼べそうな細長い指示棒で、左の映像を指した。
「このコーヒーを淹れるという行為。これには明確な『目的』がある。美味しいコーヒーを飲みたい、というな。そして、その目的を達成するための、実に合理的な『手順』が存在する。豆の種類を選び、適切な量を挽き、湯の温度を管理し、蒸らし、数回に分けて注ぐ…。これらの手順の一つでも間違えれば、泥水のような代物ができるか、あるいは火傷をするかもしれん」
教室のあちこちから、くすくすという笑いが漏れる。
「では、右の光球はどうだ? これもまた、『手のひらに光を灯したい』という明確な『目的』があり、それを達成するための『手順』が存在するとしたら? それがコーヒーを淹れる手順と、本質的にどれほど違うというのかね?」
教授は、そこで一人の生徒を指名した。前の方の席で、やや緊張した面持ちでノートを取っていた男子生徒だ。
「そこの君。君はどう思うかね? コーヒーと光の球、何か決定的な違いはあると思うかね?」
突然指名された生徒は、びくりと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。
「え、あ、あの…! その、コーヒーは、誰でも練習すれば淹れられるというか、物理的な法則に従っている気がしますが…魔術の光は、その…何か特別な才能とか、目に見えない力が必要なのかな、と…思います…?」
しどろもどろな生徒の答えに、教授は満足げに頷いた。
「うむ、良い指摘だ。確かに、“目に見えない力”は必要だ。そして、その力を制御するための“特別な技術”もな。だが、“誰でも練習すれば”という部分は、魔術にも当てはまると私は考えている。もっとも、その“練習”が、コーヒーを淹れる練習よりも、遥かに厳密で、危険を伴うものだがね」
「ここで重要なのは、『目的』と『手順』という二つの要素だ。どんな複雑な魔術も、どんな些細な日常の行為も、突き詰めればこの二つに還元できる。我々は無意識のうちに、日々、無数の“手順書”を実行している。『歯を磨く手順書』『靴紐を結ぶ手順書』『友人に挨拶をする手順書』…。これを、少し大げさに言えば『思考プロトコル』と呼んでもいいだろう」
スクリーンには、大きく「目的 (Intent)」「手順 (Procedure)」「プロトコル (Protocol)」という三つのキーワードが浮かび上がった。それぞれの言葉が、淡いエーテルの光を放っているように見えるのは、気のせいだろうか。
「さて、ここで諸君に、より身近な例を提示しよう」
教授は、どこからともなく、一本の黄色く熟れたバナナを取り出した。教室に、またしても微かな笑いと、「やっぱりバナナか…」という囁きが広がる。教授の講義でバナナが登場するのは、もはや鳳雛学園の名物の一つだった。
「ここにバナナがある。そして、ここに一匹の…そうだな、非常に知能の高い猿がいたとしよう。この猿が『このバナナを食べたい』という強烈な目的 (Intent) を持ったとする。さて、この賢い猿は、次に何をするかね? ええと、君はどう思う?」
今度は、窓際の席で冷静に教授を見つめていた女子生徒が指名された。彼女は落ち着いた様子で立ち上がり、淀みなく答える。
「まず、バナナを認識し、それが食べ物であると判断します。次に、バナナに手を伸ばし、掴むでしょう。そして、皮をむき、中身を口に運び、咀嚼し、嚥下する。一連の手順 (Procedure) を実行するはずですわ、教授」
「完璧だ、まさにその通り!」教授は感嘆したように声を上げた。「君は既に、ノアティック・コードの才能があるやもしれんな。今、説明してくれた一連の思考と行動のプロセス。これこそが、猿がバナナを食べるための『プロトコル (Protocol)』なのだ!」
スクリーンには、猿がバナナを食べる様子のコミカルなイラストと共に、フローチャート形式で表示された。
【バナナ発見】→【空腹認識/摂食欲求】→【手起動コマンド発行】→【バナナ捕捉シーケンス】→【皮むきサブルーチン実行】→【果肉搬送オペレーション】→【咀嚼・嚥下プロセス】
何やら小難しく書かれているが、要はバナナを食べる手順である。
「この猿のプロトコルは、極めて単純だ。だが、もしこの猿が、バナナを食べるという目的を達成するために、試行錯誤を繰り返し、より効率的に、より安全に皮をむく方法を学習し、その手順を他の猿に教えることができたとしたら? それはもはや、原始的な“知恵”の伝達であり、我々がこれから学ぶ“魔術”の萌芽とさえ言えるかもしれん」
教授はそこで一旦バナナを教卓に置き、生徒たちを見回した。
「コーヒーを淹れるプロトコル。バナナを食べるプロトコル。そして、手のひらに光を灯すプロトコル。これらの間に横たわる本質的な違いとは何だろうか? それは、プロトコルが作用する対象と、プロトコルを実行するために使用する媒体の違いに過ぎない、と私は考えている」
「コーヒーを淹れるプロトコルは、水やコーヒー豆といった物質を対象とし、人間の物理的な行動を媒体とする。バナナを食べるプロトコルも同様だ。では、光を灯すプロトコルは? それは、この世界の根源的なエネルギーであり情報でもある『エーテル』を対象とし、君たちの『構造化された思考』そのものを媒体とするのだ」
彼の言葉には、有無を言わせぬ確信が込められていた。
「諸君、勘違いしてはならない。魔術とは、奇跡でもなければ、超能力でもない。それは、『目的を達成するための、エーテルを介した、極めて高度で厳密な思考プロトコル』なのだ。そして、そのプロトコルを記述し、実行するための“言語”こそが、我々がこれから学ぶ『ノアティック・コード』に他ならない」
「今日の講義の第一部で、君たちに理解してもらいたいのは、この一点だ。魔術とは、君たちの思考の延長線上にある、論理的で体系化された技術である、ということ。そして、その技術の根底には、日常のあらゆる行為と同じように、『目的』と『手順』、すなわち『プロトコル』が存在するということだ」
教授は、スクリーンに映し出されたバナナを食べる猿のイラストを、指示棒で優しく叩いた。
「この賢い猿が、バナナを食べるという単純な目的のために、無意識のうちに複雑な思考プロトコルを実行しているように、君たちもまた、これから学ぶノアティック・コードを通じて、エーテルという未知の媒体を相手に、自らの思考を精密なプロトコルとして編み上げ、想像を絶する現象を引き起こすことになるだろう。…もちろん、そのためには、バナナの皮のむき方から、しっかりと学んでもらわねばならんがね」
再び、教室に笑いが起こる。張り詰めていた空気は和らぎ、生徒たちの顔には、未知への好奇心と、ほんの少しの当惑が浮かんでいた。
アルバス教授は、その反応に満足したように、静かに頷いた。
「では、少し休憩を挟もう。次に我々は、この魔術プロトコルの“燃料”であり“材料”でもある、捉えどころのない『エーテル』という存在について、もう少し深く掘り下げてみることにする。休憩時間は10分。…バナナが欲しければ、購買に売っているかもしれんぞ?」
その言葉を残し、教授は再び静かな足取りで講義室の隅にある自室へと消えていった。残された生徒たちは、今の講義内容を反芻するように、あるいは隣の席の者と小声で感想を交わしながら、短い休憩時間へと入っていった。魔術はバナナか、という奇妙な問いかけが、彼らの頭の中でまだ反響しているようだった。