第四話 月夜の香(前編)
一
夜、火薬工房の爆発から数日後。
町は再び静けさを取り戻しつつあったが、綾の頭にはまだ、あの焦げた香袋の匂いが残っていた。
それは、彼女の香袋と同じ——白檀、干し蜜柑、そして……樟脳。
(あの香りは、母の……)
香りと記憶は深く結びついている。
綾は薬籠を前に、指先で香草を撫でながら、答えの出ない思いを抱えていた。
——それは、幼いころ。
雨の夜だった。
小さな綾が縁側に立ちすくむと、母が静かに膝をついて、背後から香袋をそっと結んでくれた。
「これはね、綾。忘れたくないものがあるときだけ、香りを使うのよ」
綾は聞き返した。
「どうして?」
「人の記憶は壊れやすい。でも、香りはね、想いを包んでくれる。
大切な人のぬくもりも、涙の味も、全部閉じ込めておいてくれるの」
「じゃあ、綾も、香りに閉じ込めておけば、お母さんのこと忘れない?」
母は黙って微笑み、それだけを答えた。
「そうね。きっと……忘れない」
それが、綾の中にある最後の母の記憶だった。
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「また、煙くさいことしてるな」
志岐の声が、茶屋の縁側から聞こえた。
干し柿をかじりながら、相変わらずの気のない口調だ。
「匂いで思い出すものって、あるでしょ?」
「いや、おれはあんまり……干し柿の匂いくらいだな」
「そんなの、いつも食べてるからでしょ」
「だから覚えてるって話だろ」
「……屁理屈」
綾は小さく鼻を鳴らしながらも、言い合いにどこか安心していた。
言葉の端が柔らかくなったのは、きっと自分だけじゃないと、少しだけ思えたからだ。
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二
その日の夕方。
町の端、井戸の裏で、少女の悲鳴が上がった。
「誰か! 誰か来てー!」
駆けつけた綾の目に飛び込んできたのは、倒れている小さな坊や。
髪はぼさぼさ、着物は汚れ、顔には擦り傷がいくつもあった。
(……この子……たまに茶屋へ遊びに来る子供...確かこたろうと言ったはず)
綾はすぐにしゃがみこみ、薬草を取り出して応急処置を始めた。
「大丈夫よ、こたろう。痛くないようにするから」
子どもはびくっと震えたが、綾の手つきが優しいと知ると、やがて力を抜いて目を閉じた。
こたろうが袖をまくった瞬間、赤く腫れたすり傷があらわになった。
小石で擦ったような傷口に、すでに炎症と軽いかゆみが出ている。
「うわ……!いたそー……!」
志岐が思わず眉をひそめる。
綾はすっと膝をつき、こたろうの腕を手に取った。
「少ししみるかも。でも、すぐ楽になるよ」
香袋から小さな丸い木蓋の器を取り出し、指先で紫色の軟膏をひとすくい。
「これは“紫草”っていう植物が入ってる。かゆみと炎症を鎮めてくれるの」
軟膏には他にも、白芷と連翹が混ぜられていた。
どちらも膿や腫れ、熱を取る作用があり、昔の漢方では湿疹や虫刺されにも使われていた香草だ。
志岐は少しムッとした様子で、綾の手の中にある軟膏を奪い取った。
「待て。誰かに使う前に——まず俺が試す」
「……は?あんた、怪我してないでしょ?」
「効果と反応を見るだけだ。
効くかどうか、塗った感触でわかることもある」
志岐は、ひとさじ分の軟膏を指先に取ると——
香りを嗅いでから、鼻筋の横にそっとつけた。
「なんで、そこに……?」
「皮膚が薄くて、香の反応が出やすい場所だ。
異常があればすぐに赤くなる」
「……そういう使い方、するんだ」
「信用は、香で測るものだろ?」
「……」
綾が小さく目を見開いた。
(……この人、香の知識、完全に素人じゃない)
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「……冷たい」
こたろうが目を見開く。
綾はにこっと笑って、こたろうの患部に優しく薄く塗り広げた。
「紫草は肌の熱を引いてくれるから、最初は少し冷たく感じるの。
でも、この子ががんばって腫れを追い出してくれる」
—
志岐は少し離れた場所から、その手つきをじっと見ていた。
(……ただの薬草好きじゃねぇな。
処置が“習った”んじゃなく、“身体で覚えてる”やり方だ)
—
「ほら、これでよし。今日は掻いちゃだめだよ」
こたろうはしばらく腕を見ていたが、
数分後、かゆみが引いたのか、ふうっと息をついた。
「……すごい。さっきより全然楽!」
綾は香草の器をそっとしまいながら、微笑んだ。
「うん、紫草さんたち、働き者だからね」
—
この静かなやり取りの向こうで、
志岐はふと、自分の鼻を指でこすった。
——そこには、さっき“試しに”塗った軟膏の香りが、うっすらと残っていた。
「最近鼻に色々つけてるな。」
ボソッと、綾に聞こえないように呟いた。
⸻
三
その子は、名前を「こたろう」と名乗った。
「どこから来たの?」
「……しらない」
「おうちは?」
「ない」
短い返事ばかりだが、綾が笑うと、こたろうはほんの少しだけ口角を上げた。
「……綾ちゃん」
「うん?」
「……すき」
志岐が、後ろで飲んでいたお茶をむせた。
「……何言ってんだおまえ」
「しき、へんな顔」
「……おまえもな」
綾はきょとんとして、こたろうと志岐を交互に見た。
「ふたりとも、どうかした?」
「いや……別に」
志岐は干し柿をかじりながら、なぜかちょっとだけ不機嫌そうだった。
「とりあえず、俺はこいつの親を探してくる。」
手を繋ぐには距離がある二人の間には、緊張感が走った。こたろうは少し顔がこわばっている。
志岐はひょいとこたろうを小脇に抱えた。
「やめてよ。そんな子供じゃないもん!」
こたろうは抱えられながら足をばたつかせた。
「男たるものしっかりしろ。だもんって、子供しか使わないぞ。」
ニヤッと、志岐が悪そうな表情をしていることが、後ろ向きで顔がよく見えない位置でもわかった。
____
志岐が、こたろうを綾の家に連れてきたその日の夕方。
綾は紹介してもらった町外れにひっそりと建つ小さな長屋に移り住んでいた。
木戸を開けた瞬間、ふわりと香草と焚き木の混ざる匂いが漂う。
土間の奥には簡素な調香台と乾かされた薬草、そして繕いの跡が残る布団が一枚。
天井には綾が自ら貼った補修の布が何枚も並んでいたが、どこか居心地のよさがあった。
「……一時的にな。預け先がなくて」
志岐は腕組みをして、ぶっきらぼうに言った。
「この町に来た旅芸人の一座が急きょ出発してな。
あの子の祖母だけが荷車に乗り遅れて、いま宿で熱を出してるそうだ。」
綾は小さく眉をひそめる。
「じゃあ、両親は?」
「元々いないらしい。祖母に育てられてると聞いた」
「……」
綾はため息をつきながら、家の奥から湯を汲んできた。
「せめて顔ぐらい洗わせて。手も真っ黒じゃない」
こたろうは不安げに志岐の後ろに隠れていたが、
綾が膝をついてタオルを差し出すと、おそるおそる顔を出した。
「……香りがする。おねえちゃんが作ったの?」
「うん、紫蘇と薄荷。ちょっとスースーするけど、すぐ慣れるよ」
こたろうは安心したようにタオルを顔に覆い、深く息を吸った。