第三話 火傷の毒(後編)
四
火薬工房の奥にいたのは、古びた花火職人だった。
人々がざわつく中、
倒れていたのは花火職人の権八。
顔色は真っ青で、咳が止まらず、呼吸も荒い。
「権八親方!?」「誰か、早く医者を──!」
その場にいた誰もが動けずにいる中、
綾はすっとしゃがみ込み、眉をひそめた。
「意識はあるわ。けどこのままじゃ……」
(煙薬を吸い込んでる……鼻と口からの刺激。これは――)
「おい!どうすればいいんだ?何かできることはあるか?」
声をかけたが、彼女はそのまま処置に入っていた。
香袋を開き、素早く香草を取り出す。
「沈香、薄荷、紫蘇……これで気道を落ち着かせる」
—
懐から取り出した布に香草をくるみ、
それを指で砕きながら、鼻元へ持っていく。
「おじさん、ごめんね。深く吸わないで、香りだけでいい」
ほんの数秒後。
権八の呼吸がわずかに整い、咳が軽くなった。
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綾は真剣な眼差しで権八の容体にくまなく目を配った。
「まだ、刺激が残ってる……。喉も焼けてるかも」
湯を入れた小壺に、香草の小包を浸して数分──
香気の立つ白湯を作り、権八の唇に添える。
「麦門冬と杏仁、喉を潤す香草。ゆっくり飲んで」
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志岐は少し離れた場所でその一部始終を見ていた。
綾の指先の動き、判断の早さ、香りの組み合わせ。
(……迷いがねぇ。香を“聞いてる”んじゃない。
命を、救う手つきだ)
「志岐、水!」
綾は珍しく声を荒げ、権八から目を離せない様子で叫んだ。
志岐は返事もせず、水桶を担いで戻ると、綾の隣に静かに置いた。
その指先は、火にかすったのかほんのり赤かったが、彼女は気づかない。
「やけに静かね」
「うるさくすると邪魔だろ」
「……気が利くのね」
「そう思うなら、それだけでいい」
言いながら、志岐はあえて綾の目を見なかった。
火の気配に滲むその横顔は、煙よりもずっと、やわらかだった。
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仕上げに、温めた小石に香油を含ませ、
権八の胸元に軽く当てた綾は、安心したように言った。
「……あとは眠れば、身体が回復を始めるはず。
この香は、気の巡りを整える作用があるの」
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権八はまだ意識が朦朧としながらも、
涙を浮かべて、かすれた声を出した。
「……あんた、いったい何者……?」
綾は、微笑まず、ただ答えた。
「香を少し、嗅げるだけの者です」
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志岐は、ふと口の端を持ち上げた。
「……見えてないところで、何度命を拾ってきたんだろうな、あいつ」
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五
処置を終えた権八は、痛みの中でもぽつりと呟いた。
「わしの花火は……まだ、咲くかのぅ……」
「生きていれば、咲かせられるわ」
綾がそう言ったとき、近くで泣き声が上がった。
「じいちゃんの花火、私が継ぐもん! 継いで、綾さんみたいにすごい人になって、ばーん! って空に!」
声の主は、おすみ。権八の孫だった。
少し寂しそうな権八の表情を汲み取っているのかわからかいが、おすみは続けた。
「だから、早く元気になって教えてね!花火!」
涙でぐしゃぐしゃになりながらも、真っ直ぐに話しかけるおすみに、権八はかすかにつぶやいた。
「あぁ。」
綾は思わず、おすみを抱きしめて言った。
「そしたら私にも見せてね。その“ばーん”を」
「うん……!」
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六
作業がひと段落したころ、志岐は工房の奥、棚の裏であるものを見つけた。
焦げた板の影にあった、破れかけの香袋。
開くと、中から焦げた香草と、粉状の何かがこぼれ落ちる。
鼻に近づけると——甘さに混じって、微かな樟脳と蜜柑の香り。
(……綾の、香袋と……同じ匂い)
それに混じっていたのは、阿片に似た麻酔成分だった。
誰かが、それを混ぜて香袋として流していたのだ。
(まさか、こいつも“誰かに”渡されたのか……)
だが、志岐はそのまま袋を懐にしまった。
綾に見せることは、まだしなかった。
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七
帰り道。
火薬の匂いが少しだけ残る夜風の中、綾はふいに言った。
「あなた、今日どこか火傷してない?」
「……なんで?」
「なんか、焦げ臭いの。頭皮あたり」
志岐は軽く息を飲んだが、すぐに苦笑する。
「それ、たぶん……おれじゃなくて、火薬の匂いだろ」
「そう? でも今日一日中、あなた焦げてる気がするのよね。不思議」
「失礼だな」
「事実よ」
綾は笑わない。けれど、その声はほんの少しだけ楽しげだった。
志岐は、ふと鼻の頭をこすった。
——そこには、さっき拾った破れかけの香袋の煤がいつのまにかうっすら人差し指に移った。
どうやら、いつの間にか手についた煤が鼻に残っていたらしい。
「……見えてないなら、いいか」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
⸻
八
香茶の湯気が立つ、茶屋の奥座敷。
「ふう……もう少し、白芷を減らしてもよかったかも」
事件の後、仕事を残した綾が茶屋に戻り仕事を再開していた。ふと、ひとりごとを言うと、奥からばあさまがのそっと顔を出した。
「また真面目にやりすぎてるねぇ。お茶が熱いうちに、あんたもひと息入れな」
綾は微笑むが、目をそらすように香袋を手に取った。
「……ばあさま。そろそろ、この茶屋、出ようと思ってます」
「ん?」
「働かせてもらってるけど……本当は、居候みたいなものだから。
迷惑をかけたくないんです」
ばあさまは湯呑みを置くと、腰を下ろして静かに綾を見つめた。
「人ってのはね。誰かの隣にいることで、香るものがあるんだよ」
「……香る?」
「そ。自分では出せない香りを、誰かのそばにいるときだけ、ふっと出せることがある。
あんたがここにいることで、茶屋の空気も、客の顔も、ちょっと柔らかくなってるよ」
綾は言葉に詰まり、俯いた。
「...ううん...なんだか自分が自分じゃないようで、心がザワザワするんです。ばあさまのことは大好きだから、この仕事も続けたいし、ばあさまとも一緒にいたい。」
ばあさまは少し寂しそうな表情で膝をさすった。
「出ていくってのは寂しいけど、その気持ちは嬉しいねぇ。お前さんがいてくれるなら、わしはそれだけでありがたいねぇ」
( ばあさまの本心がわからない。本当は私なんて邪魔者かもしれないし、本当は私が住んでいる部屋も他の人に貸せば収益になる。父や母の口利きで住まわせてもらってる私はただの金食い虫かもしれない。)
綾は着物の端をぎゅっと掴みながら、なんの反応もできなかった。
—
その夜、綾と志岐はそれぞれ寝苦しい夜を過ごした。
綾の枕元には、香袋。
けれど、その中身が“誰か”にすり替えられていたことを、彼女はまだ知らない。
志岐はその夜、自分の頭によぎる可能性を綾に伝えるべきか、まだ迷っていた。
けれど、ほんの少しだけ。
“誰かを信じるということ”が、ほんの少しだけ、わかった気がしていた。
月が静かに、町の上にかかっていた。
⸻
《第三話『火傷の毒』——完》