第三話 火傷の毒(前編)
綾は町を歩きながら、貼り紙を何度も見比べていた。
「借家あり」「管理者へご連絡を」
いくつも見つけたけど、どれも埃だらけか、今にも崩れそうな家ばかり。
(条件なんてつけてる余裕ないのに……)
それでも、なぜか妥協できなかった。
——なにか、匂いのしない家ばかりだったから。
(……どうしてだろう。あたし、知らない場所でも“香り”がしないと落ち着かない)
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「……おい、何軒目だ」
背後から声がして、綾はピクリと振り向いた。
「志岐?」
( こいつまた出た。神出鬼没だな...)
「はあ……また一人でふらふら。おまえ、町の構造すらわかってないだろ」
「暇な浪人だこと。はぁ……別に。どこもピンとこないだけ」
「暇とは失礼な!俺も忙しいんだぞ!」
「……別に。どこでもいいし」
「どこでもよくてそんなに迷ってるやつ、初めて見た」
言い返そうとしたけど、綾は口をつぐんだ。
的確すぎて、悔しい。
志岐が頭をかいたあと、ちらっと彼女を見た。
「仕方ねぇな。一つ心当たりがある。町外れだ。来い」
「え、なにその命令口調。……まぁ、見てみるだけなら。」
(他に頼れる人、いないし)
綾は頬を膨らませながら嫌々、志岐の後を追い歩みを進めた。
「……別に、長く住むつもりじゃないから。どこでもいい」
「雨風しのげる場所ぐらいは選べ」
「贅沢言わないってば」
「言わなくても、顔に出てる」
「……」
(言い返したいのに、たしかに選り好みしてしまってる自分がいるのは確かだ)
——
志岐が案内したのは、町外れの少し傾いた木造家屋。
「昔ここに婆さんが一人で住んでた。今は隣町だ」
「へえ……」
戸を開けた瞬間、ふわりと懐かしい香りが綾の鼻をくすぐった。
「……なんか、香りが残ってる」
「蘭方を少し嗜んでたらしい。香も扱ってたって聞いた」
綾は無言で室内に足を踏み入れた。
何かに引き寄せられるように。
「……ここ、落ち着く」
「……そうか」
志岐はそれだけ言って、玄関の外に立ち尽くしていた。
(やっぱり……あんたに、ここが香ったか)
___________
──街へ歩みを進める志岐と綾。
「ねえ、あの子……ずっと同じ場所に座ってるの、見たことある?」
綾はふと村人の声に振り返った。
川辺の石垣に、小さな少女がぽつんと座っている。
年のころは七つか八つ。
汚れた着物に、焦点の定まらない瞳。
時折、なにかに囁くように唇が動いていた。
「名前は知らんが、最近現れるようになったそうだ。親も見えねぇ」
そう言ったのは、二人の会話に気付いた顔なじみの野菜売りだった。
綾は胸騒ぎを覚え、少女にそっと近づいた。
「……大丈夫? おうちはどこ?」
少女はふと、綾の顔を見た。
だが答えず、ただ首を傾げてこう呟いた。
「……“あの男”が、お母さんを殺したって……」
その瞬間、綾の背筋が凍る。
「“あの男”って……誰のこと?」
「かみさま。──ほら、あそこに、いる」
少女が指差した先には、志岐がいた。
少女は、じっと動かなかった。
その瞳には、誰もいない空間をじっと見つめているような焦点の合わなさがあった。
「お母さん……どうして、どうして殺したの……?」
少女からぽつりと漏れた声に、綾は息を呑んだ。
視線の先には、誰もいないはずの壁。
(志岐……? まさか……)
志岐は眉をしかめて、そっと少女の側へ膝をつく。
「おい、それは誰に言われた?」
少女は首を傾げ、まるで幼児のように指をしゃぶろうとする。
綾は恐る恐る、少女の衣の袖に忍ばせられていた香袋を取り上げた。
「この香……まさか、“記憶を捻じ曲げる香”……?」
志岐が、すぐに香袋を水桶に投げ込んだ。
「このままじゃ、完全に戻れなくなる」
少女はうわ言のように笑いながら、綾の手を握る。
「……ままの……かおり……ままが、ころされた」
その言葉に、綾は自分の背筋が凍るのを感じた。
「香で……記憶を作りかえてるの? こんな風に、人の心を壊して……」
綾の手が震えていた。
志岐はそんな綾を見つめ、静かに頷いた。
「……これが、“香で人を壊す”ってことだ」
綾の目に、かつてないほどの迷いと怒りが浮かんでいた。
「阿片だな。たぶん香に微量混ぜられてる。南蛮渡りの薬草に紛れて入ってくる」
志岐は香袋を手に取り、鼻先でわずかに香をかぐ。
「阿片はもともと痛みを消すために使われてた。だがな……連用すれば、感情も記憶も摩耗する。
嬉しいことも、悲しいことも、輪郭がぼやける。そうやって“壊れていく”んだ」
綾は息を呑む。
「そんなもの……なぜ香袋に?」
「香の名を借りて売る。『心を鎮める』『安らぎの香』とでも言えば、誰も疑わない。
ほんの少し混ぜれば、持ち主は“心が落ち着く香り”として受け入れる。
……記憶に染み込むようにな」
志岐の語り口は冷静だったが、どこか遠い昔を思い出すような、かすかな苦味を含んでいた。
「それを知ってるってことは……あなた、前にも関わってたの?」
志岐は答えなかった。
__________
昼下がりの風が、店先の風鈴を鳴らしていた。
町は祭りの準備に向けてざわついていたが、茶屋の縁側は例外的に穏やかだった。
綾は火鉢の前で、小さな香袋を静かに炙っていた。
微かな白煙と共に立ちのぼるのは、白檀、干し蜜柑、そしてほんのりと甘い、どこか懐かしい香り。
「……またやってるのか」
( ここ最近、香が絡んだ物騒な事件ばかりだしな...こいつも香を扱うものとして何かしたいって気持ちはあるみたいだな。)
背後からの声に振り向かず、綾は言う。
「記憶に作用する香りって、あるのよ」
(こいつに働き場所がバレてから毎日やってこられて本当に迷惑だわ。)
「つまり、嗅いでぼーっとしてるのは医療の一環ってことか?」
「間違ってはいないわね」
志岐は干し柿をかじりながら、火鉢の煙に目を細めた。
「……たまに、煙吸いすぎて気絶するんじゃねえかって思う」
「それはあなたが心配性なだけ。……というか、わたしが気絶してるの見たことある?」
「いや、ない」
「なら、その心配は“無駄”ってことよ」
「おまえ、人を“論破”するのが趣味だろ」
「ちがう。“論”に“破れる側”が弱いだけ」
志岐は唸るように干し柿を噛み、噛みきれなかった皮を器用に指でまとめて包んだ。
そんな細かい仕草すら、妙に几帳面で。綾は、火鉢を見ながらぽつりと呟く。
「あなた、前より静かになったわね」
「そうか?」
「うん。なんというか、前はもう少し、言葉の端が尖ってた気がする」
志岐は答えなかった。
言葉の代わりに、風が通り過ぎる。
その風に乗って、香袋から漂う匂いがふたりの間を滑る。
「——母が、よく使ってたの。この香り」
その声は、火鉢の炎よりも低く、くぐもっていた。
「母は……私が八つの頃にいなくなったの。ふと気づいたら、いない。理由も、手がかりもなくて」
志岐は香の漂いを確かめるように、わずかに眉を動かした。
「……父親は?」
綾は一瞬だけ視線を伏せ、やがて、ぽつり。
「外科医だった。幕府に招かれて、表には出ない施術を任されてたって……ばあさまが内緒で教えてくれた」
「それで?」
志岐の声は、低く、けれど優しく背を押すようだった。
「──父も、いなくなった。母のあとを追うように。
残ったのは、この香袋と……曖昧な記憶だけ」
風が通り過ぎ、ふたりの間に、香袋から立ちのぼった白檀の香がふわりと流れ込んだ。
「……思い出す?」
「……わからない。思い出そうとすると、逆に何も浮かばなくなるの」
志岐は火鉢の炎を見つめながら、ぼそりと呟く。
「もしかしたら...お前の記憶は、香で覆われてる可能性がある。だから怖いんだろ、“真実”を嗅ぎ当てるのが」
「……そうかもね」
沈黙が、すこしだけ漂った。
「なあ、綾」
「ん?」
「なんでもない。」
ふたりの会話は、まるで流れる水のようだった。
なにひとつ強くぶつからず、でも確かに通り過ぎていく。
沈黙が訪れる。
ただ、それは重くはなかった。
「……あのさ」
志岐がふいに口を開いた。
「俺、たぶんまだ、おまえのことよくわかってねえんだと思う」
「わたしも。あなたが何を怖がってるのか、ぜんぜん読めない」
「“怖がってる”って決めつけんの、どうかと思うが……」
「図星でしょ?」
「……八割ぐらいな」
ふたりは、同時に小さく笑った。
でも、そこには“近づいた”とは言い切れない距離が、まだ残っていた。
そのとき——
「……ッ!?」
遠くで、破裂音が鳴った。
空気が震え、地面がわずかに揺れる。
綾が立ち上がり、志岐も即座に腰を上げた。
「どこだ……あの音……」
「火薬の匂い。……あれ、祭り用の花火じゃないわ」
町の向こう、屋根の合間から、黒い煙が上がるのが見えた。
「花火師の工房よ!」
綾は薬籠を掴み、駆け出した。
志岐はその背中を追いかけながら、手の中でしわくちゃになった干し柿の皮を見つめた。
(やっぱ、こいつは煙よりよっぽど危なっかしい)