第四十三話 「分かたれた芯」
──長崎の夜明け。
潮風に溶けるような淡い香が、町の静けさを満たしていた。
だが、綾の胸の奥には、重い余韻がまだ残っていた。
少年兵との戦い。共鳴香が届いた一瞬の奇跡。
それは“香の力”ではなく、“芯の記憶”が呼び戻したものだった。
「……香で人は戻れる。けど、“戻す”だけじゃ、終われない」
綾は自室の火鉢の前で、まだ温もりを保つ香皿を見つめていた。
そこへ、志岐が現れる。
「……綾、顔が悪いぞ。寝てねぇな?」
「……あんたもでしょ。干し柿の皺、倍になってる」
「よけいなお世話だ」
ふたりは言葉を交わしながら、ふと目を合わせて微笑んだ。
けれどその直後──
コン、コン。
控えめに戸が叩かれた。
現れたのは、町の薬種問屋の使いだった。
「“香の綾”様。お届け物が……これを、必ず本人に、と」
綾が受け取ったのは、桐箱に包まれた古びた香包。
中には、かすかに干からびた香材と、香記録らしき一枚の紙。
──“分割香試作・綾型:芯拡張対象001”
「……これ、私の“香”をもとに、誰かが実験してる……?」
志岐が目を細める。
「やられたな。芯を“模倣”する段階は終わった。今度は“複製”してくるつもりだ」
「じゃあ、“わたし”が、もうひとり……?」
綾の背中に冷たい汗が滲む。
志岐は言った。
「“芯の分裂”……つまり、“綾”という存在そのものを、別の器に植え付けようとしてる。芯を盗んだだけじゃ足りず、次は名と芯を分けて育てるつもりだ」
綾は箱の中の香包を、そっと胸に抱きしめた。
「そんなこと、絶対に──させない」
⸻
──その頃、長崎の地下通路。
黒い外套の男が、ひとり歩いていた。
「模倣は終わった。“芯の分裂”は、反応良好。
綾の記憶構造をもとに、もう一体を作る準備が整いつつある」
彼の前に、仮面の少年がひとり、跪くように立っていた。
その目は、無感情のまま揺れている。
「名を持たず、記憶も持たず、ただ“芯”だけが綾のもの──
……これは、“もう一人の綾”となるだろう」
男は香壺の蓋を開け、立ち昇る香を嗅いだ。
「……次は、“芯の綾”ではなく、“芯から逸れた綾”を作る。
もう、彼女は鏡を見るたびに、自分が自分であることに迷うだろう」
その声は、どこまでも冷たく響いた。
⸻
──翌朝。
「なあ綾、いつまで長崎にいる気だ?」
志岐の不意の問いに、綾は湯飲みを持ち上げたまま止まった。
「……え?」
「そろそろ、江戸に戻る頃かもな。あっちはあっちで、動きがある」
綾は思わず目を逸らした。
「まだ、こっちでやることがある。香の調整も、町の人の診察も、途中だし」
「……まあ、そう言うと思った」
志岐はふっと笑い、干し柿をひとつ口に放った。
志岐は、湯飲みをひとつ手に取りながら、ぽつりと口を開いた。
「……“綾”って名前が、先に独り歩きしてる。
このままじゃ、おまえの中身まで置いてかれるぞ」
綾は答えず、静かにお茶を啜った。
湯気が立ちのぼるその向こうで、志岐の表情が読めない。
「江戸じゃ、もう“香の綾”が人を救ったって話まで広まってるらしい。
……あんたのこと、知りもしない連中が、好き勝手に持ち上げてる」
「……だから何?」
綾はようやく口を開いたが、声は静かだった。
「それで、わたしの芯が揺れると思ってるの?
“綾”がわたしじゃなくなるのを、あんたが怖がってるの?」
志岐は言葉を飲み込んだ。
否定も肯定もせず、ただ一口、冷めた茶を口に含む。
「……いや、たぶん、俺が怖いのは──
“おまえがいつの間にか、違うところに行っちまうこと”かもな」
綾はそれには返さなかった。
しばらくして、わずかに口角を上げる。
「……だったら、ちゃんと見ててよ。置いてかれないように。」
「……言われなくても」
けれどその声には、どこか引っかかるような棘が残っていた。
ふたりの間に残ったのは、湯気の切れ間と、
言葉にならなかった“距離”だけだった。
──第四十三話・了




