第四十一話 芯の雪、香の声
冷たい風が、香の町の上を吹き抜ける。
雪之助の足元には、すでに香が仕掛けられていた。
香壺から立ちのぼるその煙は──“共鳴”ではなく、“強制”。
「“芯”を叩き起こす香だと?」
志岐の声が低く響く。
雪之助はかすかに頷いた。
「俺は、“作られた兵”。でもな……この香を浴びれば、記憶の底から“芯”が出てくる。どんな奴でも──否応なく、な」
燈が一歩、綾の前に出た。
「……そんなの、“暴力”だよ。香は、誰かを揺さぶるためのものじゃない」
雪之助はふっと笑った。だがその目は、どこか悲しげだった。
「お前もそうだったろ。誰かのために作られた“影”。
お前が自分の芯を知ったのは、誰かに“芯を叩かれた”からじゃないのか」
燈は言葉を失う。
だが──
「……それでも、私は“暴かれた”んじゃない。
“見つけた”の。綾と一緒に、香を選んで──“自分の芯”を」
綾がそっと頷き、志岐が静かに刀を抜く。
「なら、“強制”じゃねぇ。“共鳴”で、行こうぜ」
綾が香包を手にしながら、志岐にちらっと目を向ける。
「ねぇ、志岐。この状況で“共鳴香”って、かなり博打だよね?」
志岐は刀を抜きながら、肩をすくめた。
「……今さらだろ。お前、火事の中でも香焚いてたじゃねぇか」
「ふふ。あれは火事じゃなくて“演出”だもん」
燈が思わず吹き出す。
「演出って……このひと、たまに“爆発芸人”みたいなこと言い出すんです」
「誰が芸人よ!」
綾がむっとしながらも笑みを浮かべると、志岐も小さく笑った。
「……ま、そんな調子でいろ。“芯”ってのは、笑える奴の方が強ぇんだよ」
綾と燈が、同時に香を手に取った。
綾の香──白檀と甘皮、そして薄紅の桜香。
燈の香──黒胡椒と朽ちた藁香、芯の奥に揺らめく祈りの香。
ふたつの香が混ざり合うとき、風が空を撫で、雪が柔らかく舞った。
「……芯よ。芯で応えろ」
香が重なった瞬間、雪之助の表情が苦しげに歪む。
「これは……なんだ……芯が、震える……!」
がらんとした香壺が倒れ、雪之助が膝をつく。
だがそのとき、彼の背にある香壺から、別の煙が立ちのぼった。
──“鏡芯香”。
志岐の顔が険しくなる。
「伏せろ、綾!!」
刀を振るい、煙を断つ。が──
「……遅い。俺の“芯”は、もう……!」
雪之助の目がかすかに赤く揺らぐ。
だがそのとき──
「違う!」
燈の香が、香壺に直接触れた。
香の“芯”を支える、祈りの香。
「鏡じゃない。あなたの芯は、もう“あなたの芯”だよ!」
香が、ふっと静かに収まる。
──風が止んだ。
雪之助は、がくりと膝をつき、そして──
「……雪乃、って……昔……呼ばれてた気がする」
小さな声が、煙の中から漏れた。
綾は、そっと彼に近づいた。
「……あなたの“名”を、取り戻して」
雪乃助は、震える声で頷いた。
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その夜、長崎の上に静かな香が残った。
志岐はふと、黒い気配を感じ、振り返る。
──だが誰もいない。
いや、違う。
瓦の影に、微かに香の気配だけが残っていた。
(“鏡芯”……また新たな手か)
志岐は、小さく息を吐いた。
「戦いは、まだ終わっちゃいねぇな」
その言葉に、綾と燈も静かに頷いた。
──三人の芯が、ひとつの戦いを越えた瞬間だった。




