第三十九話 鏡の芯(かがみのしん)
─ズン、と地が鳴った。
「芯が……騒いでやがる」
雪乃助の足元で、香がぱっと爆ぜた。
だが、それはただの香ではない。手にした香壺から立ち上る煙は、共鳴香に似て、どこか毒々しい煌めきを放っていた。
「強制共鳴香──芯を、無理やり“目覚めさせる”香よ!」
綾が叫んだ。
「あぶない!そんな香……!」
「だが俺は、ずっと“何者か”になりたかった……!」
雪乃助の叫びとともに、煙が天を突き上げる。
その中心で、彼の芯が軋んだ。記憶の奥が暴かれ、感情が溢れ出す。
「誰かに“助けて”って、言われた気がしたんだ……でも……何も、できなかった……」
その姿は、燈の胸に突き刺さった。
「……わたしと同じ……。誰かの“影”にされて、ずっと彷徨ってたんだ……」
綾がそっと手を伸ばす。
「──違う。“あなたの芯”は、ちゃんとあった。名前がなくても、“誰かを助けたい”って気持ちが、芯の種になってる!」
雪乃助の瞳が震えた。
「……俺……まだ……なれるのか……?」
「なれるよ。芯は、選び取るものだから」
燈が言った。
「“影”としてじゃなく、“誰かの心に残る人”になって」
──そのとき、香が一瞬だけ、桜に似た優しい甘さを含んだ。
雪乃助の膝が崩れ、香壺が地に転がった。
「……名前、名乗れますか?」
綾がそっと訊ねる。
雪乃助は、ぽつりとつぶやいた。
「“雪時雨”って……昔、誰かが、そう呼んでた……」
涙が頬を伝う。
芯が共鳴し、生まれなおした瞬間だった。
──その様子を、ひとり見つめていた男がいた。
黒い外套の男。
瓦屋根の上、記録帳に何かを書き記しながら、静かに呟く。
「“芯なしの器”が、心を持ったか。
──ならば次の段階。“鏡芯”へと進もう」
その目は、すでに別の“素材”を見据えていた。
彼の足元に、試作中の香壺がひとつ。
中には、共鳴香と反転香を掛け合わせた、新たな式──
“自己像誘導式・鏡芯構成法”。
「──心を与えれば、“信じさせる”ことも可能だ。
名と芯を映し、香で他者に“錯覚”を焼き付ける。
次に必要なのは、“信じさせる綾”だ」
風が吹き、男の影が消えた。
瓦の上に残った香の余韻は、桜に似て──どこか凍るような、静かな寒さを帯びていた。




