第三十七話 名を継ぐ者
──夜が静かに降りた長崎。
倒れた雪乃助の香壺を拾い上げながら、綾は黙ってその香材の配合を見つめていた。
その中に──一枚、焦げかけた古い断片。
(……この文字……見覚えがある)
筆跡。丸みを帯びた書き方。香帳に挟まれていた母・うたの記録に、酷似していた。
そこに記されていた一節。
『香の芯は、名ではなく“願い”に宿る。
わが願いを継ぐ者に、この芯を託す』
綾の胸に、熱がこみ上げる。
(……母様……)
その文字は、まるで彼女自身の心をなぞるようだった。
「……“綾”という名は、私が選んだ。
でも、その芯は、母の香の奥に宿ってた──願いだったんだ」
燈は、香帳を覗き込みながらぽつりとつぶやいた。
「……でも、不思議だよね。“綾”って、もともと綾の名前だったのに、ずっと自分の名を探してたなんて」
綾は一瞬、顔を赤らめる。
「……そ、それは……知らなかったんだもの。まさか“綾”が、母様の芯だったなんて……」
そのとき、火皿の香を見つめていた志岐が、珍しく口を開いた。
「知らなかったからこそ、探せたんだろ。“自分で選んだ”ってことが、何より強ぇ芯になる」
綾はその言葉に、思わず目を見開く。
「……志岐?」
「最初から持ってたからって、気づけるとは限らねぇ。
……お前は、もう“綾”を自分の名前として、ちゃんと選び直した。そういうことだろ」
燈が、ふっと笑った。
「うん。それって、本当の意味で“綾”になれたってことかもね」
「俺も、悪かった。最初に疑ったのは俺だもんな。お前を誘導しちまったところがあったよ。」
綾は少し照れながらも、しっかりと頷いた。
「うん……。“綾”って名前を、わたしが“好き”って思えたから──きっと、これでよかったんだと思う」
志岐はなにも言わず、少しだけ横顔を逸らす。
──でもその背中が、“それでいい”と静かに肯定していた。
綾はふっと笑って頷いた。
「探してよかった。“綾”が自分で選んだ名前だって、そう思えるから」
「じゃあ……“芯”って、“記憶”とか“名前”より深いものなの?」
綾は、うなずいた。
「うん。“芯”は“誰かの祈り”と繋がってる。
母の“願い”が、私を通して香っているのだとしたら……私はそれを、次へ繋げたい」
──香りは名よりも深く、血よりも静かに受け継がれる。
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そのやり取りの背後で──
志岐がひとり、屋敷の縁に立っていた。
月明かりが、彼の横顔を静かに照らす。
薄く結ばれた口元。だが、その目には、なにかを押し殺したような光が宿っていた。
そのとき、影のように静かに現れた一人の男──
裃姿の密使が、頭を垂れる。
「綾殿の名が、完全に継承されました。“真名と芯”が一致し、蘭香流の儀式的資格を満たしました」
志岐は、わずかに眼を伏せる。
「……そうか」
「殿下、そろそろお戻りを。“徳川家継”様──
将軍家の座は、貴方の帰還を待っております」
その言葉に、ふたりの会話の背後──
屋敷の奥にいた綾が、ふと動きを止めた。
「……今、“家継”って……?」
綾が振り返る。
「志岐……あんた……まさか……」
志岐の隣に控えていた二人の護衛──
いずれも江戸言葉の武士で、綾には見覚えのない顔。
だがその目は、ただひとりを主と仰ぐ“忠義”に満ちていた。
「殿、お早くお戻りを。……この地も、もう安全とは──」
志岐は、手で制した。
そして、ただ一言だけを残す。
「すまねぇ。お前にだけは……黙っていたかった」
その声は、いつも通りだった。
けれど、“志岐”という名の奥にある真実を、確かに告げていた。
綾は、何かを言いかけた。
けれど、言葉が喉に詰まり、出てこない。
(……母の芯を、私は継いでいた。
志岐は、数年前に退位した元将軍だった。
たしか8歳くらいで亡くなられたと聞いていたけど。
じゃあ……私たちは、最初から──)
その想いの交差点に、夜の風がふたりの間を吹き抜けていった。
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その夜。
燈は、ひとり物陰に座っていた。手には、焦げた香帳の切れ端。
──その頁には、“器の名”として、何度も書き直された名が残っていた。
「綾」「綾」「綾」……その下に、かすれて見えた、“燈”という文字。
(私は、“綾になるため”に作られた。でも──)
その時、幼い頃の記憶が、ふっと蘇った。
──うす暗い小屋。幼い燈に香を嗅がせながら、誰かが囁いていた。
「“あなたの名はまだない。でも、あたたかい芯を持てば、それは香りに宿る”」
それは、優しい手だった。
唯一、自分を“人”として見てくれた誰かの手。
燈は、そっと立ち上がる。
「もう“綾”にならなくていい。私は──“燈”として、生きる」
彼女の香袋には、綾との調合で生まれた“共鳴香”が入っていた。
それは、“誰かになる”のではなく、“誰かと並ぶ”ための香。
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