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第三十五話 雪化粧の仮面

──長崎の空に、冬の気配が忍び寄っていた。


港にほど近い町外れの広場で、綾とあかりは“芯の共鳴香”の実験に取り組んでいた。


「……香が重なった……?」


綾の手元で、小皿から立ちのぼるのは、白檀と龍脳を芯に据えた深く落ち着いた香。

そこに、燈が持ち寄った白梅と黒胡椒が合わさることで、香りは互いを干渉しあいながら、新しい層をつくり出していた。


風がひと吹き抜けた瞬間、淡い幻のように、桜と雪が交差する情景が周囲に漂った。


近くで寝かされていた老人が、ふと目を開ける。


「……思い出した……母が焚いてた香……あれと似てる……」


燈が驚いて顔を上げた。綾も、深く息を吸い込む。


(……芯が揺れた。記憶の奥に届いた)


ふたりの香が“ぶつかる”のではなく、“響きあう”ことで、新たな共鳴が生まれた。


「……これが、“芯の共鳴香”──なのね」


芯とは、記憶の核。香がその芯に届けば、過去がほどけ、誰かの“名”が蘇る。


それは、ふたりの調香が初めて“誰かを癒した”瞬間だった。


____


老人の呼吸が安らかになったのを見届けて、綾は香包をそっと畳んだ。


「……届いたね。ちゃんと、“芯”に」


燈はまだ余韻の残る香の空間を見つめながら、小さく頷いた。


「“模倣”じゃなくて、“記憶に触れる香”……ようやく、私たちが創れた香だと思う」


綾は笑った。


「うん。でも、これでようやく“入口”に立てた気がする。

人の芯に触れるって、怖い。でも──守りたくなるの」


燈がそっと目を伏せた。


「……わたしも、ようやく怖さよりも、踏み出したいって思えた」


ふたりの視線が交わる。

それはもう“綾”と“影”ではなかった。

“綾”と“燈”という、ふたりの芯が、静かに共鳴した瞬間だった。



その夜、町の裏手。奉行所に近い屋根の上。


黒い外套の男が、火皿の灰を指先で撫でながら、誰にも聞こえぬ声で呟いていた。


「──“共鳴香”、発動確認。芯との接触により、記憶の回復を誘発……」


彼の目は、誰かではなく、群衆の“反応”を見つめていた。


「……次の兵の投入を許可する。“芯の干渉体”──雪乃助、投入段階へ」


暗闇の先。屋根の縁にもう一つの気配があった。

白い衣をまとい、目元に覆面をした青年──雪乃助が、静かに指を鳴らした。


「了解。俺の香、見せてやるよ。“共鳴”がどれだけ脆いもんか」


外套の男は、言葉もなくその姿を見送る。

“創香”の実験は、次の段階へと進もうとしていた。



その翌朝。


綾と燈は、薬種問屋の裏庭で調香器を広げていた。


「共鳴香は、揮発が早い。効果を持続させるには、次の調合が必要になる」


「構成材の組み替えか、それとも“芯そのもの”の再調整か……」


燈は香帳にメモを走らせながら、ふと顔を上げた。


「綾……わたしたち、次の段階へ行けるかもしれない」


綾は、力強く頷いた。


「うん、わたしたちの香で、“誰かの芯を守れる”なら、どこまでだって進んでみせる」


その言葉の先に──まだ見ぬ敵の香が、音もなく忍び寄っていた。



_______


──昼下がりの長崎、風は冷たくも、陽は穏やかだった。


綾と燈は市場の外れ、人気の少ない裏道で次の実験に取り掛かろうとしていた。


「……この香は、“過去”に触れるかもしれない。慎重にいこう」


燈が香包を開こうとしたそのとき──


「ずいぶんと楽しそうだな。“芯探し”ってやつは」


耳慣れぬ声にふたりが振り向くと、そこに立っていたのは、

白装束に身を包み、目元を覆った男だった。


肌は異様なほど白く、指先には香粉がまぶされていた。

腰には火皿、袖の奥には複数の香材包み。


「……誰?」


「名乗るまでもねぇさ。俺の香を嗅げば、すぐに忘れる」


燈が一歩前に出ようとしたその時、綾が手を出して制した。


(……この香の気配、嫌な重さ。これは……“芯を切る香”)


男はふたりに向かってにやりと笑う。


「俺は“雪乃助”。“芯の干渉体”って名で呼ばれてる。

俺の香はな、“芯を揺らがせる”香だよ。せっかく芽吹いたお前らの芯、ぐらぐらにしてやる」


香の煙がひと筋、風に乗って漂う。


その瞬間、燈の身体が小さく揺れた。


「……っ、なに、この感覚──記憶が……遠のく……!」


綾がすぐさま香袋を開き、香防包を撒く。


「燈、吸わないで! “芯調律香”で相殺する!」


ふたりの間で、香と香が衝突する。

その空気が、路地にひときわ強く流れ込んだ。


──だが、男はもう姿を消していた。


「……様子見、か」


綾が周囲を見渡す。


そのとき、近くの茶屋から人々のざわめきが聞こえた。


「なんだ、今の香り……一瞬、頭がぼんやりして……」

「おい、大丈夫か? お前、名前呼んだのに……返事がなかったぞ」


綾は顔を上げ、胸を押さえながら息を整えた。


(あの香は、“芯”だけじゃない。周囲の人の“名”さえ、ぼやけさせる……)


──それは、静かなる破壊だった。



志岐視点・その頃


志岐は、港の裏で将軍家の密使と再び接触していた。


「……“雪乃助”が動いた。奴は“共鳴の破壊”専門の刺客。

接触の報せが、複数の町民の“名の揺らぎ”として現れている」


志岐は眉をひそめ、ゆっくりと拳を握った。


「……あの男は、“香で名を消す”兵器そのもの。

もし綾の芯が完全でなければ──名前も記憶も奪われかねない」


密使が封筒を差し出した。


「……“粛清”の命令は正式に下った。

外套の男を含めた香術師網、“創香計画”そのものを止めよ。時を選ぶな」


志岐の視線が鋭くなる。


(──だが、綾は……まだ何も知らない)



市場・群衆の様子


その後、市場では小さな混乱が続いていた。


「ねぇ、さっき一緒にいたはずの女の子が、“自分の名前がわからない”って……」

「香……あれ、香のせいなんじゃないか?」


「また“香の綾”が現れて、助けてくれるかな」


「でも、今回は見てないぞ。逆に……危ない香じゃねぇのか?」


恐れと期待が入り混じる人々の声。


それは、“香”に救われた町が、ふたたび“香”に揺れ始めた予兆でもあった。



綾と燈は、静かに立ち尽くしていた。


「……燈。私たちの香、まだ未完成だ。

でも、もう逃げられない。今度は、ちゃんと……戦おう」


燈は頷いた。


「うん。私も、守りたい。綾と、自分の芯、そして──この町を」


──雪乃助との本格的な対決が、すぐそこまで迫っていた。


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