第二話 骨を結ぶ人(後編)
五
入り口で佇む志岐に気づいた綾。
( こやつ、なぜ私の行く先々に現れるのか。邪魔で仕方ない。)
綾は「はぁ。」とため息をつくと目線で志岐に近づくように促した。
志岐は気怠そうに歩みを進める。
風月の腕は、肩の関節から外れ、筋肉にねじ込まれるようにめり込んでいた。
綾は手ぬぐいをきつく巻き、肩の下に火鉢で温めた布を敷いた。
「腱が張りついてる。骨は抜けたまま縮んでるわ。……志岐、ここ押さえて」
「ここ?」
自分が助手役を務めるなど思っていなかった志岐は、驚いた様子で手を貸す。
( この人、ふらふらして何をしたいのかしら。)
少し怪訝な顔をしながらも綾は説明した。
「もう少し外側。肘を引っ張る前に、肩の筋をゆるめる」
志岐は言われるがままに風月の身体を支える。
骨を折った力士の肌は硬く、熱を持ち、少しの刺激で呻き声をあげる。
「すまねえ……お、俺、ちゃんとやってたんだ……でも、もっと強くなりたくて……!」
「強さって、なんなのかしらね」
綾は、声を荒げず言った。
「無理を重ねて、身体を壊すことが“強さ”だって言うなら、それはただの自壊よ」
冷やした麻布を肩に巻きつけると、綾は一気に力を込めた。
「せーの」
パキン。
空気を裂くような音がして、骨が関節に収まった。
風月が短く叫び、すぐにぐったりと脱力した。
部屋に、静寂が戻る。
「……終わったわ。あとは冷やして、三日は動かさないこと」
「……やっぱり、切らなくても……いけたんだな……」
親方が低く唸ったように呟いた。
⸻
六
綾が治療の手を休めたとき、志岐はひとつの盃を綾に差し出した。
「さっき、これを見つけた。中に“異国の粉”が貼りついてた。飲んだのはこいつだけじゃないはずだ」
綾が盃をひっくり返すと、底の紙に“力ノ源”と崩した文字が記されていた。
「香り、苦味、溶け方——おそらく西洋の強壮剤を模した模造品ね。ウワバミの粉に漢方の混合、それに阿片……」
綾は眉間に皺を寄せた。
「……こんなの、身体に効くわけがない。心を麻痺させて、動かしてるだけ」
志岐が目を細める。
「それを売ったのが誰か、見当は?」
綾は一瞬、黙った。
そして、静かに目を伏せる。
「……おそらく、父の診療録にあった“薬の使い手”……」(でも、それが母の失踪と関係しているかまでは、まだわからない)
志岐は考え込むように顎に手を置いて黙ったままだ。
「……ただの医療事件じゃない。これは、何かの始まりよ」
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七
相撲部屋の親方は、畳に手をついた。
「……すまなかった。あいつが飲んでたのは知ってた。だが、“皆がやってる”と止められなかった……」
「命より強さを選ぶ人は、弱さを知らない人よ」
綾の言葉に、志岐がふっと笑う。
「じゃあおれは、誰よりも弱いってことかもしれないな」
綾がちらりと志岐を見る。
「そうなの?」
「だってほら……この前、馬に蹴られかけた」
「……馬に嫌われる浪人って、聞いたことない」
「泣いていい?」
「だめ」
静かな笑いが二人の間に流れた。
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八
夕刻、綾と志岐は部屋を出た。
力士・風月はまだ眠っていたが、呼吸は穏やかで、血色も戻ってきていた。
「……志岐」
綾がふと呼びかけた。
「ん?」
「ありがとう。あなたがいなければ、わたし一人じゃ、今日の“骨”は結べなかった」
志岐は少し照れたように、干し柿をひとつ噛んだ。
「じゃあ、あれだな。おれの役割は、これからも“支える係”ってことで」
「ええ。蹴られないように、ね」
「……根に持ってない?」
「ちょっとだけ」
彼女の声には、ほんの少し笑いが混じっていた。
——町の通りを歩いていると、
ひとりの老人がふらりと前のめりに倒れ込んだ。
「じいさんっ……!」
通行人が駆け寄るが、誰もどうしていいかわからない様子だった。
「日射か? 息が荒い……」
綾は人だかりをかき分け、すっとしゃがみ込んだ。
手早く香袋を開け、2本の小さな管状香を取り出す。
「顔は赤くない。だけど、呼吸が浅くて脈が早い……」
(これは“気血逆上”かも)
—
香を1本、老人の胸元に近づける。
もう1本は腰のあたり——「下気」を促す位置へ。
「白檀と川芎の調合……、少しでも下へ流れて」
—
「お嬢さん、あんた何を……?」
「黙って見てて。あと30秒で呼吸が変わる」
老人のまぶたがぴくりと動く。
しばらくして、肩が上下しはじめ、
みるみる顔色が戻っていく。
—
「……助かったのか?」
「香が血を下げてくれたの。
この時期、熱を持ちやすい体質の人は、頭に気が昇って倒れるの」
綾はふうっと息をつき、香をそっと吹き消した。
—
「お、お嬢さん……名前を……」
「いらないよ。通りすがりだから」
そして彼女は、群衆を抜けて去っていった。
後ろに、煙と甘く澄んだ香りだけを残して。
綾が通りすがりの倒れた老人に香を使って応急処置をしたあと。
「……お前、ひとりか?」
志岐はなぜか、バツが悪そうな表情をしながらイライラした様子で聞いてきた。
「……そう見える?」
「じゃあ、しばらく俺と動け。勝手なことしてまた面倒に巻き込まれるな」
「なにそれ。命令?」
( 人をお荷物みたいに言って...不愉快極まりない。)
志岐はニヤッと笑い悪どい表情を浮かべながら言った。
「提案だ」
「……あんたの言い方、ほんとに気に食わない」
「俺もお前の態度は気に食わねえ。だが、それ以上に、放っておけないだけだ」
沈黙のあと。
「別にあんたと一緒に居ても、私に得はないから私は勝手に動くわ。」
「...つれねぇなぁ。わかったよ、じゃあ俺が勝手についてくから。」
「...勝手にすれば?」
(否定しても付いてきそうだから適当にあしらうか...背後には気をつけよう。)
志岐はほのかに柔らかく微笑んだ。
⸻
九
その夜。
志岐は一人、夜道を歩いていた。
彼の腰には、まだ抜かれたことのない刀が一振り。
その柄を、ふと見下ろす。
——かつて、抜けなかった日があった。
“誰かを斬れなかった”あの日が。
それでも、今なら支えられる気がした。
医の手を。
命を繋ぐ者の背を。
彼の歩いた道の先で、どこか遠くから、鐘の音が鳴っていた。
——また、何かが起ころうとしていた。
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《第二話『骨を結ぶ人』——完》