第三十四話 共鳴の先へ
──朝露が残る長崎の空に、柔らかな光が差し始めていた。
焼け跡の町も少しずつ平常を取り戻し、香材市には再び活気が戻りつつある。
「綾ちゃーん!」
豆腐屋の親父が笑顔で声をかける。
「例の桜の香、孫がずっと言ってるんだ。“綾姉ちゃん、ほんとに桜咲かせたの?”ってな」
「昨日の香、まだ残ってるよ。桜の香りって、あんなに続くもんかねぇ!」
「“香の綾様”、こっちこっち!」
干物屋の娘がはしゃぐように呼びかけ、綾は顔を真っ赤にしながら手を振った。
「も、もう……その呼び方はやめてってば……!」
綾は苦笑しながらも、そっと香袋に触れた。
「ふふ、人気者ですね、綾さん」
燈が小さく笑い、並んで露店の香材を眺める。
「でも、あの時は……本当に、綾さんの香で空気が変わったんです」
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その昼下がり、廃寺の裏庭。
ふたりはまた香を調えていた。
使うのは、かつて“芯の模造”に使われていた《仮芯香》。
燈が香材を指で選びながら、綾に訊ねた。
「本当に……これ、調合してもいいんですか? “模造の芯”って、あまりに危うくて」
「だからこそ、“私たちの目的”で使おう。模倣じゃなくて、“育てる香”に変えるために」
綾がそう答えると、ふたりは香壺を囲んで調合を始めた。
・白檀──安定の芯を持たせるため
・黒胡椒──記憶を刺激する
・薄荷──意識の明瞭化
・藁香──過去の香に通じる穏やかな記憶
・龍脳──感情の奥行きを開く触媒香
燈は、吸い込んだ瞬間、目を閉じて小さくつぶやいた。
「……思い出す……誰かに守られていた感覚。きっと、それが私の“芯”だったんだ……」
綾は微笑みながら頷いた。
「香に“耐える”んじゃない。“香の奥で、自分を見つける”の」
綾自身は、調合した香を試さなかった。
火皿を前に黙って立ち、やがて言う。
「わたしはまだ、怖いの。これ以上、何かを失ってしまうのが。
……だから、今はあかりの香を見届けるだけでいい」
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その夕刻。綾は志岐と並んで港を歩いていた。
「……名を奪う香。芯を焼く香。どこまで人は人でいられるんだろうね」
志岐は静かに言った。
「それでも、お前は“香の綾”で在り続けた。それだけで十分、強ぇよ」
綾は少し俯き、風に髪をなびかせながら呟く。
「志岐……あなたはずっと“誰かを守る顔”をしてた。でも、本当のあなたは……?」
志岐は言葉を飲み込んだが、やがてぽつりと答える。
「お前に、いつか言うよ。その時が来たらな」
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その夜、長崎の郊外──奉行所の裏手にて。
黒い外套の男は、新たな仮面の兵へと命を与えていた。
「“香の綾”とその仲間たちは、共鳴に至った。
ならば今度は、“共鳴を破壊する者”を送り込む」
彼の指が、香壺の蓋を開ける。
そこから立ちのぼるのは、記憶に反響するような、無臭に近い香。
「これは、“芯共鳴を破壊する香”──“無響香”。芯が育つ前に、鈍らせろ」
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──次の朝。
港町に再び“兵”が現れる。
だが今回は、笑顔をまとった“普通の男”だった。
「初めまして。“香材修復士”として派遣されました。名は──雪乃助」
町の人々が気づかぬうちに、綾と燈の周囲には、静かに“観察の網”が広がり始めていた──
──第三十三話・了




