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第三十二話 揺れる芯、交わる香

──雨が上がった翌朝、長崎の空には柔らかな光が差していた。


綾とあかりは、町外れの古い施療所の裏庭にいた。


木箱の中には、綾が集めた香材と、燈が密かに持ち帰っていた“模倣香”の断片。

ふたりはそれを前に、真剣な眼差しを交わしていた。


「この“仮芯香”、もともと“芯の模造”に使われていた香だけど……あえて使うの?」


燈は頷いた。


「芯を真似るためじゃない。……“芯を育てる香”に、組み直す。

他人の記憶をなぞる香じゃなくて、“私”として焚ける香に──」


綾は一瞬驚いたが、すぐに微笑んだ。


「──やろう。一緒に。“燈”の芯は、もう“影”じゃない」


ふたりは、木箱から慎重に香材を選びはじめた。


燈が手に取ったのは、香附子こうぶし──もともと模倣香の中心に使われていた素材だ。

それに、綾が勧めたのは黄蘗きはだの皮と、沈香じんこうの粉末。


「香附子は、香りに“既視感”を持たせる効果がある。でもそれだけじゃ、芯にならない。

黄蘗で芯に苦みを与えて、“抗う意志”を入れて。沈香は、深く、持続性がある香。芯を支える“柱”になる」


燈は小さく呟く。


「……なんだか、芯って……“香の中の人格”みたいだね」


綾はそっと頷き、火皿に炭を置いた。


「芯って、記憶や性格を“かたち”にするものだと思う。だから、揺れるけど、消えない。

……さあ、始めよう」


燈が香附子と黄蘗をすり鉢に入れると、綾が沈香をひとさじ重ねる。


練り香の土台には蜂蜜と米粉を少量加え、丸薬状に丸めた。


火皿に灯が入り、香がじわりと立ち上る。


まず、仄かに土のような、懐かしい香附子の香り。

次に、黄蘗の苦みが鼻腔を刺激し、やがて沈香がふたりの呼吸を静めてゆく。


「……これは……“私の芯”の香りかもしれない」


燈が、思わず手を胸に当てた。


綾は、彼女の香を一呼吸吸い込み、そっと微笑む。


「──うん。これは“誰でもない香”じゃない。“燈”の芯だよ」


風が吹き、香がふたりの間をふわりと揺れた。

それは、かつて影だった少女と、芯を探し続けた綾の、“共闘の香”だった。



その頃、長崎奉行所の裏手。


黒い外套の男が、灯りもない小道で一人、手紙を焼いていた。

灰となった文には、既に粛清された者たちの名が記されていた。


「“観察対象α──綾”、第六段階へ移行。

“共鳴香”反応あり。模倣体との調合テスト、段階Bへ──」


彼の声は感情を持たぬ報告そのものだった。


──だが。


その手元で、焼け落ちる香紙の香に、ふと目を細める。


「……芯を守る者がいれば、壊す者も生まれる。

だが“創る者”は、唯一だ。芯を“創造”し、記憶と名を植え付ける術。

お前が“素材”として成熟する日が、近い──“香の綾”」


男は燈ではなく、“綾そのもの”を見ていた。


その眼差しは、まるで試験管越しに人間の変化を観察する科学者のようであり、

同時に、“名を奪い、魂を創る”ことに快楽を覚える狂気も、わずかに滲んでいた。


焼けた香紙の最後の一枚が風に舞うとき、男は小さく呟いた。


「──内部の粛清は進んでいる。

邪魔者を消せば、“創芯”に必要な器は、いずれ静かに揃う」



その夜、志岐のもとを訪れたのは、黒羽織の密使だった。


──将軍家直属の報せ人。


男はひざまずき、低く言葉を発した。


「……急報にございます。

“内府”──すなわち、朝廷との内通が疑われる幕臣の一派に、“粛清”の命が下りました。

動きは水面下ですが、京に続き、長崎にも“目”が及ぶかと」


「綾の動きも、敵には既に筒抜けの様子。

香を扱い“芯”を有する者を、敵は確実に“次の核”と見做しております」


志岐は、焚かれていた香炉の火を無言で見つめていた。


「……粛清、か」


その言葉の響きは、過去に志岐が知る“処刑”とは異なる、もっと静かで冷たい手段を意味していた。

言葉もなく、“名”を消す。家も記録も、何もかも──芯ごと“無”に帰す。


志岐の眼差しには迷いはなかった。


だが。

その胸の奥にだけ──綾の横顔が、ふわりと香のように揺れていた。


(……お前が、巻き込まれるのは……許せねぇ)


彼は密使にだけ短く告げた。


「……策は講じる。“芯”は、渡さねぇ」



そして──


「……志岐?」


──志岐の声が聞こえたのは、異人屋敷裏の狭い路地だった。


瓦屋根の影から、綾は足を止めた。


ちょうどそこに、見覚えのない黒羽織の男がひざまずいている。

志岐は、いつもとは違う、異様に静かな声で話していた。


「……内府の粛清が動き出したか。……長崎も例外ではないな」


(……粛清……? 今、“内府”って──)


綾の息が止まりそうになった。


思わず一歩、足音を立ててしまう。


「……誰だ!」


護衛が瞬時に反応した。目にも留まらぬ速さで、懐に手を伸ばす──だが、志岐が手で制した。


「……下がれ」


護衛の男は一瞬の間のあと、空気のようにその場から姿を消した。気配も残さず、まるで幻のように。


──その残像の中に立ち尽くす、綾。


志岐が、ゆっくりと顔を向ける。


「……あなた、何者なの……?」


雨上がりの空の下、濡れた石畳に、ふたりの影が交差していた。


志岐の眼は、何も言わないまま、綾の瞳を静かに受け止める。

口元がわずかに動く気配を見せながらも──言葉は、落ちなかった。


沈黙が、しずくのように落ちた。


──それは、香でも剣でもない、

“信じていたはずの人の沈黙”が綾の芯を揺らす、静かな衝撃だった。


(信じたい。でも……わたし、知らなかった。

この人が何を背負って、何を隠してるのか──)


綾はただ、その場に立ち尽くした。


──“芯”が揺れたのは、香のせいではなかった。


——第三十ニ話・了


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