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第三十一話 はじまりの香


──長崎の港に、再び風が吹いた。


入港した異国船からは、新たな香材が荷下ろしされ、町には甘く、少し刺激的な香りが立ち込めていた。

焦土の傷が癒えはじめた町には、ほんの少しだけ、柔らかな空気が戻っていた。


「志岐、あれ……“竜血香”じゃない?」


波止場の荷揚げ場で、綾が目を輝かせて指差す先には、赤褐色の乾いた樹脂がぎっしりと詰められた箱があった。


「……ああ。記憶の色を濃くする香材だ。扱いを誤れば毒にもなるが、使いようによっては、“過去に意味を与える”こともできる」


志岐の解説に、綾はうなずきながら香帳を取り出し、ページの隅にちょこちょこと描き込む。


その横を通りかかった商人の親父が、声をかけてきた。


「おお、“香の綾”嬢ちゃん! この前の火のときは、命の恩人よ!」


「い、いえ、そんな……」


「いやいや、うちの女房なんて“桜の天女”って呼んでたぞい。なんか拝んでたし!」


「拝まれても困りますっ!」


志岐は横で、くっと笑いをこらえている。


「……ほら、芯があるってことだろ」


「出た、芯理論……」


綾は呆れつつも、どこか嬉しそうに笑った。



その午後、綾は“蘭館茶屋”を再び訪れていた。


「いらっしゃい!あら、“香の綾”ちゃん!」


迎えたのは、あのちゃきちゃきの女将。


「今日はねぇ、新しい異国茶が入ったの。ぶどうとナツメグと……えーっと、なんだっけ、なんか変な豆!」


「変な豆……?」


「まぁ飲んでみなって!あんたは香の娘なんだから、これがどんな香かわかるでしょ?」


綾は湯気の立つ異国茶をすくい上げ、くんくん……。


「……これ、クローブとカカオ……たぶん、滋養強壮の調合香に似てる」


「すごいねぇ! あたしゃ香帳どころか帳面も読めやしないよ!」


店の客たちが笑い声をあげる。

その中には、以前の火事で助けた老婆の姿もあった。


「綾ちゃん、あんたがくれたあの香袋、今も枕元に置いてるよ。よく眠れるんだ」


綾は照れながらうなずいた。


(香が“日常”の中にある……それが、きっと母のやりたかったこと)



その夜。


異人館の奥、静かな離れでは──

影の綾、いまは“あかり”と呼ばれる少女が、小さな火皿の前で香を焚いていた。


「……これが、わたしの香」


彼女が選んだのは、芍薬と桂皮、そこに少しだけ白蘇葉を加えた“和らぎの香”。


自分のために調えた、初めての香だった。


「──燈。いい名だね」


声をかけたのは、蘭館茶屋で会った通詞の青年。

彼は微笑んで、香を嗅ぐと目を閉じてうなずいた。


「ちゃんと自分で“香と名”を選んだ。……それが、芯になるんだよ」


燈も、柔らかく笑った。


「綾が教えてくれたの。“芯”って、強くあろうとすることじゃなくて、“自分で選ぶ”ことだって」



同じころ、町の外れの茶屋。


志岐と綾は、あたたかいまんじゅうをほおばりながら、湯呑を手に静かな夜を過ごしていた。


「なあ、次は何の香を作るんだ?」


志岐の問いに、綾はふっと笑って答える。


「“名前を贈る香”。燈が、名を芯として歩けるように。

……“香で始まる未来”って、母が言ってた気がしてね」


志岐は真顔でうなずいた。


「なら、俺は見届ける。お前が“芯を継ぐ者”から、“芯を贈る者”になる瞬間を」


綾は、香袋をぎゅっと握った。


──芯は、記憶の核であり、心の形。

その夜、町にふんわりと立ち上ったのは──

誰かを“はじめて名前で呼ぶ”ための、やさしい香だった。


──その夜、茶屋の縁側にて。


綾が香帳を書き終えたところへ、ぽつりと志岐が封筒を差し出した。


「……そういえば、届いてた。江戸から、こたろうの手紙だ」


「えっ、小太郎から!?」


綾は封を破き、墨のにじんだ文字を見つめた。



『あやちゃんへ。

しきのおじちゃんがいないから、かわりにごはんつくってます。

ぼくもつよくなったら、しきみたいにたたかえるようになるかな?

でもぼくは、あやちゃんみたいに、やさしいかおりをつくりたいです。

つぎ、あえるの、たのしみにしてます。

こたろう』



綾は読みながら、思わず鼻の奥がつんとした。


「……強くなりたい、じゃなくて。“やさしい香りをつくりたい”だって」


志岐は湯呑を置いて、ぽつりと呟く。


「芯だな」


「うん」


綾は静かに笑い、香袋を握った。


「……こたろうにも、名を贈ってあげよう。

“やさしい香”を作る芯を持った、未来の香師としての名前を」


風が吹いた。


湯気とともに、甘い香が夜空にほどけていった。





──第三十一話・了



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