第三十話 綾と綾
──一連の事件のあと。
長崎の町は、少しずつ日常を取り戻しはじめていた。
「綾ちゃん! あのときはありがとうよ! おかげで店、丸焼けにならずに済んだよ」
振り返ると、焦げた前掛け姿の豆腐屋が笑っていた。
「いえ……わたし、何も……」
「いやいや! あの香だよ、香! うちの孫なんて、“桜が飛んできた!”って泣いてたんだから」
「え、それは……」
「しかも“香の綾様〜”とか叫んでてさ。ま、名乗りにはちょっと勇ましすぎるけどな?」
「し、しません、そんな名乗り!」
周囲で笑いが起きる。綾は顔を赤くして両手を振った。
その横で志岐が、ぽつり。
「……悪くねぇ名だと思うがな、“香の綾”」
「なっ……! 志岐まで……!」
「いいんじゃねぇか? 芯がある」
「もう! 芯芯って、なんでも芯で済ますんだから!」
笑いながら、綾は香袋を握りしめた。
──日常の中にこそ、香は息づいている。
その笑い声も、香のように町に広がっていった。
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──雨が降る長崎の夜。
港に続く裏路地。瓦屋根を叩く雨音に混じって、ひとつの足音が響いた。
綾は、一人だった。
「……ここで、待ってるって言ってたのは……本当だったのね」
灯りの消えた異人の旧屋敷。その軒先に、影の綾が立っていた。
「来たのね。やっぱり──“本物の綾”は、強い」
綾は静かに答える。
「あなたが、わたしの“芯”を模倣しようとしても、なれなかった理由。
……わたし自身、ようやく分かってきた気がする」
影の綾は、手にひとつの香包を持っていた。
その指が、わずかに震えていた。
「芯は、香にあるんじゃない。……記憶でも、顔でも、名でもない。
“誰かを信じた記憶”──その重みだけが、人を人にするの」
綾の声は、冷たくも優しかった。
「あなたの中にも、誰かとの“絆”があるなら、それは“あなた自身の芯”よ」
影の綾の唇がわずかに揺れた。
「……でも、私は“作られた器”。
“名前”も“記憶”も、すべて借り物。私には、なにもない」
「なら、ここから“選べばいい”。
あなたの芯を──あなたの手で、灯せばいいのよ」
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その頃、屋敷の背後。
志岐は、外套の男の“気配”を感じていた。
視線の先、瓦の上に立つ影──黒い外套をまとい、記録帳を開いていた。
「“被験体A・芯共鳴試験、段階4へ移行”……観察完了」
志岐は声を低くしてつぶやく。
「……やっぱりお前が“観察者”か。香術師とは別に、上から全てを測ってる“指揮官”」
男は視線を落とし、志岐と目を合わせた。
「将軍の眼だな。だが、感情は観察の邪魔になる。
“綾”という素材が、どこまで芯を高めるか──それが我々の目的だ」
「ふざけるな。人の芯を“素材”と呼ぶな」
志岐の手が、刀の柄に触れる。
だが、外套の男はそれを見ても一歩も動かなかった。
「戦う気か? 君の役目はもう済んでいる。“芯”は、本人が決めるものだろう?」
男は、香壺を残して姿を消した。
雨がその匂いをかき消す中──志岐は刀を引いた。
「……決めるのは、綾だ。お前じゃねぇ」
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屋敷の中。
影の綾は、小さな火皿に香を灯していた。
それは、彼女が“自分で選んだ香材”で調えた、新たな香だった。
「……これが、わたしの“香”。
誰でもない、わたしが選んだ──芯の香」
綾は目を細めて、その香を吸い込んだ。
「……やっと、会えた気がする。“わたし自身”に」
影の綾は涙を一滴だけこぼし、綾と目を合わせた。
「ありがとう。“わたし”……じゃなかった、“綾”」
「ううん。あなたは、あなた。……“影”じゃなくて、“名前”をつけてあげなきゃね」
雨音の中、二つの香がふわりと重なって──やがて、ひとつの静かな余韻となった。
──第三十話・了




