第二十八話 炎と香と、名の記憶
──火は、香を連れて舞い上がった。
香術師が放った“魂斬香”は、町の芯を焼く焦土の香となって香材倉を包み込んでいた。
だが、その最奥──煙の中心に、確かに異なる香が立ち上った。
それは、桜香。
綾の香袋から漂う、やさしく、芯のある香りだった。
「おい、見たか……」
「いま、煙が……桜に変わった……!」
火の粉を避けていた町の人々の中から、誰かが呟いた。
「“香の綾”だ……!」
「え?」
「俺、あの子、茶屋で見たことがある。白檀と蜜皮の香袋を下げてて、昔の“香師うた”にそっくりだった」
「今も見える。煙の中で──あの桜の香袋が……」
一陣の風が吹き、煙が清められてゆく。
焦げた記憶と混ざった空気が、淡く澄んだ“綾の香”へと変わっていった。
──そのとき。
誰かが呟いた。
「……煙が、花びらみたいに見える……」
群衆の中に静かな驚きが広がった。
それは、香に含まれる“微細な粒子”と“日光の屈折”によって引き起こされた視覚現象だった。
熱気で揺らぐ空気の中、白く舞う香の粒子が、花びらのような残像を人々の目に焼き付けた。
加えて、火事という極限の状況で、脳が「救い」を求める心理的補正も作用した。
“香の綾”という名と、綾の持つ桜香。
そのイメージが結びつき、見た者の意識の中で、煙が“花”へと変わったのだった。
火の中から立ち上った“香の花”──
それは、恐怖の只中で生まれた一瞬の“希望”の錯覚だった。
そして──
香壺に封じられていた“名を奪う香”は、志岐の放った“芯安香”により中和され、沈黙した。
火は鎮まり、町に残ったのは、かすかな桜の余韻だった。
火の粉を避けていた町の人々の中から、誰かが呟いた。
「“香の綾”だ……!」
「え?」
「俺、あの子、茶屋で見たことがある。白檀と蜜皮の香袋を下げてて、昔の“香師うた”にそっくりだった」
「今も見える。煙の中で──あの桜の香袋が……」
一陣の風が吹き、煙が清められてゆく。
焦げた記憶と混ざった空気が、淡く澄んだ“綾の香”へと変わっていった。
「……やっぱり、“香の綾”なんだ」
「町を、香で救ったんだよ……!」
人々の間に、自然とその名が広がっていった。
──そして。
香壺に封じられていた“名を奪う香”は、志岐の放った“芯安香”により中和され、沈黙した。
それは、記憶の核に埋め込まれた“自覚”の層を削ぎ落とし、人間に「自分は誰か」という感覚すらも奪う、香術史上最も悪質な香だった。
火は鎮まり、町に残ったのは、かすかな桜の余韻だった。
⸻
──火が沈静化した直後、香材倉近くの空き地には、避難していた町人や負傷者たちが集まり始めていた。
綾は煙にむせながらも、倒れている女性の手首に手を当てる。
「……熱傷。呼吸も浅い。煙を吸ってるわ──!」
懐から香布を広げ、小さな香包を取り出す。
「白蘇葉と薄荷、あと……柚皮。これで気道をひらけるはず」
綾が香を指先で包み、火皿の残り火に近づけると、弱いがすっきりとした香が漂いはじめた。
女性の表情が少し和らぎ、喉がひゅっと鳴った。
「……吸えてる。息が通ってきた!」
(……よかった、間に合った)
「──その処置、見事だな」
ふと背後から声がする。振り返ると、そこにいたのは──
「先生……!」
以前、施療所で綾を咎めた中年の医師だった。
煤にまみれながらも、彼は何人もの負傷者を診ていた。
「まさかまた会うとはな。君、やはりただの娘じゃなかったか。いや、“香医”か?」
綾は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「ただの香好きです。でも……香って、こういう時のためにあると思うんです」
医師は頷いた。
「我々の薬では届かぬ場所に、君の香が届いていた。
──それが、“芯”というものなのだろうな」
⸻
火が消えたあとの町。
人々は呆然としながらも、少しずつ片付けを始めていた。
「おい……聞いたか? 火を鎮めたの、“香の綾”だってよ」
「“香の綾”? あの娘が……?」
「爆ぜた香を封じたって。名前の通り、香で守ったんだとさ」
「香の綾……まるで名乗りみたいだな。格好いいじゃねぇか」
綾は、遠巻きに囁かれるその言葉を、少し離れた場所で聞いていた。
「……香の綾、か」
「嫌か?」
志岐が隣で訊ねた。
綾は首を横に振る。
「……ううん。少し、くすぐったいけど──でも、“香で守った”なら、それでいい」
志岐はふっと笑った。
「名が独り歩きするのは、芯がある証拠だ。ようやくお前自身の香が立ち上がってきた」
綾は香袋を握り、静かに目を閉じた。
⸻
その夜、焼けた町の片隅で──
ひとりの黒衣の男が香壺の欠片を拾っていた。
香術師とは異なる、異様な気配。
それは、“黒い外套の男”。
「……綾の芯が、ここまで立ってきたか。
香術師の役目は、失敗ではない。あれは“観察”だった。
……情報は十分に揃った」
男は、小さな香瓶を取り出し、香壺の破片にかざした。
中に揺れるのは、桜に似て非なる、冷えた香。
「次は、“芯”を奪うのではない。“芯”そのものを、創る段階へ進もう。
香の器に、偽りの名を宿すために」
その言葉とともに、夜の闇が男の影を飲み込んだ。
ただ一筋──残された香だけが、町に薄く残っていた。
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綾は、焼けた香材の前にひざをつき、静かに灰を見つめていた。
「また“名”を壊そうとした。香で、芯を焼き、誰かを“無”にしようとしていた……」
志岐が隣に立ち、風に髪をなびかせながら言う。
「でも、香が町を守った。お前の香が、“芯”を守ったんだ」
綾は、そっと桜の香袋を胸に握りしめる。
「わたしの芯も、母の芯も……あの日、あの香の中にあった気がするの。
だから、消えなかった」
──その想いこそが、名を守る“香の芯”だった。
──第二十八話・了




