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第二十七話 氷蜜と焦げた記憶

──風が、町を焦がす予感を運んでいた。


夕暮れの長崎。

人々が家路を急ぐその背後、誰も気づかぬ路地で、一人の男が立ち止まっていた。


香術師──黒衣に身を包み、手には小さな香壺。

それを、静かに開ける。


「“芯”を守る香……そんなもの、育つ前に焼き払えばいい」


壺の中には、異国から密かに渡った揮発性の香材。

硫黄、精製樟脳、紅花油。

そして蘭香流が封印した“魂斬香こんざんこう”の粉末。


それは、「香」ではなく「爆」。

記憶も芯も、すべてを“焼く”ための禁忌香だった。


彼は町の香材倉の一つへと香壺を滑らせる。

小さな火種が、密かに口を開く。


「記憶も、名も──燃えてしまえば、何者でもなくなる」


──そして。


ゴウッ──!!


爆ぜるような音。

香とともに火が舞い上がり、煙は“芯のない香”となって、町の輪郭すら曖昧にしていった。



一方、町外れの茶屋。


「……それ、ほんとに食うのか?」


「もちろん。“葡萄氷蜜水”って書いてある。長崎でしか食べられないって」


綾が目を輝かせながら、ひんやりした氷菓をすくう。

志岐は苦笑しながら、その様子を見ていた。


「……まあ、観光の芯だな」


「観光にも“芯”あるの?」


「あるだろ。どこを歩いたか、何を見たか、食べたか──記憶に残るものが芯になる」


綾は小さく笑い、器を見つめた。


「……小太郎にも食べさせてあげたいな、これ」


「小太郎?」


「もう忘れたの?薄情なんだから。こ!た!ろ!う!」


「……ああ、あの子か。確かに、甘いもん好きそうだったな」


綾は少し寂しそうに微笑んだ。


「ちゃんと元気でいるかな……長崎にこたろうと来れたら、絶対一緒に来よう、この店」


志岐は頷き、そっと湯呑を置いた。


「……会えるさ。芯がある奴は、簡単に消えねぇ」


「へぇ。じゃあこの氷蜜が、わたしの芯に……って、なんか変な匂いしない?」


綾がふと鼻をすくめた。


「……甘いけど、奥に焦げ臭いような──」


志岐も顔を上げた。


「……香材が燃える匂いだ。しかも、自然火じゃねぇ。導火香が混じってる……!」


綾は立ち上がり、表に駆け出す。


「……火が出てる! 港の方──香材倉の近くだ!」


志岐も席を蹴って立ち、腰の香布を手にした。


「……急ぐぞ。あの匂い、ただの火事じゃねぇ」



火の手はすでに、香材倉から隣の茶屋へと広がっていた。

焦げた香が風に乗り、人々の意識を混乱させていた。


「避けて! そっちは危ない! 香に引火したら──!」


綾は布で口元を覆いながら、炎の中を走る。


「これ……“芯剥香しんはくこう”。記憶を曖昧にする香……!」


志岐はすでに煙の核へ向かっていた。


「火の中心に“導火香”がある。拡散を止めるには、そこを断ち切るしかねぇ!」



煙の中心、香術師の姿はすでになく、香壺だけが残されていた。

(……始めから、綾ではなく“町全体”が標的だったのかもしれない)


だが、残された香壺には──最後の一手が残されていた。


それは、“名を奪う香”。


記憶の輪郭をも曖昧にし、名乗るという行為そのものを封じる。

それが、香の最終兵器だった。


綾は駆け寄り、香壺へ手を伸ばす。


「……これだけは、使わせない……!」


だが、次の瞬間。


「綾、やめろ!」


志岐の怒声とともに、彼の腕が綾を引き寄せる。

香壺の前に立ちふさがり、自身の背で覆った。


「これは、“記憶の中枢”を焼く香だ。お前の芯どころか、魂ごと消されるぞ」


「でも……誰かが止めなきゃ……!」


「俺がやる」


志岐は即座に腰の薬包を開き、香壺の上に別の香をふりかけた。


「“芯安香しんあんこう”──蘭香流が毒香を封じるために使った封じ香だ」


火皿が鳴った瞬間、空気が切り替わる。


──ボウッ。


黒い煙が沈黙するように崩れ、空がひらけた。


綾の香袋から、そっと桜の香りが立ち上がる。


「……この香は、消えないんだね」


志岐は、微笑んで言った。


「芯がある香は、燃えても残るんだよ。想いと同じだ」



夜が明ける頃、焼け跡に集まる人々。


綾はその中心に立ち、香材の灰に指を当てていた。


「また……“芯”を壊そうとする者が現れた」


「でも、お前の香がそれを止めた。お前が、芯を守ったんだ」


志岐の声に、綾は静かに頷いた。


「……負けない。“芯”がある限り、何度でも立ち上がる」



遠く、高台の上。


ひとりの黒い外套の男が、町を見下ろしていた。


「──香術師は、やはり“実行”しかできぬか」


その声は、静かに笑っていた。


「……次は、“芯”を奪うのではない。“芯”そのものを、創る工程へ進もう」


手にしていた香の書を閉じ、男は風の中に姿を消す。


その場に残った香りは──

桜に似た、どこか冷たく、理性を欠いた香だった。


──第二十七話・了


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