第二十六話 芯灯(しんあかり)
──港の火は、まだ消えていなかった。
志岐に助けられた綾は、しばらく何も言えず、ただ自分の名前を心の中で繰り返していた。
(綾。わたしは綾。香の娘で、母の名を継いで──)
そんな中、志岐の腕の中からそっと身を離し、立ち上がる。
「……ありがとう、志岐」
「名を取り戻すのは、お前の力だ。俺はただ、それを支えただけだ」
志岐は短く言って、背を向けた。けれど、その背中にはほんの少し、緊張が残っていた。
「……まだ終わってねぇ。あの香術師、撤退はしても完全に消えたわけじゃない」
綾が口を結び、頷く。
「芯を狙われたのは、わたしだけじゃない。志岐、あの男……おそらく“芯”を奪って、何かを作ろうとしてる」
「“誰かを作る”。“記憶で塗り替える”。それがあいつらの技術なら──影の綾も、まだ危うい」
綾の眉が揺れる。
「彼女は、私の芯を写そうとした。でも、写せなかった。
……でも、きっとどこかに、彼女自身の芯があるはず」
「芯があれば、救える。逆に──壊されたら、もう戻れねぇ」
ふたりは沈黙のまま歩き出す。
その視線の先にあるのは、港の裏通り。夜の煙が消えきらず、異国の船が黒く沈んでいた。
──長崎の空は、今日も青く遠い。
綾と志岐は、ひさびさの外出に顔を上げていた。
向かうは、港から少し離れた異国人街。そこには、南蛮渡来の品や見たこともない甘味、香料の市が広がっていた。
「ねぇ志岐、あれ……“氷”よ。夏でもないのに!」
「異国からの船が持ってくるらしい。砂糖と果実を混ぜて、凍らせた菓子だそうだ」
「甘くて冷たいなんて……贅沢の極みね」
綾は、目を輝かせて屋台に近づいた。
志岐は一歩下がって見守る。まるで、はしゃぐ子どもを眺めるように。
「……ほら、こぼすなよ」
「ん。志岐も一口、どうぞ」
「俺はいらん」
「まぁ、つまんない。こっちは“いちごの蜜”だよ?」
「……少しだけだ」
ふたりは、少しだけ笑った。
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その後も、綾は異国の布に触れ、見知らぬ香木に鼻を寄せ、髪飾りを物色しながら小さくはしゃぎ続けた。
「これ、見て。まるで火を灯す香だよ」
「それは“龍涎香”。海の生き物から取れるらしい。香りに深みがある」
「……志岐って、香のことも何でも知ってるのね」
「必要だったからな。……生き延びるために」
ふと、言葉が空気を変えた。
綾は手を止めた。
「……あのね、志岐。わたし、こういう時間も“芯”のひとつかもしれないって思った」
「芯?」
「自分の“綾”って名前が、ただの記憶や技術だけじゃなくて、こうやって笑ったり、怒ったり、誰かと食べたりした時間にできてる気がするの」
志岐は目を細めた。
「──それは、いい芯だな」
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午後、ふたりは丘の上にある“異国の教会堂跡”にたどり着いた。
風に揺れる鐘の音。小さな礼拝堂の裏手には、かつて異国の香師が使っていたという“香の箱”が、苔むした石碑の奥に残されていた。
綾は、箱の蓋をそっと開けた。
中には、乾いた香草と、手書きの記録があった。
「……“記憶鎮静香”。これ、蘭香流の記述に似てる」
「誰かが、ここで香の実験をしていたのかもしれんな。
異国の香と混ぜることで、効果を“弱める”使い方……封じるための香か」
「誰かの、記憶を封じようとした……?」
綾の胸に、一瞬、母の面影が過った。
「ねぇ志岐。いつか……母の“記憶”が戻ったら。
それが、わたしのことじゃなかったら、どうしよう」
志岐は、一瞬だけ言葉を探した。
「それでも、“お前の香”は、母親の芯に届く。
……俺はそう信じる」
綾は、そっと頷いた。
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その夜、異人街の片隅で、ひとりの男が香を焚いていた。
「──芯に届く香。まさか“あの娘”が、そこまで来るとは」
黒い外套の男は、記録帳を閉じた。
「ならばこちらも、“観察”を進めよう。
芯が育ちきる前に、引き抜く方法を──」
風が吹いた。
その香は、ほんのり桜の香に似て、どこか冷たかった。
──その夜、香術師は再び姿を現す。
だが、その手には香だけでなく、“火”があった。
「香では壊せぬなら、焼けばいい。
“芯”を焼き尽くし、すべてを“無”にすればいいだけだ」
長崎の町に、火の香が混ざる。
それは、芯なき香──人の魂を失わせる、焦土の香だった。




