第二十五話 名を奪う香、名を守る刃
──廊下を渡る風が、ふわりと鼻先を撫でた。
(……桜?)
綾は足を止める。
それは母の香だった。甘く、少し湿り気のある、懐かしい香。
「……母様……?」
かすれた声でそう呟いたとき──
どこかで、扉が軋む音がした。
静かな気配。けれど、誰も見えない。
「……誰?」
返事はない。
代わりに、煙が立ちのぼっていた。
桜。甘香。だが──どこか、苦い。
(……この香……変だ)
思考が鈍る。
胸の奥がざわつく。
(わたし……名前……“綾”……あれ?)
まるで、言葉が浮かんでこない。
名前が、自分の中から滑り落ちていく。
_____
二
──煙の中、名前が遠ざかっていく。
足元がふらつく。言葉が、思考が、崩れていく。
(わたし……誰……?)
そのとき、闇の奥から囁くような声がした。
「──苦しかろう」
低く、穏やかで、否応なく心の奥に入り込む声だった。
「“綾”という名が、お前を縛っている。
母の面影、父の声、“芯”と呼ばれる執着……それらを捨てれば、楽になれる」
綾は膝をついた。呼吸がうまくできない。香が心の隙間に入り込み、過去の記憶さえもぼやけさせていく。
「お前の“痛み”は、名がつけたのだ。
“綾”である限り、過去も、責任も、永遠にお前を苦しめる」
言葉が、香よりも深く、綾の内面を侵してくる。
「──名前を手放せ。“誰でもない者”になれ。
そうすれば、お前は“ただ、生きるだけ”でよくなる」
香のせいだけじゃない。
これは、“言葉の香”。
心の芯を、“歪めるための術”だった。
綾は手をつき、声を漏らす。
「……違う……私は……綾で……」
「違う。“綾”はお前にとって、幻想だった。
望まれた姿。作られた顔。香の芯すら、誰かの遺産。
そんなものに、お前の価値はない」
涙が滲む。
香ではない。言葉で、心が壊されそうだった。
(だれか──)
そのときだった。
──風が、一気に巻き起こる。
香が一瞬、引いた。
そして次の瞬間、布が宙を舞うように割って入る。
「──名を奪うな」
低く、重く、凛とした声が響いた。
暗がりの先に立つ黒い影。
裾をなびかせ、冷たい目で香術師を睨む男。
志岐だった。
だがその瞳には、浪人でも、護衛でもない、“統べる者”の気配があった。
「“名”とは、刀と同じだ。持つ者を守り、時に傷つける。
だがな──他人が抜いていい刃じゃねぇ」
志岐は静かに一歩を踏み出した。
「“綾”は、お前が口出ししていい名前じゃない。
あの女が、己で選んで、ずっと握ってきた芯だ」
香術師が顔をしかめた。
「……将軍の血か。だが、お前にはそれしかない。
名と身分。奪えば終わる。そうして生きてきた者たちを、お前こそよく知っているはずだ」
志岐の目が、かすかに揺れる。
だが次の瞬間、背後の綾にだけ向けて、柔らかく語りかけた。
「綾。お前は、誰だ?」
──その声に、綾は顔を上げた。
「……わたしは、“綾”。香の娘」
志岐が、ふっと笑う。
「よく言った。“綾”は、お前の芯だ」
彼が再び香布を振り抜くと、空気の流れが一変し、毒香の気配が消し飛んだ。
綾は倒れかけた身体を志岐に預ける。
彼の腕が、しっかりとそれを受け止めた。
「……来るの、遅い」
「そう言うと思ってた。いいタイミングってやつはな、いつもギリギリなんだよ」
綾は弱く笑い、香袋を胸に握った。
──その芯には、名があった。
そして、その名はもう、奪わせない。




