第二話 骨を結ぶ人(前編)
午前の光が差し込む町はずれの茶屋。
奥の部屋から、すうっと香草の湯気が立ちのぼる。
「白芷に薄荷を一つまみ、あとは……今日は連翹でいいかしら」
綾は慣れた手つきで香茶を調合し、
湯を注ぎながら鼻を近づける。
「……少しきつい。お年寄りには柔らかめの香がいい」
背後から、店主のばあさまが声をかける。
「綾ちゃん、やっぱりあんたの調合は香りが立つねぇ」
「今日は風が湿ってるから、香が重く出やすいんです。軽い方が飲みやすいと思って」
茶屋の前には、足腰の悪そうな老人や旅人がちらほらと座っている。
「この香りの茶は、腸にもええらしいな」
「おなごの子の手前、香がいいと気持ちも明るくなるわ」
客のそんな声を背に、綾は少しだけ口元をゆるめた。
—
休憩の合間、彼女は裏の細道へ出て、香袋を取り出す。
「このあたりで手に入る香草でも、けっこういける……かも」
風に乗る香りを確かめながら、静かにひと息つく。
茶屋の仕事を終えると、綾は一言店主のおばあさまに声をかけ茶屋を後にした。
「お疲れ様でした。お先に失礼します。」
「あら、どこかおでかけ?私も夜は寝てしまうから、早めに戻るのよ。」
おばあさまは優しげに綾に語りかける。
「ありがとうございます。」
少し顔を俯けたまま、遠慮がちに答えた。
( 身寄りのない私を住まわせてくれるのはありがたいが、無償で住まわせてくれるなんて最初は思わなかった。いつまでも頼ってばかりはいかないからな。)
茶屋を出た綾は、あちこちの掲示板を見ては、足を止めていた。
「借家あり」の札。
管理者への連絡先。
でも、どこも古くて、人気がなくて……。
(雨風がしのげればいい。そう思ってたはずなのに)
どの家も、なぜか――“匂いがしなかった”。
(あたし、知らない場所でも“香り”がしないと落ち着かないんだ)
香袋を握りしめたまま、綾はまた一軒、家を後にした。
一
重たく湿った朝の空気が、長屋の裏通りに垂れ込めていた。
大男がひとり、倒れていた。
柱をへし折って突っ込んだその巨体は、まるで瓦礫の山。腕は不自然な角度に曲がり、骨が皮膚の内側を押し上げていた。
「風月! おい、しっかりしろ!」
弟子たちの叫びが飛ぶ中、親方の鉄拳が空を裂いた。
「稽古中にふざけたことを! 何度言えばわかる! 足運びをおろそかにしたから、こうなるんだ!」
その横で、弟弟子のひとりが青い顔で呟いた。
「ち、ちげぇんだ親方……兄貴、飲んでたんだよ……あの粉入りの水を……」
「黙れぇ!」
張り手が弟子の顔に飛び、バチンと甲高い音が響く。
だが誰もが気づいていた。
——風月の体に起きているのは、ただの脱臼ではない。異常なまでの筋の膨張、皮膚の張り裂けるような違和感。そこには、“何か”が混じっていた。
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二
その日、綾は町外れの施薬所で、黙々と干した薬草を分けていた。
乾燥させた牛膝草を炙り、抗炎症の煎じ薬を調合している最中、戸が叩かれる音がした。
「おいっ、綾殿! ちょいと来てくれ!」
訪ねてきたのは、いつも出入りしている薬売りではなく、相撲部屋の弟子だった。額に汗をかき、呼吸も乱れている。
「力士が倒れました。腕が……骨が……! 町医者は“切り落とすしかない”って……」
「骨が抜けた? いや、“飛び出してる”なら、外科でも手遅れじゃない」
綾はすぐさま手を止め、薬籠を掴んだ。
「案内して。氷と酒、あと火鉢があれば用意して」
「え、酒……?」
「冷却、殺菌、麻酔。全部よ」
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三
志岐はその様子を物陰から見ていた。
腰を壁に預け、口にくわえた干し柿を噛みながら、ゆるく呟く。
「また朝からあの娘さんは働き者だな……」
通りかかった子どもがじっと見ていたので、志岐は干し柿をひとつ差し出した。
「食うか?」
「変なおじさんからはもらうなって……」
「……うん、正しい教育だ」
少しだけ傷ついた顔で干し柿をしまい、志岐は綾のあとをつけて歩き始めた。
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四
相撲部屋の土間に足を踏み入れた瞬間、鼻を突くような独特のにおいが志岐を包んだ。
「……ん?」
それは汗とも血とも違う。
どこか甘ったるくて、鼻腔の奥に残るような香り。
——かつて、密輸現場で嗅いだことがある。
(あれは……異国製の強壮薬……)
綾はそんな志岐の様子も気にせず、風月のそばにしゃがみ込む。
「力を抜いて。動かないで」
「……いてえ……ッ! うぐぅ!」
「叫んでもいい。……でも動いたら、切断」
部屋が一瞬、静まり返った。
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(つづく)